第6章「夜明けの会話と新たな一歩」(1)
「母親に隠し事されてたんだ」
そう独り言のように漏らすと、シンの隣に座るユキが、かすかに顔を上げた。
「……隠し事……?」
ユキの声はか細く、まるで風に溶け込むように低い。
彼女は視線を伏せたまま、シンの言葉をうかがうように耳を傾けているようだ。
「うん、たまたま“児童心理研究所”って書かれたファイルを見ちゃってさ。母さんがずっと隠してたらしいんだ。でも、どうやら昔の俺に関わる資料なんだって」
「そうなんだ……」
ユキの返事は短く、相づちのようにも聞こえるが、確実に興味を示している気配がある。
彼女の瞳は夜風にさらされ、ほんのり濡れたように見えるが、表情自体はほとんど変わらない。
「俺、物心つくかつかない頃に“その施設”へ通ってたらしいんだけど全然覚えてないんだ……いや、覚えてないっていうか、記憶が抜け落ちてる感じがするんだ。最近特にひどいみたいだ」
シンは半笑いになりつつ、胸を痛める。
これまでも忘れ物が多い奴だとクラスメイトにからかわれていたが、ここ数週間は“天然キャラ”では済まないレベルで記憶が怪しい。
「それ、怖くない……?」
ユキが問う。
言葉数は少ないが、そこには何か切迫したものを感じさせる緊張があった。
「正直、怖い。でも母さんはちゃんと教えてくれない。『ごめんね』しか言わなくてさ。俺が昔何をされたのか、何で記憶がこんなに飛ぶのか、さっぱりわからないままで……」
ユキはさらに視線を落とす。
シンはユキの黙り込みを見て苦笑し、「ごめん、急に変な話して……」とボソッと呟く。
するとユキはかすかに首を振る。
「ううん。話したいなら……話して」
「ありがとう……」
シンはその言葉にわずかに救われた気がした。
ユキは何も言わないが、聞いてくれるだけでも十分だった。
夜のコンビニ前は、街灯の白い光がアスファルトを照らし、店舗から漏れるネオンが二人の影を伸ばしている。
車はほとんど通らず、風がひゅうと吹くたびに肌寒さが増してきた。
「今は、何も解決しないまま母さんと気まずくて……俺、家に帰る気になれなかった。馬鹿だよな、逃げてても仕方ないのに」
「そうかもね。でも、私だって今ここにいるんだから……お互い様、かな」
ユキがポツリと返す。
シンはその言葉に目を丸くしつつ、少しだけ唇が緩んだ。
シンは空を見上げる。
雲がうっすらとかかっているが、うまくいけば夜明けの星くらいは見えるかもしれない……しかし街灯の光が強すぎて、星は何も確認できない。
(明るいんだか暗いんだか、どっちつかずだな)
そう思っていると、ユキが立ち上がり、か細い声で言った。
「そろそろ朝になるけど、どうする? ここにずっといるの……?」
「いや……家に戻るよ。母さんがやっぱり心配してるはずだし……話す気はないみたいだけどさ」
「わかった……」
二人はコンビニに立ち寄って温かい飲み物を買った。
外へ出ると、薄青くかすんだ空が見えてきた。
まばらに車が走り始め、新聞配達のバイクの音が聞こえる。
「風邪ひかないように……」
ユキが小さな声でそう言い、シンのブレザーの襟をそっと直す。
折り目が崩れていたのを見て、何のためらいもなく指先を伸ばしたのだろうが、その行為にシンは思わず胸が高鳴る。
「あ、ありがとう……」
微妙に照れくさい空気が流れ、シンは視線をそらす。
ユキは「別に……」と返しながらも、わずかに頬を朱に染めたように見える。
しかしすぐに表情を戻した。
コンビニの自動ドアが開閉する音だけが響く。
シンは、最後に彼女へ向かってゆっくり言葉をかける。
「ありがとう、マジで助かった。正直、一人じゃ無理だったかも……その……また学校で……」
「うん……」
ユキはそれだけ言うと、踵を返す。
朝日が彼女の横顔をかすかに照らし、黒髪が薄く色づく。
その姿がやけに眩しく映り、シンは思わず目を細めた。
彼女の後ろ姿が小さくなるまで、シンはベンチから動けなかった。
心臓がドキドキするのを抑えきれず、結局何も言い足せないまま見送る。
シンは歩き出した。
やや冷たい風が頬に当たり、夜明けの匂いとともに眠気が襲ってきた。
◇◇◇
玄関のドアを開け、リビングに入った途端、シンは母親の姿を見つけて眉をひそめる。
母親はテーブルに突っ伏すようにしていたが、シンの足音に気づいて「シン……?」と顔を上げる。
いつも優しげな目をしている母親だが、今は疲労と隈がひどく、若干やつれているようにも見えた。
「どこ行ってたの……ずっと……」
「別に変なことはしてないよ」
「そんなのわかってるわ……心配したのよ、あんたが帰ってこないから……怒ってるんじゃないかって」
母親の声は震えがちだ。
彼女の視線はテーブルの上の資料に落ち、手がわずかに震えているのが見える。
シンはその様子を見ても、素直に心配に応えられる気持ちにはなれない。
「別に……怒ってるってわけじゃない。けど、母さんが話してくれないなら、どうすればいいのか俺もわかんないよ」
そう言いながら上着を脱ぐ。
母親は「ごめんね……」と消え入りそうな声で繰り返す。
「子どもの頃、あんたがあの施設に通ってたのは……あたしも、どう説明していいかわからないの。すごく後悔してるし……でも、責められるのが怖くて……」
「いいよ、もう。夜通し起きてたんだろ? 俺、朝飯食べて学校行くから……」
突き放すような口調で言うと、母親はまた涙ぐむ。
ここでさらに問い詰めたところで何も進まないだろうというシンの考えが、苛立たせる一方で諦めも感じさせた。
朝食のためにテーブルへ座ると、パンと簡単なおかずが用意されていたが、母親の手は震えたままだ。
「何か言わなきゃ」と思いながら言葉が浮かばず、シンは黙々とパンをかじる。
「食べたら学校行くよ。昨日全然寝てないから、正直しんどいけど……」
「そう……無理しないでね……」
二人の間に生まれる沈黙が痛いほど重い。
母親は言葉を探そうとするが見つからず、シンはパンの味もよくわからないまま胃へ流し込む。
空気だけが硬直し、互いに視線を合わせようとしない。
「それじゃ、行ってきます」
「気をつけてね……」
出かけ際に母親が小さく呼び止める気配を見せるが、シンはそのまま扉を開けて外へ出る。
朝の光が目に染みて、思わずまぶたを強く瞬かせた。
◇◇◇
学校に滑り込んだのは予鈴が鳴り終わる直前。
シンは息を切らしながら昇降口で上履きに履き替え、教室へ向かう。
そこには同じクラスメイトの御影コウタが待ち構えるように立っていた。
「シン、やっぱギリギリだな。お前、マジでどうしたんだよ? 朝から顔色悪すぎじゃね?」
「色々あったんだよ。大丈夫……たぶん……」
シンはとりあえず教室に入り、ホームルームに間に合う。
風間ナツミが「おはよシン、あんたまたクマ作ってない?」と軽口を叩いてくるが、シンは力ない笑みを返すだけだ。
その時、視線を横に向けると窓際でユキが教科書を広げている姿が見えた。
彼女はいつも通り無表情で、周りの賑やかさに耳を貸さないようにしている。
だが朝のホームルームが終わったとき、何気なくシンの方へ一瞬だけ視線を投げかけた。
やはり表情は変わらないが、シンはその一瞬に妙な温かさを感じ取り、軽く眉を上げる。
(何だろう。この感じ。彼女も気にしてくれてるのかな……)
ホームルームが終わり、一時間目が始まると、シンは眠気が襲ってきてノートを取るのも辛くなる。
コウタが横から「耐えろ耐えろ」と囁くが、ほとんど限界で、二時間目が終わる頃には頭がガンガンしていた。
「おい、シン、もう保健室行けよ。顔色やばいぞ……」
「ああ……そうするよ」
シンは椅子から立ち上がり、視界がふらつくのをこらえながら廊下へ出る。
そこへナツミが「あ、シン、行くなら付き添おうか?」と声をかけるが、コウタが「俺が行く」と先に手を挙げる。
「ナツミは先生に言っといて。欠席扱いじゃなくて保健行きって」
「了解了解。じゃあよろしくね」
そんな会話を背中で聞きながら、シンは壁に寄りかかって頭痛を必死に耐える。
「ほら、行くぞ。落ちるなよ……」
コウタがシンの腕を支えながら保健室へ向かう。
廊下の先にある大きな窓から朝日が差し込み、目がちかちかする。
シンはまぶたを細めて首をすくめるのだった。




