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第壱話 東雲の空

 この世界は本当に存在しているのだろうか。

 この世界が誰かの見ている夢だとしたら、彼が夢から覚めた途端、全ては消えてなくなるのだろうか。

 試しに、この世界に針を突き立てて夢の殻を割ってみようか。


 弟切道人(おとぎりどうじん)が目覚めると、そこは鬱蒼(うっそう)とした茂みに囲まれた木々の中だった。草の香りが鼻の奥に突き刺さる。月明りで薄っすらと見える周囲を道人は座り込んだまま観察したが、目に入るのは(そび)え立つ樹冠(じゅかん)の隙間から見える満天の星空、そして萌黄(もえぎ)濃緑(こみどり)の草と木だけだった。動物の気配すらない、静寂の夜。

 取り敢えず今の時間を確認しようとスマートフォンを探したがどこにもない。いつもは枕元に置いたまま眠るのだが、そのスマートフォンはどこにも見当たらなかった。


「夢か…」


 そんな一言が思わず口から漏れる。目が覚めて起きたら知らない場所にいる。全く現実味のない状況で、道人は混乱している頭の中を整理しようと、これは夢これは夢と何度も自分に言い聞かせた。

 しかし、事態は一向に変化せず、ただ時間(とき)だけが過ぎていく。


「よし」と呟きながら道人は立ち上がった。先程より視界は広がったが見える景色に大差はない。改めて現状を確認してみる。

 服装は通学していた高校の上下のジャージ。普段から寝間着代わりに使っているもの。それと、昨日購入したばかりの未使用新品のスニーカーが足元にあった。これは部屋の机の上に置いたと記憶している。道人はスニーカーを履いた。

 そして、今更だが自分の髪が長くなっている事に気付いた。いや、少し前から変だと思っていたが、違和感があり過ぎて直視出来なかっただけかもしれない。短く揃えていた茶色の髪の毛は、今は腰まで伸びた黒の長髪になっている。信じられなくて何度か髪を引っ張ってみたが、紛れもなく自分のもの。引っ張ると痛みを感じた。


「マジか~…」道人は深い溜息をついた。「ん~…」腕組みをしながら、ゆっくり目を閉じる。


「夢であれ、現実であれ、ここは知らない場所。それは間違いない。そして、スマホがないから誰にも連絡出来ない。見渡す限り、周りに民家はない、街灯もない。だけど、傾斜地ではないから、山の中じゃないと思う。孫子曰く、陽を(とうと)びて陰を(いや)しみ、生を(やしな)いて実に()る。まずは見通しの良い場所を目指して歩いてみるか。こんなジメジメしたところで朝を待ってると、気持ちまで暗くなりそう」道人はもう一度周りを見回した。「まあ、有難い事に月明りでどうにか周りは見える。この森を抜けて舗装された道路に辿り着ければ、後は車を見つけて最寄り駅までヒッチハイクだな。それか、誰かにスマホを借りて家族に連絡。うん、何とかなる」


 たまに枯れた枝のパキッと折れる音が足下からするものの、動物や鳥の鳴き声は一切聞こえず、静かでひっそりとした藪の中を道人はひたすら歩く。途中、野生動物の往来によって出来た細い獣道があった。その道を通ると、先程より歩きやすさは増した。

 どのくらい時間が経っただろうか。木々の茂みを抜けると、突如、田園の広がっている光景が目に入った。水が張られている田に植えられている苗の背はまだ低い。未だ周囲に民家や街灯はないが、月明りに照らされた水田は人の営みを感じさせてくれただけでなく、安心感を与えてくれた。ようやく人の生活圏に戻ってきた。

 道人は舗装されていない田舎道に足を移した。この道を行けば何とかなると考え、空に浮かぶ月の方向へ進み出す。夜道を走る車と遭遇しそうな雰囲気は全くなかったが、目覚めた時より状況は好転している。あとはどんな形であれ人を見つけるだけ~…と思っていた矢先、待ち焦がれていた人は突然現れた。ただし、彼らは思いもしない格好をしている。


 100メートル程前方に、甲冑を着て馬に乗り立ち止まっている5人組のシルエットが見えた。


「幽霊…?」


 自分に霊感はないと思っているし、怪奇現象の類いを信じているわけでもない。それでも話題のホラー映画を見たとき以上の背筋の寒さを道人は感じた。今の時代、月夜に甲冑なんて戦場で亡くなった武士の亡霊以外の何者でもない。


「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」


 道人は強く目を閉じて手を合わせながら唯一知ってる言葉を何度も繰り返し呟いた。しかし、徐々に近付く馬の蹄の音が恐怖心を掻き立てる。


「ヤバい、ヤバい、ヤバーい」


 この場から逃げようと思ったが足はこわばり自由に動けない。(まぶた)を閉じて何も見えないにも関わらず、周辺の空間全てを認識しているような不思議な感覚がある。単に神経が過敏になっているだけかもしれないが…。

 まとまらない感情を抱え、ただ立ちすくんでいた道人のすぐ近くで、不意に蹄の音が止まった。甲冑のすれる音と地面に着地する音が聞こえ、誰かが馬から降りた事が分かった。道人は怯える気持ちを隠す事なく、ゆっくりと瞳を開ける。そこには一人の男性が立っていた。

 端正な顔つきの男性で、吸い込まれるような深い瞳と一本に束ねられた長い黒髪が特徴的。おそらく20代。鎌倉時代ではなく戦国時代のものだろうか、まるで月や星の輝きのような真鍮と山吹色で彩られた派手な甲冑と、裏地が赤の黒いマントを威風堂々と羽織っている。

 優しい笑みを浮かべながら彼は近付いてきた。


「君は何者だい?」用心している空気を纏いながらも、爽やかな笑顔と軽い口調で彼は尋ねた。


 その表情を見た道人は、彼が幽霊や怨霊ではない事に気付き、ほっと一安心する。「僕自身、今の状況がよく分かってなくて。目が覚めたら知らないところにいて…。ここはどこでしょうか」


「見知らぬ身なりをしているけど、君はオニやタヌキ、キツネの類かい?」


「いやいやいや、日本人です。秋田県民です」


「ニッポン…」 何かを見極めようとしているのか、彼は道人をじっと見つめる。怪奇現象への恐怖心は払拭されたが、甲冑を身につけた見ず知らずの人への警戒心と緊張感は道人の心の中をぐるぐる巡った。

 しばらくすると、彼は「そうか…」と一言だけ呟いて、懐から紐を一本取り出した。そして道人の裏に回り道人の髪を束ね始める。


「こちらの方が動きやすいだろ。それにこちらの方が可愛い顔が良く映える」


「ありがとうございます…」


「そういえば、先程、ここはどこかと聞いていたね。ここは安房国(あわのくに)。安房国の犬塚村の外れさ」


「アワノクニ…?」そのような名前の国や県名は日本にはない。「ここは日本…ですよね?」


 彼は考え込むような仕草をした。「かつてニッポンと呼ばれていたけど、今はニッポンと呼ぶ人はいないよ。それは遥か昔、この国が一つだった時の総称だね。久しぶりに聞いたよ、ニッポン」


「遥か昔…?」


「そう、遥か昔の話さ。そうだ、まだ名前を聞いていなかったね。私は明けの明星、天津波旬(あまつはしゅん)。光をもたらす者」波旬はニヤッと笑って道人に顔を近付けた。「ニッポンを護る武士さ」


 夜明けが近いのか、やや黄みがかった薄紅色に染まった美しい東雲(しののめ)の空が波旬の屈託のない笑顔を輝かせているように見えた。道人の長かった夜は終わり、こうして新しい朝を迎えた。

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