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そのよん


 思い出せないものが、沢山ある。それらすべてを忘れたままでいるべきだって、ソラが視線で叫んでいる。なのに、私の心は、ソラの願いを叶えてあげられない方向に意思を固めていた。

 忘れないで。思い出して。忘れたくなかった。思い出さなきゃいけない。声が、心臓の奥の奥から響いてくる。そうだ。私は忘れたくなんてなかった。どれだけ辛くても、どれだけ苦しくても、どれだけ――何かを憎んでも。


「憎かったよ。恨んだよ。全部壊してやろうって、思ったんだよ」


 思い出したのは、そんな、救い難い激情だ。あるいは衝動だろうか。目に映るすべてが、あの子を殺した敵に見えた。見えていた。

 でも、そんなことを考えるくらいに。


「だって、あの子のことを愛していた」


 白い花が咲いていた。

 満点の星空を見上げていた。

 淡い黄色のワンピースか翻る。

 こちらを見つめる、空の色を映した瞳が、瞬いて。


「おかしい、よね。あの子の名前さえも思い出せないのに、愛していたことだけは確かなの」


 ソラが、また、首を横に振る。ああ、優しい子だなぁ。私の記憶の中に、ソラの存在は欠片もない。もしも、扉を開けたなら、何か彼が知られたくなかった事実に触れることになるのだろうか。それなら……それでもいいかな。


「ソラ」


 この醜い声帯を震わせた音が、透明なガラスの壁みたいに。二人の距離を曖昧に、けれど確実に寸断した。


「……私は、ひどい人間だ」


 許さないで。赦さないで。釈さないで。

 

「ひどい、姉だった」


 君だけは、私をゆるさないで。


 ソラはもう顔をくしゃしゃに歪めて、髪を乱して必死に拒絶を示していた。握り締めた手が震えている。震えを止めたくてなのか、どうなのか分からないけれど。私は彼の手を強く握り直した。それだけしか出来なかった。視界が眩む。

 記憶が、色を取り戻していく。輪郭に色彩が落ちていく。



 叫ぶ声を、思い出した。

 それは、私を糾弾する、男の人の声だった。



「お前は間違っている。お前は狂っている。そんなことをしてもあの子は喜ばない。だからどうしたって言うのだろうね」


 タッチパネルに触れて、私は呟く。ソラはもう私を止めようとはしていなかった。手は繋いだまま、ひどく冷たい体温はただ私を責めるようにそこにあるけれど。ソラの手は、震えたままだ。


「たった一つを取り戻すための対価が世界なら、私はそれでも構わなかった」


 s、と打ち込んで、欠片だけを取り戻した記憶を手繰り寄せる。


「先に優先順位をつけたのは世界だろ。それと同じことをやり返しただけだ。そういう、自己の正当化だけは上手い自分がほとほと嫌になる」


 o、と打ち込んで。一度だけ瞳を閉じる。瞼の裏側に蘇るのは、世界で一番愛しいたった一人の笑顔だった。


「でも、仕方ないじゃないか」


 r。ソラの方向から、息を呑む音が聞こえてきた。そうだね。ごめんね。私は本当にひどくてずるくて情けない、大人だ。


「取り戻せないなんて知ってた。失ったものがまたこの手に戻るなんて、途方もなく都合の良いだけの夢だ。それでも」


 a。打ち込んで、振り返る。ソラが、泣き出す寸前の子供みたいな顔で私を見ていた。ごめんね。ごめん。君を苦しませなくなんてなかった。君を、悲しませるつもりなんてなかった。

 そんなのは詭弁だ。口先だけのでまかせだ。それでも、本当に、願っていたことは嘘じゃない。


「――あの子がいないなら、世界に意味なんてない」


 ソラと手を繋いで歩いたこの本当に少しの時間。私はちゃんと楽しかった。忘れていたから、楽しかった。きっと、無知っていうのは、希望なんだろう。何も知らないっていうのは、奇跡みたいな幸福なんだ。それでも。

 思い出さないと、呼吸さえ上手くできない。


 何かを振り払うように、Enterを押した。


「ごめんね、ソラは何も悪くないよ」


 ピー、っと。脳天気に響く音。それから、カチッと軽い音がした。確認すると、扉の鍵はかかっていない。押すと、そのまま開いていく。ああ。――ああ!

 最初っから、何もかもを忘れ切ってなんて、いなかったんじゃないか。本当に、馬鹿な女。


 一歩、暗い部屋の中に足を踏み入れる。無意識に、いつもと同じ仕草のように、電気をつけた。少しだけ複雑な場所にあるんだよね。右側の、棚の裏側、ちょっとだけ手を伸ばしたところ。最初は棚なんてなかったのに、収納が足りなくなったから、って。


「……なにこれ」


 思わず呟いた声は、震えていた。だって、おかしいでしょ。

 そこは、局地的な台風でも通過したのかってくらい、ひどい有様だった。散らばった紙、壊れた機械、ガラス片、血の跡。シェルターの中だから、外からの影響は受けないはずだ。だから、これはきっと、人為的なもので。それは、誰の。誰がこんな。


 頭が痛い。


 嫌な予感を振り払うように、一番近くに落ちていた紙を拾い上げる。お手本みたいに綺麗な字が、びっしりと書き込まれていた。何かの記録のようだ。痛む頭にむりやり押し込むように、視線を走らせる。

 ……第341、実験体。失敗。失敗、だけは赤い字で、少しだけ荒っぽく書かれていた。これは私の字ではない。嫌に冷静な思考が、そう判断を下す。じゃあ、私ではないなら、誰の――。

 思考に沈む私の肩に、冷たい手が触れた。


 そのまま、華奢な指先が、私の手から紙を取り上げる。蒼白な顔面で紙を見たソラは、すぐにそれを破り捨てた。何度も何度も、原型を留めなくなるまで、破り続ける。

 ああそうか。

 腑に落ちて、私は床に散らばった絶望の発露を見下ろした。これは、『君』の嘆きであり、悲劇であり、かつては希望だった何かなのだろう。


「君は」


 私の声は多分届いていない。


「……君は、私のせいで、苦しんだのかな」


 だったら嫌だな。と、他人事のように思考する。記憶はどうしてもまだ曖昧で、ソラがこんなにも私から記憶を遠ざけようとしている理由も分からないけれど。なんとなく。本当に、なんとなく。

 ソラの苦しみは全て、私が理由のような気がした。



(もういいよ。声がした。振り返ったあの子が笑う。ありがとう。なんて言わないでよ、だってまだ何も終わっちゃいない。助けるんだ。君だけは、私がちゃんと守るんだ。他の何がどうなったって構わないから、ここにいてよ。叫ぶ私に向けて、君はやっぱりいつもみたいに微笑んだ。磔にされる聖人のような、笑顔だった。やめてよ。そんなこと思わせないで。帰ってきて。やめて。――奪わないで)


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