第玖話 好きな女の前くらいイイカッコウさせてくれよ
遠くから二人を呼ぶ声が聞こえる。静寂の夜空に似合わない、大勢の叫び声。それは怒号に近かった。
「どこにいるー」
「隠れてないで出てこーい」
「早く捕まえろー」
道人は一旦立ち止まり息を切らせたまま後ろを振り返ると、夜の帳の中を多くの松明が一列に並んでこちらに向かってくるのが目に入った。ゆらゆらと揺らめく松明の灯火の長い長い行列は、とても大きな龍が波打つように身体を動かす光景のようにも見え、ある種の幻想的な雰囲気を醸し出していた。
汗ばむ彼女の手を取り、道人は再び石段を駆けるように降り始める。彼女の苦しそうな息遣いが聞こえてきた。だが、ここで足を止めるわけにはいかなかった。
今、足を止めたら彼等に捕まってしまう。
「もう少しだから」
荒々しく吐き出した息と一緒に道人は彼女へ声をかけた。だが目の前の漆黒の世界はどこまでも果てしなく続き、目的の場所は一向に見えてこなかった。それでも二人は前へ進むしか道はなかった。
そもそも、何でこんな事になったのか。
懸命に思い出そうとしたが、道人の身に覚えはなかった。
何故追われているのか、何故逃げないといけないのか、自分たちを捕まえようとしている集団は何なのか、頭の中の整理が追い付かない。何も理解できないまま、道人は彼女と逃避行をする事になった。
腰までありそうな長く美しい金色の髪、薄暗い為顔立ちは見えにくいが、くりっとした大きく可愛らしい目と、顎からこめかみまでのスッキリと整った輪郭が特徴的な横顔。そして、月明かりがなくても伝わるほどの真っ白の巫女装束。
石段で転ばないよう慎重になりながらも、少しでも追手の追跡から逃れる為に一歩また一歩、二人は足を進めた。
あー、疲れた。
胸が苦しい。息をするのも辛い。
だけど疲労感はない。足は全く重くならない。体力が減っている感覚は不思議とない。このままどこまでも行けそうだ。
それにしても。
道人は彼女の顔を見つめた。
やっぱり、可愛いなあ。
初めて会った瞬間から僕の全ては彼女に引き込まれた。
誰かを好きになるのに理屈はいらない。
僕もそう。これは一目惚れ。間違いなく僕は彼女に恋してしまった。
「道人」彼女の瞳は正面を見据えたままだった。「巻き込んじゃってごめんなさい。私のせいで…」
「謝る必要はないよ。困っている人がいたら助けるし、その相手が君なら僕は…」
だから一緒に逃げる事に疑問はなんてないし、今のこの状況に違和感もない。
いやー、惚れた側の弱みだね。参ったなあ。
彼女が困っていたら助けてあげたい。
彼女のピンチに颯爽と駆け付ける英雄でありたい。
だって、格好いい人に見られたいじゃない。
僕だって男の子。好きな女性の前では、見栄や虚勢を張りたい時もあるさ。
「僕は絶対に君を守る。例え鬼や悪魔に魂を売る事になったとしても、僕が絶対に君を守り抜く。この命を掛けて、この命が尽きるまで」
言ったよ、言ったよ、言っちゃったよ。僕のどこからそんな言葉が出てくるのか。あー、愛だね。これは間違いなく愛が起こした勇気百倍脳内爆発だ。
道人は横目でチラッと彼女の反応を確かめた。
うわ、無表情。何事もなかった顔をしてるー。
申し訳ございません。僕が悪かったです。こんな時どう返すのが正解なのか分からず、調子に乗り過ぎました。
まるで灯りのないトンネルのような場所を駆け抜けるように二人が進み続けると、やがて赤い鳥居が無数に連なる場所へ着いた。大きさは人二人がすれ違える程度の小ぶりなものだ。その鳥居の中を道人の後を追い掛けるように彼女が続く。
その鳥居は果てが見えなかった。今、どの辺を走っているのか感覚が分からなくなる。
ただ、二人を追う声だけはしっかりと道人の耳に入ってきた。気のせいか、先程よりも叫び声は近くなっているように思える。
少しでも早く遠くへ逃げないと。今は捕まるわけにはいかない。
それにしてもしつこいヤツラだ。
その時だった。
鳥居と鳥居の間から、黒いものが突然飛び出てきた。キャッという悲鳴と共に、彼女の転ぶ音が聞こえた。道人は思わず足を止め、後ろを振り返る。
「ニャー」
座り込んだまま痛そうに腰をさする彼女の足元で、一匹の黒い猫が彼女を見ながら低い声で鳴いていた。
「大丈夫?」
心配そうに道人が声を掛けると、猫が振り向き「ニャー」ともう一度鳴き、ニヤリと口角を上げて笑った。道人には猫が人間と同じ笑い方をしたように見えた。
ゾクッと背筋の凍る悪寒を感じるのと同時に、彼女や黒猫の背後にある鳥居の中から二本の手がゆっくりと伸びてくるのが道人の目に入った。
「あっ…」
気持ち悪い。見た目は人の手だったが動きは全く違う。まるで蛸の触手のようにクネクネ動きながら僕に向かってきた。恐怖のあまり呆然と立ちすくんでいると、二本の腕の奥から、一本、二本と増え、瞬く間に数えきれないほどの多くの触手が出てきて僕の視界を塞いでしまった。
ヤバい、これは間違いなくヤバい状況だ。動け、逃げろ。
危機感を覚えたが足が動かない。全身が麻痺してしまったかのように脳からの指令を体が受け付けない。
やがて無数の触手は僕を包み込んだ。触られている感覚はない。影に覆われているようだ。
彼女も猫も鳥居も視界から消えていた。
何も見えず、周りはただの暗闇。
僕は大きな声で悲鳴を上げたが、誰かに聞こえただろうか。たぶん聞こえなかっただろう。ビューと強い風が吹く音が響き、僕の体と意思は何かに吸い込まれた…気がした。
――見覚えのある天井。
夢か…。
僕は久遠寺の天井を見つめながらどうやってこちらへ来たのか思い出した。
あの夢で気持ちの悪い手に囲まれて、気付いたらあの場所にいたんだ。