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第6章「夜明けの会話と新たな一歩」(2)

 保健室の扉をノックすると、中からしっとりとした声が響く。

 開けると、白衣を着た保健医・榎本真理が椅子に座っていた。

 ショートヘアを落ち着いた感じでまとめ、笑みを浮かべているが、その瞳には何か鋭いものを秘めている。


「また頭痛かしら?」

「はい……ちょっと寝不足で……」


 シンがよろけると、榎本は「どうぞベッドへ」と促す。

 コウタは「先生、本当にこいつ大丈夫なんですか? 単なる寝不足だけじゃない気がするんですけど」と半ば食い下がるように言う。


「そうね、病院で検査するのが一番いいと思うわ。とりあえず少し横になって。私ができるのは応急処置くらいだから」


 榎本はそう言いながら、棚の方にあるファイルをちらりと目で確認し、すぐにシンへ向き直る。

 その仕草は決して大げさではないが、シンはふと違和感を覚えた。


「じゃ、シン、あとで迎えに来るからな。しっかり休めよ。先生、こいつ頼みます……」


 コウタがやや渋い顔で頭を下げ、保健室を出ていく。

 シンはベッドに倒れ込むように横になり、まぶたを閉じた。


「夜眠れないのは、何か心配事があるからかしら?」


 榎本がやさしい声で探りを入れるが、シンは口を濁す。


「無理はしないでね。私ができることがあったら、協力するわ」


 榎本は微笑むが、その目はどこか冷静すぎる。

 シンはそれをうっすら感じながらも、頭痛に耐えきれず意識を手放しかける。

 そのとき、棚の奥に“研究”という文字が少しだけ見え、ファイルの背表紙がのぞいた気がするが、もはや考える余裕はなかった。


 ◇◇◇


 ベッドで短い睡眠をとり、昼休み前に保健室を後にすると、コウタとナツミが教室で「しっかりしろよ」と待ち構えていた。

 それから午後の授業をなんとかやり過ごし、放課後、シンは廊下でまたユキと出くわす。


 ユキはノートを小脇に抱え、窓の外をちらりと見ていたが、シンの姿を認めると無言で一礼するように首を下げた。

 その仕草は小さくとも丁寧なもので、クラスの他の生徒に対してはあまり見せない態度だ。


「昨日はありがとう、助かったよ。ホントに……」


 シンが言葉を選ぶように声をかけると、ユキは軽くまぶたを伏せて頷く。


「どういたしまして……」

「疲れてないか? 朝まで起きてて大丈夫だったか?」


 ユキは少しだけ口元を動かすが、返事にならない何かを飲み込み、数秒後に視線を外した。


「私は……大丈夫。慣れてるから」

「そっか……」


 会話がぎこちなく続く。


「昨日……何か言いたそうだったけど……」

「気にしないで……」


 ユキは短くそう言うと、踵を返して歩き出す。

 シンは追いかけたい気持ちがあったが、結局そのまま見送る形になった。


(彼女も何か苦しんでるんじゃないか? でも言ってくれないし……俺から聞き出すのも無理があるよな……)


 そんなモヤモヤを抱えながら下校していると、コウタに「お前、あのクールビューティーと何話してんだ?」と茶化される。

 シンは曖昧に笑って「何でもないよ」とごまかし、家路についた。


 ◇◇◇


 夜。シンは家に帰ると母親が「今日は大丈夫だった?」とおずおず声をかけるが、シンは生返事で済ませ、夕食をそこそこに自室へこもる。

 母親の口からは結局何も出てこない。

 児童心理研究所のことも、具体的に何があったのかも説明はされないままだ。

 二人の間には相変わらず溝がある。


 部屋でノートを開き、今日の出来事を必死に文字にする。

 ユキに対する感謝、母親への不信感、そして保健医・榎本の探るような眼差し。

「病院に行け」と言われても、自分がどう説明すればいいのか見当がつかない。

 能力とか研究とか、そんな荒唐無稽な話を信じてくれる病院があるのだろうか、とさえ思う。


「忘れたくない。彼女が襟を直してくれたこととか、覚えていたいんだよ……」


 誰にともなく呟きながらペンを走らせる。

 しかし頭痛がじわじわ増し、指が震えて文字が曲がる。


「やっぱり寝不足はきつい……」


 ベッドに倒れ込むようにして、意識が遠のく。

 室内の灯りを消す気力もなく、まどろみの中で天井を眺める。

 まぶたの裏にユキの硬い表情が浮かび、母親の悲しげな顔がちらつき、榎本の鋭い視線が突き刺さるようにイメージされる。

 ああ、こんなままじゃ自分が崩れてしまうかもしれない、と漠然とした恐怖が夜の闇に溶けていく。


 ◇◇◇


 黒江ユキは夜の自室で鏡を見つめていた。

 髪をほどき、制服をハンガーに掛けるが、ふと「襟を直した自分の手」を思い出して動きが止まる。

 指先の感覚がまだ残っているようで、思わず右手を凝視する。


「彼の襟……何で私は、あんなことを……」


 声を漏らしても、自分自身にもわからない。

 その場の勢いだったのか、ただ気になっただけか。

 あるいは、読心力が彼の不安を強く拾ったからなのか。

 ユキはわからずに唇を噛む。


「ユキ、学校はどうだった?」


 リビングのほうから母親の声が届くが、ユキは面倒臭そうに「普通」とだけ答える。

 母親の足音が近づいてきて、ドア越しに話しかける。


「ご飯、用意してあるけど……食べる?」

「いい、あとで食べる」

「そう、無理はしないでね」


 足音が遠ざかり、ユキは「ああ、やっぱり私……何も感じないや」と息をつく。

 以前なら母親が気遣ってくれた言葉にも多少は温かい気持ちを抱いていたはずが、今はほとんど感情が動かない。

 唯一、シンのことを考えたときだけかすかな痛みが生まれるが、それが何の感情かわからず苛立ちを感じる。


「あの時、何を感じてたんだろう。私……本当におかしくなってる……」


 思い切り枕に顔を埋め、ベッドに転がる。

 視界が暗くなり、頭の奥で他人の感情を拾ってしまった記憶が交錯する。

 昔から読心の力があり、子どもの頃は周囲の感情に飲まれて何度も倒れそうになった。

 だから他人とは必要最低限しか関わらないようにしてきたのだ。


「彼は……何か抱えてるのに、私には何もできない……。むしろ、私が近づいたらあの人の不安をさらに拾ってしまう……」


 ユキはひとり言を呟き、かすかに眉を寄せる。

 苦痛とも虚しさともつかない感覚が全身を侵す。

 自分の感情が消えていく恐怖と、相手の感情を察しすぎる苦痛。

 両方が絡み合い、行き場のない焦燥感だけが残る。


「どうすればいいの、これ以上……」

 

 吐き出す声もかすれ、やがてユキは思考を止めるように目を閉じた。

 誰も助けてくれないし、助けを求めてもいいのかどうかもわからない。

 気づけば体が重く、すぐに浅い眠りへ沈んでいった。


 ◇◇◇


 保健医の榎本は学校の保健室で残業しながら、一枚のファイルを開いていた。

 「研究資料」とラベルされたそれには、被験体情報らしき番号や断片的なデータが並んでいる。

 榎本は書類をめくりつつ、スマホの画面へ何やら報告を打ち込んでいるようだ。


「白山シン……黒江ユキ……双方とも症状は進行中。記憶障害と感情麻痺……予測以上に深刻……」


 低い声で呟くが、その瞳には罪悪感が滲む。

 教師として生徒を守る使命感と、研究施設に情報を送る義務の間で葛藤を抱えている。

 「これ以上……苦しませたくない……でも……」と唇を震わせ、結局ファイルを閉じる。


「ごめんなさい……」


 誰に向けた言葉でもなく、暗い保健室に響く。

 そのまま榎本は書類棚へファイルを戻し、鍵をかける。

 視線は窓の外の夜空へ向かい、「明日こそは……」と小声で囁いた。


 ◇◇◇


 一夜が明け、シンと微睡みから目覚めた。

 シンはノートに書いたメモを読み返しつつ、母親とほとんど会話をせずに家を出る。

 

 朝のホームルームで、コウタがシンに「今日は大丈夫か?」と何度も訊いてくる。

 ナツミが「ほんとよ。マシになってるならいいけど」と言いながら、妙に安心した笑みを見せる。

 クラスの中ではそれなりに友人たちが心配してくれているが、シン本人は(俺、いつまで覚えていられるんだろう……)と不安が消えない。


「シン、マジで無理すんなよ?」

「ありがとな、コウタ。ナツミも……ごめん、心配かけて……」

「いいのいいの、あんたいつもそうだから。ま、倒れない程度にしなさいよ」

 

 シンはふとユキに視線を向ける。

 ユキは教室の隅で黙々と教科書を読み、大げさな声を上げるクラスメイトたちを横目にやり過ごしていた。

 そして、時折シンの方を見るような素振りを見せる。

 見られたシンも彼女を見返すと、ユキはすぐに視線を外してしまうのだった。


(彼女も……俺と似たように、話しづらいことがあるんだろうか……)


 シンはそんな思いを抱えながらノートを開き、「忘れたくない」と鉛筆を握りしめる。

 自分の中で“何かが奪われていく感覚”を強めに実感しつつ、母親やユキのことを頭痛とともに思い浮かべる。


 このまま何も変わらないのか、それとも施設の秘密を知ってしまえば何かが大きく変わるのか――。

 シンの心は、母親とのすれ違い、ユキの不思議な優しさ、榎本の意味深な視線に挟まれて、ますます裂かれていく気がしてならなかった。



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