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第5章「記憶がすり抜ける夜」(2)

 シンは帰宅すると、玄関の靴を脱いでリビングに入る。

 すると、母親が何やら古いファイルを広げていた。

 そこにはっきりと「児童心理研究所」と印字があるのが見えて、シンはドキリとする。


「母さん、それ……何?」

「え、これ? 別に……昔の書類を整理してただけよ」

「『児童心理研究所』って書いてあるよね? 俺、なんでか知らないけど、その名前に聞き覚えがあるんだ……」


 母親は急に慌ててファイルを閉じ、「それは……本当に大したものじゃないから。気にしないで」と早口で言う。

 シンは違和感を覚え、「母さん、何か隠してるの? 俺の記憶がやばいのと関係あるわけ?」と詰め寄る。


「違うの、シン。あなたのために、昔ちょっとしたカウンセリングを受けさせてただけで……何も変なことじゃないのよ。あなたを助けるためには必要だったの……」

「助ける? 俺って何が悪かったの? 病気だった? それとも……俺の“力”のこと?」とシンは声を強める。


 母親はしどろもどろになり、「ごめん、今は話せないの。いずれ話すから……」と答えを濁す。


「いずれって、いつだよ! 俺は今苦しんでるんだぞ……。何で母さんまで隠すのさ!」


 シンは思わず拳を握りしめ、大声を張り上げる。

 その怒りに反応してか、リビングのテーブルに置かれていたコップが数ミリ震え、「カタッ……」と音が立つ。

 母親は顔を上げるが、気づく前にシンがさらに怒鳴る。


「こんなの……もう嫌だ。俺、母さん信じられなくなるよ。隠し事ばっかで……何が助けるため、だよ……」

「違うの、シン……わかってちょうだい、あの施設は……」


 言いかけて母親は唇を噛む。

 シンは限界の苛立ちと悲しみで、頭痛が最高潮に達し、「もういい!」と叫んで家を飛び出した。


 ◇


 外は既に夕暮れから夜の帳へ変わりつつある。

 シンは意味もなく街を歩き回る。

 公園のベンチに座ってみても落ち着かず、商店街へ足を運ぶが店はシャッターが下り始め、人気がない。

 胸が苦しい。

 頭痛が止まらない。

 涙がこぼれそうになるのを何とかこらえつつ、街を彷徨い続けた。


「母さんまで隠すなんて……何がどうなってるんだ……」


 呟きながらアスファルトの道をとぼとぼ進む。

 何も食べていないし、コウタやナツミに連絡する気力もない。

 ふと見上げると、コンビニの看板がわずかに光を投げかけている。

 「飲み物でも買おうか……」と思うが財布の中身を確認するのすら面倒で、店の前の細いベンチに腰を下ろす。

 虚空を見つめたまま、記憶がこぼれ落ちていく恐怖に飲み込まれそうになる。


「全部思い出せれば、解決するんだろうか。母さんは何を隠してるんだ……」


 小声で何度も繰り返す。

 すると、ふいに足音が近づいてきた。

 夜の静かな通り、聞き覚えのある気配。


 顔を上げると、そこにユキが立っていた。


 いつもの長い髪を風になびかせている。

 イヤホンを外し、無表情なまなざしをシンへ向ける。


「こんな時間に、何してるの?」


 声は淡々としているが、その裏に微かな驚きが混ざっているようにも感じる。

 シンは動揺しつつ「こんなとこで……」と呟く。

 ユキは視線を外さず「散歩してた。あなたこそ……?」と返す。

 シンは「ちょっと家に帰りたくなくて……母さんと喧嘩して……」と力なく笑う。


「帰りたくないって……どうするの? ずっとここにいるつもり?」

「わからない……母さんといまは話したくないし……」


 シンが俯くと、ユキは黙って隣に腰を下ろす。

 コンビニの白い照明が二人の姿を照らし、夜の風が頬をくすぐる。

 シンは驚いた顔で「ごめん、こんなとこで……」と言うが、ユキは首を横に振るだけ。

 無言のまま視線を下げている。

 だが、その沈黙がシンには不思議と心地いい。

 自分を責めるわけでもなく、同情するでもなく、ただそこに“いて”くれる存在。


「帰らなくていいの?」

「どっちでもいい。別に急いで帰る必要もないから」


 ユキは淡々と答える。

 だがシンは、彼女がいつもと違う雰囲気を帯びているのを感じる。

 もしかしたら彼女なりに心配してくれているのかもしれない。


「ありがとう。何か、悪いね……」

「別に……気にしてない……私、よくわからないけど、あなたといると……変な感じがする。嫌じゃないっていうか……」


 淡々と話す声に、わずかな震え。

 シンはその隠れた感情を感じ取り、思わず胸が熱くなる。

 

「ありがとう。母さんとも喧嘩して家飛び出して……一人でどうしたらいいかわからなかったけど、君がいるとちょっと救われる感じがする」


 ユキは黙ってうつむく。

 夜風が二人の髪をささやかに揺らし、コンビニの明かりが地面に淡い影を落とす。

 しばし沈黙が続き、どちらからも言葉が出ない。

 だがその沈黙は決して重苦しくない。

 むしろ互いを受け止め、安心を分かち合う静けさだった。

 そしてユキはほんのかすかに瞳を伏せてつぶやく。


「私があなたに言えることはひとつだけ。怖いって思えるうちは、あなたはまだ何かを大切にしている。全部失ってるわけじゃない……」


 シンは「あ……」と声を漏らす。

 心に染みる言葉だった。

 自分の中の恐怖は、まだ生きている証拠でもあるのかと。


 ユキは、人から見れば冷たい美少女。

 しかし今その瞳に映るのはかすかな憂いと、人間らしい揺れ動く感情の兆しだ。

 シンは何も言えず、ただ「ありがと」と呟き、互いに深く息をつく。

 遠くから車の走行音が聞こえ、夜の冷たい空気を吸い込む。

 「もう少しここでいいかな……」と苦笑すると、ユキはこくりと小さく頷く。

 それだけで会話が成立するかのようだった。

 ふとコンビニの扉が開き、客が出てくるが、それを気にも留めず二人は隣り合って座り込んでいる。


 ユキの横顔は相変わらず表情に乏しい。

 しかしそのまなざしはどこか切なげで、シンは思わず胸が締めつけられる。

 このとき初めて「彼女、綺麗だな……」という思いが込み上げた。


(こんな夜中に、まさか彼女と並んでるなんて……だけど不思議と落ち着いてる。母さんとの衝突で荒んだ心が、少しだけ救われてる気がする……)


 シンはそう考え、心の底でわずかに安堵する。

 ユキは自分の膝の上で指を組み、視線を落としている。


 夜風が吹き抜け、ユキの髪がささやかに揺れる。

 シンはその横顔を見つめ、彼女が表情を変えるのを待つ。

 ほんの少し、唇が震えたように見えた。

 ユキは首を横に振る仕草でそれを誤魔化すかのように視線を伏せ、しかしどこか切なそうな色を浮かべる。


(これでいいのかもしれない。今夜は、このままで。いつか全部思い出せたら……彼女にも、ちゃんと話を聞いてもらいたい……)


 そう心中でシンは決意する。

 だが同時に、母親との溝、榎本の怪しげな動き――それらが今後どう覆いかぶさってくるのか、想像するだけで不安が渦巻く。

 それでも今、ここで彼女と寄り添うことで、ほんのわずかな救いを得られている。

 頭痛はまだ続いているが、さっきまでのような絶望感は薄れ始めている。

 ユキの存在が支えになっているのが自分でもわかる。


 やがて二人は夜の風に当たりながら、ゆっくりと時を過ごす。

 まるで世界が止まってしまったかのように、周囲の喧騒は遠のいていた。

 コンビニの自動ドアが開く音が時々聞こえるが、それだけがかすかな現実との繋がりを示す。

 ユキがぱちりと瞬きをして、か細い声で呟く。


「あなたと一緒にいると……どうしてだろう、変に落ち着くんだよね……」

「そっか……俺もだよ。君に会うと、何か救われるんだ」


 そう言い合ったあと、互いに微かな笑みを浮かべる――。

 シンの笑みはぎこちなく、ユキのそれは“笑み”というより唇の端が一ミリ持ち上がった程度にすぎないが、それでも彼女にとっては大きな進歩だろう。

 シンはそれを見逃さず、「あ……今……」と言いかけるが、ユキは照れるように首を振って黙らせる。

 気恥ずかしさが夜の闇を優しく包みこむ。


 シンは感謝を噛みしめ、視線を夜空へ移す。

 遠い星がわずかに瞬き、月が雲の合間から顔を覗かせる。

 ユキも視線を同じ方向へ向け、言葉なく過ごす。

 その沈黙が、二人の紡ぎ出す物語の次なる展開を予感させながら、夜の街をそっと包み込んでいるのだった――。


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