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第漆話 久遠寺にあったニッポン

 二人は無言のまま寺をぐるりと回り、裏手にある経蔵(きょうぞう)へ着いた。木材を井形に組んで積み上げた校倉造(あぜくらづくり)の倉庫で規模はあまり大きくない。雲巌は懐から鍵束を取り出しそのうちの一つを経蔵の扉の鍵穴に入れると、ガチャと小さな音がして扉は解錠された。


()くぞ」雲巌の後に続き、道人は経蔵へ入っていく。


 内部は石敷でヒンヤリとしており、中央に八角の輪堂(りんぞう)があった。雲巌はその輪堂のわきを通り抜け、部屋の隅に置かれたトランクケースのような木箱の前に立った。そして一度だけ深く呼吸をし、その場にしゃがみ込むと、ゆっくりと木箱を開けて中から一枚の古めかしい紙を取り出し道人に見せる。

 全体に薄い墨の色が残っている紙で、ところどころ色褪せて見づらい箇所もあったが、そこに描かれている絵は道人が良く知っているものだった。


「これは…」道人は息をのんだ。「どういう事でしょうか」


「この寺の元の名前は犬塚寺といってな。村と同じ名前だったのだが、ある日を境に久遠寺と名を改めたのだ」目を細めながら雲巌は言った。「もう数百年前の話になる。雨が降らず飢饉が村を襲った。この村だけでない。この辺りの集落全体が水不足になってな。今のように水源を確保しておらず、天から降る雨だけが貴重な自然の恵みだった。その雨が二月(ふたつき)降らなかった時期があり、田畑や川は枯れ、その年は食べるものがなくなったと聞く。人は木の皮や土を食い、挙句、争いの果てに隣の村の赤子や幼児を連れ去り食い始めたそうだ。飢えというのは残酷なものだな。人は簡単に道を踏み外してしまう」


「地獄ですね」道人は相槌を打ちながら話を聞いた。


「そう。まさに想像しがたい、この世の地獄だよ」雲巌は拝むような仕草をする。「そんな地獄の中に現れたのが、久遠童子(くおんどうじ)という名のオニだった」


 久遠童子の出で立ちや村で何をしたのかを雲巌は道人に語った。それは(いにしえ)の英雄譚のようであり、戒めの為の御伽噺(おとぎばなし)のようでもあった。


「――という話だ。鬼道(きどう)()けた久遠童子は人々に食べ物と水を与え、飢えや争いはなくなり、ようやく地獄は終わりを告げたのだ。彼にしてもらった恩を忘れる事なく、更には二度と人としての道から外れぬよう、当時の住職や村人たちは話し合って犬塚寺から久遠寺に改名したと聞いている」雲巌は道人の持っている紙を指さした。「それは久遠童子の遺物と言い伝えられている。お主が(わし)に話をした内容が事実であるならば、そこに描かれているのは何か分かるだろう」


 (うなず)きながら道人はもう一度絵を見つめる。


「久遠童子はこの世ならざるところから来訪したオニ。お主は人であるかもしれないが、久遠童子の言い伝えに似ているんじゃないかと、儂は思った」雲巌は穏やかな口調で続ける。「だからその絵を見せ、話を聞かせた」


 不意に経蔵(きょうぞう)の入口から風が吹き込み、道人の前髪を静かに揺らした。足の裏に石敷の冷たさを感じ、足の踏み場を何度か変える。道人は雲巌と目を合わせ、何か言いたそうな表情をすると、優しく微笑んだ雲巌はコクリと首を縦に振った。


「あの、今は何年でしょうか」


「戌年だが。今日は戌年の6月4日」


「西暦…。いや、元号を教えて頂きたいです」


「元号?」雲巌は不思議そうな顔をする。「この国に元号はないな」


「そうですか…」道人は溜息をついた。


「しかし…」何かを思い出すように、雲巌は視線を斜め上に移す。「大和皇国(やまとこうこく)に元号があったな。確か今は鹿(しか)(つの)と書いて鹿角(かづの)という。皇国の(いくさ)を白き牡鹿(おじか)が勝利に導いた事から、その元号をつけたと耳にした事がある」


「鹿角…」聞いた事のない元号だった。元号から西暦を推測する事は出来なくなった。「インフラの状態や服装から、ここは過去の日本だと勝手に思っていたけど、知らない元号や国の名前が出てきた。という事は一周回って文明の廃れた未来の日本なのか。いや~、それとも、もう考えるだけ無駄なのか~」


「久遠童子は己の使命を果たす為にこの世界へ来訪した。それが何だったのかは分からない。ただ、彼は当時の住職にやるべき事があると告げて西へ旅立ったと」雲巌は道人の肩をポンと叩いた。「お主も何かしらの使命を帯びて、理由があってこの世界に存在していると考えるのはどうだろうか、ドージン」


「はい」


「どんな人間であれ、目的や使命をもってこの世に生まれるものだ。意味のない人生、そんなものはない。ただ、それは誰かに教えてもらうものじゃなく、人として生きる旅路の中で自分の力で見つけないといけない。まあ、それを修行というのだが、これがなかなか難しくてな。時に道を迷い、時に道を外し、時に己の過去を振り返りながら、手探りで何も見えない闇の中を進む。だけど道は必ず未来へ繋がっている。何度も自問自答を繰り返し、悩み、考える事で、正しい選択をする。我々僧侶は道を間違えた者に手を差し伸べる事は出来るが、正解に通じる道は自分自身でしか見つけるしかない。過去は彩り豊かな美しい一枚の絵のようにハッキリ見えるのだが、未来は墨で塗り潰された真っ黒の紙。だが元は何にも染まってない一枚の白い紙。そこに描く未来は己の手の中にあると、そう思わないかね、ドージン」


 道人は頷いて応える。


「お主は現状に困惑し、悩んでいるようだが、こうして出会ったのも久遠童子の導きかもしれないな。儂で良ければ力になるぞ」ニコリと雲巌は笑った。「これもまた縁起(えんぎ)じゃろうな」


「ありがとうございます。何も分からず、頼れる知人や身寄りもなく、この村へ来る道中に見た惨劇もあり、死を意識した事も…」


 道人がそこまで言うと、言葉を遮るように雲巌が口を開いた。


「不慮の事故や事件で天命を全う出来なかった者は、魂が成仏されず本来の寿命(いのち)が尽きるその瞬間(とき)までこの世を彷徨うという。人の想いの深さによるが、他人(だれか)の手に掛かったり、病気で亡くなった場合は(わし)らの呼び掛けで成仏するのが大半だが、自害だけは何ともならん。あれはイカン。負の感情が大きすぎるんだろうな。儂らが何を言っても耳を貸そうとせん。長い長い永劫の時間(とき)を苦しみ続け、終わる事のない後悔を何度も繰り返す事になるぞ」


 それを聞いた道人は手を振り否定する。「僕は死ぬつもりとかないです。ただ、村はずれにあった小屋で(あた)り一面血だらけの凄惨(せいさん)な現場を見た時に、自分も同じように殺されてしまうんじゃないかと、そう思って…」あの場面が脳裏をよぎり、道人の表情は暗くなった。


「ああ、儂の早とちりか。こりゃスマン」申し訳なさそうに雲巌は苦笑いをする。「あれは不幸な事故だった。隣村で熊が家屋を襲った話は人づてに聞いていたのだが、儂らはあの家族を守る事は出来なかった。浮かばれんだろうなあ。ただの熊ならやりようもあったと思うが…」


 外へ行くかと雲巌は言い、手を差し出した。その様子を見た道人は自分の手にあった薄墨紙(うすずみがみ)を雲巌に渡す。受け取った雲巌は木箱の中にそれを戻した。

 そして二人は経蔵から出た。雲巌は時折日差しを気にしながら本堂へ向かって歩き始め、道人は後ろをついてゆく。

 どこからともなく、口笛に似た鳥のさえずりが聞こえた。チュウピィチュウピィという鳴き声はまるで美しい歌声に思える。


「そういえば、安房国(あわのくに)や犬塚村はどの辺にあるのでしょうか」


 道人が何気(なにげ)なく尋ねると、雲巌は足を止めて振り返った。


「お主が今しがた見た絵の中に赤い斑点が一か所だけあったろう。あの斑点が犬塚村で、その周辺が安房国だな」雲巌は続ける。「久遠童子が(えが)いたのは日本地図と呼ばれる、この国の全体の姿と聞いたぞ」


 経蔵で見たものは、子供の落書きのような精度だったが、間違いなく道人の知っている日本地図だった。津軽半島や房総半島、四国九州まで記載された(まぎ)れもない日本地図だった。ここ久遠寺に道人の知っているニッポンは、確かに存在した。






初ブックマークを頂きました。ありがとうございます、感動です。

この話の続きが読みたいと思って頂いた方は、ブックマークや広告の下にある評価をして頂けると大変嬉しいです。今後のモチベーションアップに繋がりますので宜しくお願いします。


≪空猫日記≫

空は怒らない。今まで怒ったり威嚇をしているところを一度も見た事がない。

シャーと叫ぶ前に、たいていピューっと逃げちゃいます。

玄関で知らない人の声がするだけで、自分の寝床(安全地帯)に引き籠る、臆病な困った猫です。

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