私はあなたを好きになりたい
「私はあなたを好きになりたい」
とある午後のことだったように思う。
その言葉は唐突に、ただ、真っ直ぐに僕に投げ掛けられた。
サラサラと風に遊ばれる長髪は、艶があって美しく、美麗な眉と長い睫毛に飾られた瞳は、僕の心を見透かすように綺麗だった。白皙の肌は、彼女を幻想のように際立たせ、空色のワンピースが、彼女を妖精に仕立て上げた。
肝心の言葉を紡いだ唇は、薄く紅の色があり、真一文字に結ばれる。
「……君は誰?」
そんな美しい無表情の彼女との邂逅は、それが初めてのことだった。
「私は……」
彼女が名乗ることはなかった。もう少し待てば、名乗ったのかもしれないけれど、僕が焦れてしまうほどには、彼女は名乗らなかった。
でも、僕は名乗っておいた。彼女が僕の名前を呼ぶことはなかったけれど。
「好きになりたいって何?」
「言葉の通りよ。私はあなたを好きになりたいの」
よくわからない話だ。
‘好きになりたい’
つまり、好きじゃないし、ひどいと嫌いかもしれない。彼女は、笑みを浮かべないけど、そもそも表情筋が微動だにしないから、天然のポーカーフェイスだろうか。
嫌われる理由もないし、今回は興味を持たれたということで良いのかな?
「僕の何が気になったの?」
「うーん……そうね、オーラ、かしら。雰囲気とか、波動とか、そんな感じの直感?みたいな」
やはり、表情は動かないが、彼女は楽しげにそう言った。
しかし、オーラか。僕の何を直感したんだろう?
「ねぇ、映画を観に行かない?」
唐突に彼女が提案した。
これに頷いた僕は、馬鹿だろうか。見ず知らずの彼女は、僕をからかってるだけかもしれなかったし、何か新手の詐欺だった可能性だってある。けれど、結果的に僕らの行動は、ただのデートだった。
彼女のチョイスした映画は、コメディだった。それを彼女は表情を変えずに、観ていた。それがなんだかおかしくて、僕は映画よりも彼女の様子を観察した。
手元にあったポップコーンは、二人とも手付かずで、飲み物だけがなくなった。その後、公園に行って、ポップコーンを食べた。
なんのことはない、恋愛初心者のデートだった、と思う。
「ねぇ、おもしろかった?」
「うん、おもしろかったよ」
彼女が聞いたのは、映画の感想だったと思う。僕がおもしろかったのは、彼女の観察だけど、映画に視線を注いでいた彼女は気づいていないはずだ。
「そう、よかった。……私はあなたを好きになりたい」
「……」
繰り返された言葉に、僕の返す言葉は見当たらなかった。だけど、なんだか哀しげに見える彼女を抱きしめたくなった。出逢って、まだ、ほんの僅かだったから、そんなことはしなかったけど。
「ねぇ、あなたは私のこと好きになりたい?」
無表情での問い掛けに、無理に浮かべた微笑が幻視させるのは、僕の願望なのだろうか。
「そうだね、僕も君を好きになりたい、かも?」
「何それ、自分のことがわからないの?」
無表情に、けれど楽しげに、僕の答えは彼女のお気に召したらしい。
「そうだよ、わからない。でも、これは普通のことだよ。案外、人っていうのは、いまいち自分を理解できちゃいないんだ」
「そう、じゃあ、私はすでにあなたを好きになってる?」
「さぁ?」
首を傾げる僕に、彼女は怒ったように背を向けた。その背は、哀しげだったけれど、僕が抱きしめるようなことはなかった。
「ワンワン!」
「きゃっ!?」
しばらくそのままでいたのだけど、公園で遊んでいた犬に吠えられて、彼女が尻餅をついてしまった。
「大丈夫?」
飼い主の元に走り去る犬を見送りながら、僕は彼女に声を掛けた。
「えぇ、大丈夫」
そう言って、彼女は僕に顔を向ける。やっぱり、無表情だった。
だから、僕はこう言った。
「立てる?」
本来なら、手を差し伸ばすシーンだけれど、そんな気の利いたことができるわけもなく、彼女も頷きながら、普通に立ち上がった。
「ありがとう」
「いいよ」
「あなたは、優しすぎるわ」
「じゃあ、僕は君のことが好きなんだ」
彼女の背後から日の光が差していた。
「ふふ、そうね。私もあなたが好きになった、いいえ、一目見たときから、好きだった。もう少し、早ければ、良かったのに」
「さようなら」
「えぇ、さようなら」
彼女は笑みを浮かべたのだろうか。
スッと消えてしまった。
僕は綺麗な花を摘んで、彼女と出逢った電柱の下にそっと横たえた。
そこは、僕の幼馴染みが、小さな頃に事故で亡くなったところだった。