そのじゅう
彼女が空に持っていったものは、沢山ある。だけど、どれもあの子の助けにはならなかったと思うと、最早世界すべてを憎たらしく思えてしまうのは私の浅はかさ故だろうか。
花の種なんて、助けにならない最たるものだ。下らない。馬鹿げている。そう思ったのに、自分で選べるたった一つをそれにした彼女は、ただ笑った。綺麗に、優しく、見慣れた色で。
ああ、星になったという犬、クドリャフカの願いは何だったのだろうか。ふ、と考える。考えた。結論が出ない思考は嫌いだったはずなのに、彼女が絡むと無意識に思考してしまう。そんな私の愚かさを好きだと言ってくれる人は、もうどこにもいないというのに。
いつもそこにあったはずの体温は、冷たい機械に取って代わられた。
いつか叶うはずだった約束は、もう絶対に叶いはしない。
『……お前は、間違ってる』
知っているさ。だから黙って死んでくれ。彼女の恋人だったくせに、ただ見送った恥知らずめ。
『アイツは、俺のことなんか好きじゃなかった』
ああ、いや。
知っていた。恥知らずは、私だ。
『なあ、■■』
振り返る。やつれた顔の、死にそうな顔色の、見慣れた男が、亡霊みたいに私を見ていた。
『人間ってさ、案外、滅んじゃってよかったのかもな』
そういえば、ここからは星が見えないな。
床が赤く濡れているのを見下ろして、そんな、今更なことを思い出した。
長い、永い、長い――夢を。そう、悪夢をずっと見ていたような気がする。その夢に君はいなくて。その夢には私だけがいて。妄執に似た何かを抱え続けている私が、ただ君を探す夢で。
だけど。果てには、きっと。そうだ、終わりの先に君が待っていてくれるなら、私は。……私は?
「……ねぇ、お姉ちゃん、知ってる?」
夜の真ん中で、君が笑う。
決して夜に溶けない金色を靡かせて、世界で一番綺麗に笑う。
「死んだ人はね、星になるんだよ」
握り締めた手が震えているのに気がついていた。穏やかな声が泣きそうに歪んでいるのに気がついていた。だから、逃げようと言ったのに、あの子はそれでも否定する。
どうしてだろう。どうして、君は君自身のために世界を捨ててくれないんだろう。そんなことばかりを考えている私を見透かすように。ただ、優しく、でも残酷に。……何よりも。
「だから、大丈夫」
生きてくれと希うように、彼女はそっと私を捨てた。
「見下ろす世界にあなたが生きていれば」
震える手で、泣きそうな顔で、それでも柔らかく微笑んで。ああ、怖がっているくせに。恐ろしいくせに。本当は生きたいくせに。可哀想な子。いっそ、このまま君を連れて逃げてしまおうか。本当は、そうしたかった。できなかった。君が、許してくれなかったから。
でも、本当はね。君と一緒にどこかに逃げてしまいたかったんだよ。
「……なんて、きっと、嘘かな」
声のトーンが、落ちた。柔らかで温かで清らかなものばかりを抱き締めていたはずの君が。その裏側で、私が彼女の中に初めて見つけた何かが、声に滲む。
「忘れないで。わたしのことを忘れないで。お願い。死ぬのは怖くないの。わたしの命が誰かの希望になるなら、それ以上に喜ばしいことはない。だから、怖いのは死じゃないの。……わたしが、怖いのは」
最後の楽園で、花弁を君が踏みにじる。躊躇うような呼吸の狭間、私も深く行きを吸う。甘ったるい香りに混ざって、薬品の匂いが漂ってきた。ああ。ここも時期に駄目になるのか。知っていたはずなのに、寂寥が抑えきれない。思い出がたくさんあるのだ。花かんむりを作ったこと。君と二人で笑いあったこと。全部全部、この終わる世界に閉じ込めてしまうしかない。
人は地球を捨てねばならない。
君は選ばれた。
運が悪かっただけならば、どうして私が変わってやれなかったのだろう。
後悔がある。たくさん、たくさん、山のような。あるいは、汚泥のような後悔が、消えてくれない。
そんな、醜い私に向かって。
「ねえ、大好きなお姉ちゃん」
君が、世界で一番綺麗に、笑った。
「……わたしを忘れないでね」
「――」
振動を感じて、目を開いた。視界はひどくぼやけている。もう、物の輪郭さえ曖昧なのに、私を背負っている彼のことだけは何故か鮮明だった。
声を出すことどころか息をするのも億劫だが、目を覚ましたことだけは伝えておきたい。息を深く吸って、吐いて、ちょっと吐きそうになりながら口を開く。
「……そ、ら」
「目が覚めたんですね」
声というよりも呻きのような音だったというのに、彼は正しく聞き取ってくれたようだ。身体全部を彼に預けたまま、小さく頷く。上機嫌そうに笑みを零し、彼は明るく声を上げた。
「よかった。もう少しで外なので、起こした方が良いかとも思ったんですけど……起きなかったらと思うと怖くて」
返事をする体力はない。無言のまま、呼吸だけを返す。
「ねえ、外はどうなっているんでしょうね。もう、生き残りなんていませんよね。いたら、こんな目立つ施設が見つかっていないはずありませんし」
いないといいね。皆、ちゃんと死んでいたらいいよね。
それは私の希望で、願望だ。でも、ちゃんと滅んでいるはずだ。そうなったはずだ。宇宙へ旅立つ計画は無に帰した。船は落ちた。初めから無理だったことが無理だと確定しただけであんなに人間は狂乱するのだ、と。彼女に教えてあげたいくらいの有様だった。
私は、世界を憎んだわけではない、けれど。許すこともできなかったから。
「アダムとイヴみたいですね、何だか。ああでも違うか。僕は機械ですから繁殖は不可能ですし、あなたも、無理ですからね」
あの子だけが可愛かった。
あの子だけが綺麗だった。
あの子は、私にとって。
「それに、あなたの神は死んだ」
わたしにとって、かみさまだった。
「ならばこそ、楽園は滅びたのでしょう。神が死ねば神のための楽園なんて不要ですからね。放棄されたそこに、救いなんてありはしませんよ」
彼の温度は、人間ではありえないほどに冷たいはずなのに、背中が少し温かく感じた。私の体温が移るほど長く背負っていてくれたのかと思うと、少し申し訳ない。
「ねえ、ドクター」
彼が立ち止まる。私の顔なんて見ようとしないで、彼は小さく呟いた。
「外に人がいたら、どうしますか」
「……どう、もしないよ。私は死ぬ。君も壊す。それ、だけだ」
「あは、は。そうですよね」
「君には、自壊するための、コードが仕込んであるんだ。だから、ちゃんと、終わらせてあげられる。今度は、ちゃんと、ちゃんと」
後悔があった。
後悔がある。
あの子を引き止められなかったこと。あの子の手を取って逃げられなかったこと。何一つうまくやれなかったこと。伝えたい言葉の一つも言えなかったこと。結局、あの子の犠牲を無駄にしてしまったこと。
でも、一番は、きっと。
「ちゃんと、ふたりで、しねるよね」
ずっと一緒だという言葉を、嘘にしたことだ。
(ごめんな。と呟く声を聞いた。一瞬だけ意識が途切れていたから眠っていたのかもしれない。だからきっと、夢だろう。謝罪をされるようなことは何もない、……といえば嘘になるけれど。彼に謝られるような心当たりはなかったのだ。そっと目の前の機械に向き合う。これで最後。これで終わり。どう足掻いても、私の命はここまでなのだ。だからせめて、終わりくらい、なにかに刻みつけ――ああ。そうか。そうだったのか。今更になって理解する。彼女の願いは、きっと。)
次で終わります。




