おとうさんと呼ばないで
「………」
「亀ちゃん、大丈夫? なんかぼーっとしてるけど」
「え? あ、いえ…」
河童の川村先輩に肩をたたかれる。
「大丈夫です」と言ってパソコンにデータを打ち込む。しっかりしなければ、と太一は気合を入れなおした。
仕事が終わって家へ帰ると、リーゼロッテが起きて、相変わらずココアを飲んでいた。
「おかえりなさい、おとうさん」
「ただいま」
もうすっかり、おとうさんと呼ばれることに馴染んでしまっている太一だった。誰かが出迎えてくれる家っていいなあ、と思いつつ部屋で着替えてリビングに戻る。
冬なので、日が落ちるのも早いから、太一が帰ってくる時間にリーゼロッテも起きていられるのだ。
「ココア、好きなの?」
「うん。好き」
リーゼロッテはふうふうと冷ましながら、ゆっくりとココアを飲む。太一もコーヒーを入れて飲んだ。
「…リーゼ」
「何?」
「おかあさんに会いたい?」
リーゼロッテが太一をじっと見る。そしてココアに視線を落として「おとうさんがいるからいい」と言った。
「でも、会いたくない?」
「…おかあさん、私を置いて出て行ったから」
諦めたような少女の物言いに、太一は悲しくなった。だから、あえて微笑んでこう言った。
「探そうか。おかあさんを」
リーゼロッテはきょとんとして太一をみつめる。
「…どうやって?」と口にした。
「だから、リーゼのおかあさんが行きそうな場所を探して…」
「無理だと思う」
リーゼロッテはため息を吐いてココアをすする。
「おかあさん、『私のことは探さないで。新しいおとうさんと仲良く暮らして』って書置きしていったの。おかあさんは一度言ったら、絶対譲らない人だから、探しても見つからないと思う」
「なんとも豪胆なおかあさんだな」
太一は苦笑いを浮かべる。
「…そういえば、リーゼ。昨日もココアを飲んでいたけど、何か食べないか? 俺も料理は一応作れるんだけど…」
リーゼロッテは首を横に振った。
「いらない。ヴァンパイアは飲み物しか受け付けないの」
「ああ、そうなんだ…。なら、ココア買っておかないとな」
太一の言葉に、リーゼは「そうしてくれると嬉しい」と答えた。
「じゃあ、俺、自分の分の晩飯作るけど、リーゼは食べないか?」
「食べない」
リーゼロッテにはっきりとそう言われ、太一は自分の分の夕飯を作り始める。
野菜と豚バラ肉の買い置きがあったので、豚汁と納豆、出来合いのれんこんの総菜と白飯だ。テーブルに並べると、リーゼロッテがじっとそれを見ていた。
「食べる?」
太一に聞かれ、リーゼロッテは首を横に振る。
「じゃあ、いただきます」と言って太一はテレビをつけて、夕飯を食べ始めた。テレビを見ながら豚汁を咀嚼していると、リーゼロッテがじっとこちらを見ているのに気づいた。「実は食べたい?」
「食べない」
リーゼロッテはきっぱりと言う。
しかし、何も食べない相手にじっと見られるのも窮屈だな…と太一が納豆をご飯に混ぜてかきこむと、「それ、おいしいの?」とリーゼロッテが聞いてきた。
「ああ、納豆? おいしいよ。やっぱり食べたいんじゃないの?」
「食べたくない。見たことないから、気持ち悪いなって思って見てた」
「きも…いや、見た目は気持ち悪いかもしれないけど、食べるとおいしいんだよ。ねばねばして、身体にもいいし」
「…そうなの?」
疑り深くリーゼロッテが納豆ご飯を凝視する。太一は豚汁を口に運ぶ。
「食べ物は全然食べないの?」
「私たちは固形物は食べても消化できないの。通過するだけ」
「そうか。ヴァンパイアと人間のダブルでもそうなんだね」
リーゼロッテはうなずいた。
「太陽の光を浴びても灰になるし、固形物が食べられないのもヴァンパイアと一緒。でも、蝙蝠にはなれないの」
「なるほど。それが人間とのダブルであることなんだね。蝙蝠になれないと不便?」
「空を飛べるのはいいなあと思うけど、人間も蝙蝠にはなれないし。同じだよね」
「そうだね。俺達人間もほかの動物にはなれないからなあ。それで特に不便は感じないからね」
テレビで放送しているバラエティ番組を見ていたら、うっすらリーゼロッテが微笑んだような気がした。表情に乏しい子だけれど、笑わないわけではないのだろう。
太一は夕食を食べ終えて後片付けをして、風呂を沸かした。
「リーゼ、お風呂入った?」
「寝る前に入るから、おとうさん先に入って」
「わかった」
言われるままに太一は風呂へ入る。髪や体を洗って湯船に入った。あたたかいお湯は全身をリラックスさせてくれる。
「ふう…」
白い湯気を見ながら、太一はリーゼロッテのことを考えた。このままというわけにはいかないだろう。そういえば、リーゼロッテはいくつなんだろう。小学校か中学校の年齢だとは思うけど。学校へ行かせてあげないとかわいそうだよな。うちの中だけで勉強なんて。それに、エレオノーラを探してあげないと、きっと寂しいよなあ…。
彼女の未来を考えながら、亜人と人間が暮らすようになった日に太一は思いをはせた。
1999年7の月。ノストラダムスの大予言によると、空から恐怖の大王が降ってきて世界が滅亡するということが決まっていたようだったが、実際は違った。
唐突に月が紫色に光り、何が起こったのかみんなが驚いている間に人間の半数は亜人に変わったのだ。人間のままでいるものもいれば、ヴァンパイアや巨人族、狼人間やトカゲ人間、半魚人や人魚が地上にあふれた。
人間のままの者たちはともかく、亜人となった彼らとの共存について様々な議論がなされた。人間を食おうという欲求を持つ亜人もいて、共存は難しいと思われた。そこで、それぞれ居住区を形成し、お互いに干渉しないで生きるという意見が多数を占め、それが実現した。
しかしもともとは人間だったもの同士。夫婦や親子でも人間と亜人に別れたこともあり、もともと血縁関係にあるものや婚姻していたものはどちらかの居住区に住むことが許可された。
逆に言えば、婚姻しなければ自分とは種族の違う居住区には住めないのである。そこで太一のいる市役所では住民票を管理し、許可のない異種族間の往来を監視してるのであった。求職課という市役所で亜人の就職先をあっせんするのは、その住民票を持ってきたものだけである。
といっても、役所の目を盗んで勝手に移動する者は後を絶たなかった。役所を通さなくても、就職をあっせんするブローカーはいくらでもいるからだ。
太一にできるのは、それをできるだけ役所を通すように周知をするだけ。
「…そうだ。リーゼロッテの住民票も、こっちへ移さないとだな」
言ってから、太一は既に自分がリーゼロッテの面倒をすっかり見る気になっているのに気づいた。まだ会ったばかりの少女なのに。
同情か。エレオノーラの娘だからか。あの寂しそうな少女を一人にしたくないからか。
「ふう…」
太一は風呂から上がって、ミネラルウォーターを飲む。リーゼロッテはテレビを見ながら、テーブルの上に教科書やノートを広げて勉強していた。
「勉強熱心だね。…そういえば、リーゼロッテっていくつ?」
「十一歳」
「てことは…小学校5年生かな?」
リーゼロッテはうなずいた。もう少し上に見えるなあと太一は思った。大人びた印象があるのだ。
「学校へ行かなきゃいけないね。リーゼロッテの住民票もこっちへ移そうか」
「…いいの?」
「だって、ずっとこのままってわけにはいかないだろう。家に引きこもりじゃ嫌だろ?」
「でも、私…」
「ん?」
リーゼロッテはじっと太一をみつめてから、「…なんでもない」と問題集へ視線を移した。
「明日は仕事休みだから、一緒にヴァンパイアの居住区へ行こう。しばらくうちにいるつもりなら、役所に手続きに行かないとね」
「…いいの?」
「だって、そのつもりなんだろう?」
リーゼロッテは微笑んだ。はっきりした笑顔ではないが、ふわりとした笑みだった。
「そうやって、いつも笑ってるといいよ」
思わず太一は言ってしまった。
「え?」
リーゼロッテが聞き返す。
「リーゼの笑った顔、俺好きだな」
「………」
リーゼロッテは黙って、頬をほんのり赤くして自分の頬を撫でた。太一に返事はせず、無言で勉強を続ける。
太一はテレビを見ながら、眠くなるまでリビングで過ごした。
朝目が覚めると、やはりリーゼロッテは寝ていた。朝は活動時間ではないので、起こすことはしない。
休日なので太一は朝食をとり、軽く体操をしてネットを見て午前中を過ごす。午後から買い物に行き、食べ物やリーゼロッテのためにココアを買って帰った。
リーゼロッテを引き取るとなると、やはり手続きが必要だろうと思い、河童の川村先輩に電話した。
『ほうほう、ヴァンパイアのダブルの娘を引き取りたいと』
「そうなんです。親戚の子で、母親が行方不明になってしまって。施設に預けるのもかわいそうかと思って」
このくらいの嘘なら許されるだろう、と太一は事情を説明する。
『まずは家庭裁判所に申し出ることが必要だったと思うな。あと、住民票もこっちへ移さないとね』
「わかりました。それと、どんな手続きが必要ですか?」
『そうだね、ほかにちょっと確認してみると…』
河童の川村先輩といろいろ話して情報を得ると、太一は電話を終了した。
日暮れの早い冬の夕方。空を見上げると、相変わらず月は紫色に輝いている。銀色に輝く月を見なくなって久しい。
「おとうさん、おはよう…」
リーゼロッテが眠そうに目をこすりながらリビングへ下りてきた。着ているのは自分で持ってきたパジャマだ。
「おはよう。そういえば、寝起きに会うの初めてだね」
リーゼロッテこくりとはうなずいて、洗面台へ行って顔を洗った。歯磨きをしてリビングへ戻ってきた。
「ココア飲む?」
「飲む」
「じゃあ、入れるよ。着替えておいで」
「ありがとう」
リーゼロッテは2階へ行って、自分の服に着替えてきた。白いセーターにチェックのスカート。かわいいな、と思いながら太一はココアをリーゼロッテに渡す。
「はい」
「いただきます」
熱いココアをふうふうと冷ましながら飲むリーゼロッテは絵になる。エレオノーラは完全に西欧系の顔立ちをしていたが、リーゼロッテはアジア系の血が入っているように見える。父親は日本人かもしれない。
「それを飲み終わったら、ヴァンパイアの居住区へ行こう。君の住民票もとらなきゃいけないし、リーゼの家の様子を見に行きたいんだ。役所は夜に開いてるんだよね?」
「そう。ヴァンパイアはみんな夜に活動するから」
「電車は遅くなるとこっちに戻ってくるのがなくなるから、向こうでビジネスホテルにでも泊まろうね」
「うん。わかった」
家に鍵をかけて二人は家を出た。リーゼロッテは手を伸ばして太一の手を握る。太一はどきっとしてリーゼロッテを見た。
「歩くの早いかな?」
「ううん。おとうさんと手、つなぎたいの。おとうさんとこうやって歩くの、好き」
リーゼロッテの言葉に、太一は不覚にもどきりとした。
「そ、そう。でも手、冷たくない?」
「うん…。ちょっとね」
太一は少し考えて、コートのポケットにリーゼロッテの手と自分の手を一緒に引き入れた。
「これだと、どう?」
「うん。あったかい」
リーゼロッテが小さく微笑んだ。太一はその笑顔がかわいいと思う。
二人で駅に向かって歩いていると、偶然というのはあるもので、浅沼さんが友人らしき女性とこちらへ歩いてくるのが見えた。
「あ…」
「どうしたの?」
太一の動揺に気づいて、リーゼロッテが太一を見上げる。
「いや、なんでも…」
「あれ、亀山さん?」
浅沼さんに気づかれ、太一は思わずリーゼロッテの手を、ポケットから出してしまった。リーゼロッテはきょとんとして、太一と浅沼さんを見上げている。
「ど、どうも…」
「こんばんは。あ、こちらは市役所の同じ課の亀山さん」
浅沼さんは隣の友人に手短に太一を紹介する。
「はじめまして、ひなの友達の速水です」
「はじめまして」
太一はとりあえず頭を下げる。
「妹さんですか?」
浅沼さんはじっとこっちを見上げているリーゼロッテに微笑む。
「いえ、その…リーゼロッテって言って、親戚の子です」
妹にしては年が離れすぎている。まあないわけでもないが、ここは親戚の子と言うのが無難だろう。
「そうですか。かわいい子ですね」
浅沼さんにそう言われた途端、リーゼロッテは太一の後ろに隠れた。
「あら」
「ごめん、ちょっと人見知りの激しい子で…」
太一が後ろのリーゼロッテの頭を撫でる。
「なんかモデルみたいにかわいい子ね。親戚に西欧系の人とかいるの?」
速水さんが遠慮なくリーゼロッテをみつめる。
「いや、えっと…」
「おとうさん、もう行こうよ」
リーゼロッテが太一のコートを引っ張る。
「おとうさん!?」
「娘さん!?」
速水さんよりも浅沼さんのほうがずっと驚いたようだった。つい先日告ってきた男に娘がいたら、それは驚くだろう。
「ち、違う違う! この子、父親がいないもんだから、俺が父親代わりって言うかなんていうか…」
リーゼロッテはじっと浅沼さんと速水さんを見上げて、突然駆け出して行った。
「あ、こら、リーゼ! すみません、それじゃ!」
「はあ…」
「あの人って…」
浅沼さんと速水さんが何か話しているのが聞こえたが、太一はパニくってそれどころではなかった。




