「ごらんのとおり」と妻は笑った。
一人の男が息も絶え絶えに自宅へ帰ってきた。
走り続けていたせいか苦しさを通り越し吐き気さえもある。
しかし、そんなことは全く気にならなかった。
ふらふらのままに夫婦の寝室を開けると、妻がベッドの上に腰掛けて笑みを浮かべて手を振ってきた。
男は思わず息を飲みこみ、そして分かりきった問いを投げかけた。
「間に合った?」
「ううん。ごらんのとおり」
冷たいものが全身を駆け巡る。
しかし、男はそれを気にもせずに妻のベッドへ近づいた。
「みないでほしいんだけどな」
妻の言葉を無視してそちらへ向かうと、そこには青白い顔をしたまま息絶えた妻の体があった。
隣で恥ずかしそうにこちらを見ている妻と比べて二十年以上は歳をとっているように見える。
しかし、それはあくまで侵された病魔のせいだ。
本来であれば自分の目の前に居る姿と何ら変わりのない見た目をしていたはずだった。
「あーあ、はずかしいったらありゃしない」
妻の言葉を受け取った男は息を飲み、数秒の後に妻へ尋ねた。
「怖かった?」
「ううん」
「苦しかった?」
「ううん」
「寂しかった?」
その問いに妻は小さく息を飲んで照れ笑いと共に答えた。
「すこしだけね」
「ごめん」
そう言って泣き出した男に妻は軽く背中を数回叩いて言った。
「きにしないで。こればっかりはしかたないから」
妻の体と意識が分離したのは今から数年前のことだった。
病に伏せていた妻が必死に生きていく男を見て、あまりにも心苦しく思いどうにか出来ないかと願う内にいつの間にか意識だけが体を抜け出していたのだ。
幽霊。
いや、生霊という奴だろうか?
いずれにせよ、この状態であるが故に男は寂しさを覚えずに生きていかれた。
妻も妻で、病魔に侵されているにも関わらず、ほとんど昔と変わらずに愛する夫と共に生きていかれたのを幸運に思っていた。
幸せだった。
二人は間違いなく。
「さて。それじゃ、そろそろいかなくちゃ」
妻の言葉に男ははっとする。
それは二人で事前に取り決めていたことだ。
この奇跡を享受するのは妻が死ぬまで、と。
覚悟はしていた。
それでも男は涙を止めることは出来なかった。
「なぁ、死後の世界はあると思うか?」
妻もまた泣いていたが、幾分か明るい声で答えた。
「こんなことができるくらいだし、あるでしょ、まちがいなく」
その言葉に男はどうにか微笑むと霊体となった妻と軽く抱きしめあうと穏やかな気持ちのまま、最愛の存在が昇天していくのを見送った。
二人の愛は確かなものだった。
故にこの奇跡はその愛が成せたものであると言えるだろう。
しかしながら、彼女の死因は病死ではなく十分な栄養を取れなかったことによる『衰弱死』である。
この残酷な事実を男が知るのはもう少し先の話だ。