そのご
ここには紙がある。ペンもあった。これでようやく、ずっと一方的でしかなかった言葉を、返してもらえるようになるはずだ。それなのに、なぜか私は躊躇っていた。
「……ねえ、ソラ」
記憶は確かにここにあるのに、ひどく曖昧だ。それに、やっぱり。ソラの存在は私の記憶のどこにもない。
「私は、誰?」
多分、……本当に多分だけど。私は笑っていたのだと思う。人間、本当にどうしようもなくなったら笑うっていうのは真実だったらしい。だって、ソラも笑っていた。
泣きそうに、苦しそうに、辛そうに。笑っていた。
「誰、だろう。思い出したんだよ。思い出した。思い出してしまった。そう、だった。……私は」
ここはシェルターだ。ここは百人単位で収容可能なシェルターだ。これを作ったのは私。これを作ったのは、世界が滅ぶと知ったから。ここは、君と私の楽園になるはずだった。手を引いて走って、世界なんて見捨てていっそ二人だけで生きていこうと笑ったのに。だけど。だけれども。
「……ここで死んだ」
――間に合わなかった。
「そう、死んだんだよ。あの時、私は、自分で自分を殺した。だから……ここは楽園でも何でもない、ただの廃墟のはずで」
散らばった紙に書かれた文字を追う。実験の回数は四桁に達していた。そこは驚くべきところではないか。それよりも、これは。
私が諦めた、いつかの、あの研究じゃないか。
「あの、さ。……ソラ」
私には、妹がいた。
妹は、世界のために殺された。
二人で逃げ出よう、と告げる声には迷いなどなかったと断言できる。私にとっての世界とは、あの子のことだったから。それなのに、差し出した手はそっと押し退けられた。
――ねえ、お姉ちゃん。この世界が続くのならば、わたしの犠牲にも意味はあるはずだよね。あなたが一人ででも生きていてくれるのならば、それだけで十分なんだから。どうか生きて。幸せになって。私は死んでもいいから、どうか。
……お姉ちゃんは、生きてね。そう呟いて微笑んだ彼女に、私は何が言えたのだろう。思い出せない。記憶が揺らぐ。それでも、確かなことに……あの子は世界のためという詭弁に殺されたのだ。
犠牲に意味などなかった。世界は滅ぶ。空は落ちる。宗教は人を救わない。神様は何もしてはくれない。当然の、帰結として。
この未完成のシェルターには、私ともう一人、あの馬鹿だけが逃げ込んで、それで終わり。他に生きている人がいたとしても……もうどうしようもないくらいに、この世界は壊れ果ててしまった。でもどうでもいい。どうでも良かった。あの子がいない世界には、何の価値も意味もないんだから。
だから。だから、だから。たった一つだけ。
「――あの子を、取り戻したかった」
最期にもう一度だけ、あの子と話したかった。死んだ人間は生き返らないと、声がする。聞き慣れた、聞き飽きた、自分の声だ。分かってるよ馬鹿。でもどうしようもないじゃないか馬鹿。馬鹿。
「記憶と見た目、言動に対する反応、人格。ちゃんと偽りなくほんの些細な欠けさえなくあの子のデータを植え込んでもね、無理だったんだ。生き返らない。作れない。取り戻せない。あの子はどこにもいない」
思い知らされるたびに、死にたくなった。それでも何度となく繰り返す。そう、この部屋だ。ここで、実験を、研究を、神への冒涜を――繰り返した。ここには私と、装置の前に立つ私に声を掛ける男が一人だけ。彼は、正しくて優しくて真っ当で、愚かだった。
「狂っていると言われたよ。もうやめろ、と何度も何度も言われていた。でも、……でも、さぁ」
生きてね、と、言われても。君がいない世界では、息さえできない。
未来には何もなかった。あの男は、私を立ち直らせようとしていたようだけれど……無意味だ。あの子が、私の世界だ。そう、覚えている。思い出した。
ソラ。そら。……美空。私の妹。私の家族。私の、世界。
世界のため。なんていう言葉を受け入れる君が愛しくて、いっそ憎かった。死なない君が欲しかった。君と二人だけで歩いていける世界が、欲しくて。だから。
「あの子がいないのに、生きていたくなかった」
「――僕も、同じです」
独白じみた声に想定外の返事があり、私は一拍ばかり思考を停止させた。何らかの機械を弄りながら、彼は私に微笑みかけている。彼……ああ、ソラ、が。
「同じです。だから……僕はあなたに、ここに来て欲しくなかった」
空色の瞳が、憎悪のような光を灯して、私だけを見据えている。それを見て、ああなるほど、と。何かに納得したような気分で、私は小さく笑った。
ここは。
私の罪の在り処であり、そして、きっと――。
「君が、私を作ったんだね?」
確信を持ってそう問い掛ける。まるで人間のような仕草で唇を噛み、ソラは小さく頷いた。重い沈黙が落ちる。だけれども、私はなんとなく愉快な気がして、人肉らしきものが浮かんでいる装置に視線を向けた。
人工的な人間を作ることには成功したのに、あの子は生き返らなかったんだ。死体なんて私の手元にはなかったから、遺伝子のデータが足りなくて。私とあの子は血が繋がっていなかったから、……何もかもが足りなくて。だから、そう。
「私の最後の失敗作の、君が」
太陽を糸にして紡いだような、金の髪。空を呑み飲んだような、青の瞳。白い肌。華奢な身体。美しい顔立ち。
それでも、どうしようもなく、あの子じゃない。これは、『機械』だ。
「ねえ、ソラ。私を作ったんだね」
罪がある。罰がある。地獄がある。君がいない世界だけが、ここにある。
「……はい。ドクター」
張りぼてで出来た楽園は壊れていく。手を繋いで歩いた少しだけの時間が、一瞬で色褪せる。だけれども。
思い出せたことに安堵して、歓喜する私には、きっと救いなどないのだろう。
(お前はやっぱり馬鹿だよ。常と同じように呆れたような顔をした男が、心底嫌そうな声音でそう呟いた。随分と、痩せた。それに、顔色が悪い。まるで死人みたいじゃないかと笑うと、彼は驚いたように目を瞠った。これで最後になる。これで駄目なら、私はもう諦める。そう決めて、また画面と向き合った。背後で何かが崩れたような音がする。――振り返りは、しなかった)