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プラスチックの草原

作者: テマリ

 

「殴られるより殴る方がつらいこともあるんだ」


「お前にも悪いところがあるんだ、周りの奴らに聞いてもいいぞ」


「さっさと許して仲よくしろ。俺の立場も考えろ出来損ないめ」


「大げさなヤツ、お前はしばらくそこで頭を冷やせ」


 俺があの日、被害者にすらしてもらえなかったこと。嘆くという個人の感情さえ、世界は、周囲に認められないと露わにできないことを思い出した。


 ――最悪な記憶。

 俺はせんべい布団の中でぼやけた天井の木目を眺める。


 薄い壁からは、隣室の朝のテレビニュースが漏れて聞こえる。起き抜けのぼけた頭で、不快な夢の原因を記憶から辿ろうとするが、恐らくは最近、特に春になってからこっち、仕事で感じの悪いおっさん客が増えてきたストレスからだろう。


 それも元より俺が中年男性全般が苦手、嫌悪というより恐怖の対象だからだ。理由は月並みな話で中学の頃のクラスのいじめ。それに対する父親と、親父を懇意にしていた担任のイジメの解決方法が良くなかった、ただそれだけ。よくある些細な、どうでもいいこと。


 その後はありがたく、立派に育った俺だ。中学当時の経験がものを言い、大学での就職活動も中年の面接官相手に派手に爆死。もともと話すのが苦手なところに企業の濃厚な圧迫面接が重なり、今ではおっさん相手にはろくに目も合わせられない社会不適合者としてコンビニ店員なりの労務に勤しんでいる。


 おっさんに限らず人付き合いが苦手だ。アパートでの近所づきあいも俺は得意じゃないものの、隣室の住人は生真面目で、ほかの住人とよく話してる気立ての良いおっさん。たまに留守でも、朝に決まってニュースの音が流れていたのでそういう設定をしている、見た目にも落ち着いた身なりで几帳面を絵に書いた様な感じのいいおっさん。おかげでこんな俺でも、過去に二度くらい洗剤の貸し借り程度はできた仲だ。


 壁からのコメンテーターの笑い声を無視して、寝ぼけた頭は隙間風で肌寒いシンクの換気扇を回す。いつもながらにまぶたの重さを実感しつつ、シンクの上のガスライターを手に取って煙草に火をつきやすいように、あくび交じりの吐息をそそぐ。

 霧のような微かな煙が浮いたあと、俺は肺いっぱいに爽やかな朝の燻煙を満たす。朝一の深呼吸は嫌な気持ちも落ち着かせてくれる。やっぱりタバコは最高だ。

 香りも良い。無名な俺でも喫煙者と言う個性がつけられる。それに何といっても、他人に話しかけられたときなどは、咥えただけで大抵の会話は首を縦か横に振るだけでこなせるようになる優れもの。俺みたいなやつらの必需品。


 まぶたが軽くなり、代わりに燃えて短くなったタバコをシンクの空き缶に詰め込んで、そのまま横のビニール袋を掴み布団の脇の座卓に持っていく。腰をせんべい布団の上に下ろし、中から割りばしと冷えたコンビニのカツ丼を広げて、プラスチックの蓋の上に梱包していたビニールと緑のバランごと不味い漬物を移す。


 不揃いの割りばしと食べ飽きたチープな食事。衣が剥がれた豚肉、水分でビチャビチャな米、油の回った辛い卵をまとめて口にかきこみ、寝起きの胃袋に土砂のように朝食が堆積していくのがわかる。


  半分ほど口に含み喉が辛くなったところで、手に箸と丼を持ったままシンクに戻って、安いキャラクターもののコップに水を注ぐ。立ったまま残りのカツ丼を口に頬張り、今度は空になった容器と蓋の上のゴミをビニール袋にまとめる。

 スウェットのポケットにライターと箱のつぶれたタバコをねじ込み、枕もとの携帯電話を充電器から外し、部屋を見渡す。

 電灯の傘から伸びる電源ヒモがクルクルと揺れている。

 掛布団も折れ曲がっていて、キレイに畳みたい。

 壁からは家電量販店のコマーシャルが聞こえる。

 外出用の青のジャンパーに袖を通すと、毎日のことだが体が途端にだるくなる。

 シンクの蛇口から水滴が二粒ほど落ちるのを見て、カバンを掴み家を出ることにした。


 部屋の前、ウンザリする陽光に晒されているところどころに錆びた金属階段。これがある意味俺にとっての本当の玄関で毎朝の引き返したくなる一番の難関。鬱屈としながら階段から足を一歩下ろしたところで、眼下の自転車置き場の人影に気づく。


 カバのような見た目の大家のにやけ面に、大声を上げて談笑する派手な見た目の一階の住人の女子大生。俺は二人を意識しないように片耳にイヤホンをさして、自分のスニーカーの靴紐の長さに意識を傾けながら、日光を避けるように早足で自転車置き場に進んだ。


 ボロアパートから職場のコンビニまでは、駅前の大通りを抜ける。職場は、歩いて10分ほどの近所だが、俺の通勤ルートは裏道と自転車を駆使して、およそ倍ほどの時間をかける迂回路。人に話すと不思議がられるが、前に人通りの多い駅前を使って通勤途中のサラリーマンにぶつかられてからは、これが俺なりの秘密の近道になっている。


 迂回路は人通りの少ない寂しい道だが、おかげで自転車でもそれなりに早く進めるし、まるで仮面ライダーが悪の怪人とでも戦っていそうな寂れた雰囲気に想像を膨らますのを楽しめるのも悪くない。


 景色を眺め、今日は桜の怪人かと思いながら特撮番組の主題歌を鼻歌交じりに走っていたが、久々の路上駐車の多さに誰かに聞かれるかも、と黙って誰にも聞かれないように口パクで職場のコンビニの裏に自転車を停めた。






「――ざっしたー。」


 この町の駅は快速電車も止まり利用客もそれなりだ。おかげで駅前はコンビニチェーンが商店街と見紛うほどに並ぶ激戦区となっている。その激戦区から郊外に向けて少し離れた、客足の乏しい店が俺の職場のコンビニだ。


 駅近くの店との違いは少し広い駐車場があるくらいのものだが、たまに来る客はパーキング代わりに車を置いていくヤツか店をたまり場にする中学生くらい。つまり、昼間のこの時間は土地勘のないヤツか、仕事もしてない俺のような社会不適合者くらいしか来やしない。


「バラン先輩、俺さっきの客のん補充しときますよ」


「あー、うん。ごゆっくり……」


 この、夜中にスウェットでドンキに入り浸ってそうな男は後輩の青木。青木はスマホ片手にいつもの冷蔵庫裏へ。だいたい昼間のこの時間、青木は大好きなソシャゲのログインボーナスのために補充か発注の人目に付きづらい地味な仕事に実直に励んでくれる。当然人よりは少し時間がかかる。こいつはそんな勤務態度のおかげで、駅前のコンビニを端から退職、髪はボサボサ、ピアスは外さないし敬語もできない。その結果時給の低いこのヒマな店に流れ着いたらしく、注意しても無駄だと今更誰も何も言わない。


 青木の言う先輩とは俺のこと。年齢も5つは違うし、呼び方も本名じゃない不本意なあだ名。休憩中に、たまたま弁当に入ってる緑のバランを草草と騒いでいた青木に、人造バランと名称を教えてやってから、青木にはバラン先輩とそう呼ばれている。悪意はないのだろうが、食えたもんじゃないとバカにされている気にしかならない。


 どちみち自分のシフトの間に自分の仕事をこなすもの。俺が黙ってホットスナックの補充を終わらせようという頃、青木は歩きスマホにずいぶんと集中しながらレジカウンターの中に戻ってきた。この集中力を実務に回してほしいと思うのも無駄なのだが……。



「先輩、俺のフォロワーがこないだからよく言ってるんすけど……」


「何?」


 レジで当たり前にスマホを眺めながらカウンターにもたれる青木。


「最近ここらへんでJKが変質者に襲われるの増えてるらしいっすよ」


「こわいな。最悪だね、犯人とか見つかってんの?」


 レジ袋の補充も終わり、青木のこのやる気のない様を客に見られたくない俺は、生返事をしながら入り口に視線を留める。


「見つかってるんじゃないすか? 知らんけど、きっとバラン先輩みたいなんが犯人なんすかね。もし先輩がやってんなら先に言っといてくださいね!! 俺超庇うんで」


「あーはいはい、それでいいから表のゴミ片しといてね」


「はいはい」と気だるげにしながら、青木は入り口駐車場に散乱したゴミや吸い殻の掃除に行った。


 それからの俺は、一時間は帰ってこないだろう青木の分も仕事をこなし、夕勤のバイトとの交代に向けてつり銭の確認の準備をしてから青木のフォローに向かう。駐車場では、大きめの弁当ゴミはタイヤ止めのコンクリートブロックに寄せられ、細かいゴミは散乱したままだった。


「いつものことだけどさ」と腐りながらも、いつもの青木のうっかり忘れた大量のゴミを、手に拾い集めてからゴミ箱に投げ入れる。


 そんな俺のことなど知らずに当の青木本人は、すでにバックヤードで帰宅の準備を完了させている。青木はいつも退勤時間ちょうどに帰るものだから、彼の仕事のフォローをしていると、うっかり帰宅のタイミングが一緒になって面倒な話題をふられるなんてこともない。人嫌いなどを抜きに、彼とは大多数の人が関わりたくないのは間違いないだろう。


 そうして夕勤のバイトに二人分の確認と引継ぎが終わった後、今日の晩飯と明日の朝食のメニューを店頭の弁当コーナーから選び終えたら、青木の退勤から30分は遅くなる。しかし、時間を気にすると、ついポケットの仕事中のメモやゴミを捨て忘れるので、時間をあまり意識して急かさないことが俺にとっては重要だ。急ぐと大抵、レシートやメモ紙が翌朝の洗濯物にまとわりついて面倒な思いをさせられる。身支度を終えた俺は、買ったばかりの弁当を27インチタイヤの5年物の愛用のママチャリの前かごに入れ、自転車に跨り人ごみの逆側へ向かって漕ぎ出す。


 近頃は春先ともなり昼間は暖かいが、自転車を走らせるとまだまだ肌寒い。


 アパートへ向かう帰路は、線路に沿ったコンクリート塀に描かれた雨で薄れたチープなスプレーアート、錆びた鉄筋を家庭ごみで彩った意欲的なオブジェ、それに原寸大のホイールのない自転車のフレームなどを飾った道程、さしずめ現代アートの展示会場みたいなものだ。時折、臭いの方がよっぽど刺激的なことが気にはなるが……。


 左耳のイヤホンからはアイドルのポップソングが、右耳には列車が線路を踏みしめる音が聞こえる。以前に、高架下でばあさんを後ろから轢きそうになってからは、もっぱらこのスタイルだ。そのときは向こうも気づいていなかったし何事もなかったが、街灯も少なく危険なことから帰り道には特に周囲に気を付けるようになった。


 自転車の前かごに重ねられたのり弁を揺らさないように鈍行のスピードのまま、ゆっくり根城のアパートの前まで近づいたところで、いつもの自転車置き場の前に見慣れない二人組がいることに気づいた。


 自転車に乗ったまま自転車置き場に突っ込んで止めるのが、いつものやり方だが、万が一でも、見慣れない二人組にぶつかったりするのも面倒なので、手前から自転車を降りて手押しで駐輪場に進む。しかし、近くなればなるほど踵を返したくなる衝動に駆られる。自転車置き場にいるのは見たこともないスーツ姿の二人組。カバンも持っていないし着崩しているところに、サラリーマンというより住人の誰かへの借金取りのようなヤクザな雰囲気を感じる。


 どちみち関わりたくないことに変わりはない。目を伏せたまま急いで自転車を止め、イヤホンと自転車のカギをのり弁の入ったビニール袋に投げ込んだ。


「ちょっと……」


 ――低い聞きなれない男の声。背中に脂汗が広がる。頭からビニール袋を被ったように息苦しくなる。首が固まって動けなくなった俺の視界を紺色のスーツが覆う。


「ちょっといいです? お兄さんお名前は?」


 俺より身長の高そうな紺スーツの男は、背後で自転車のサドルに手をのせて、なんだか値踏みをするかのようにジロジロと俺を見ている。その後ろではグレーのスーツの小太りの中年が腕を組みながら険しい表情で俺の退路を塞ぐように立っている。


「えっと……」

 言葉が詰まる。まずい。紺スーツの男は笑顔だが目が笑っていない。小太りの方は親の仇を見るように睨んできている。ヒザが震えているのか頭が揺れているのか分からないくらいに視界が揺れて、駐輪場のライトが蠅のように視界で揺れている。動揺しているのがわかる。


「あ……青木です」


 咄嗟に俺は嘘をついた。元よりこういう人種とは無関係なのだから、今を凌げれば――


「そうなんだ」と、紺スーツはフレンドリーに俺の肩をたたくように、俺のシャツの襟首に手を置いた。


 さっきまでと空気が明らかに違うのがわかる。拉致される? まずい。逃げなきゃ!! 警察を、いや、のり弁持ってかなきゃ、中に鍵! 思考が暴走する。


「お前な、な? ちょっと話聞かせてほしいんだわ?」


 喋れなくなっている俺に向かって、大股で向かってくるグレーのスーツに不似合いな汚れたスニーカーの太った中年男。男が唾を飛ばしながら、大きく顔写真の貼られたバッジ付きの黒い手帳を一瞬だけ開いて、すぐさま胸元にしまう。


「警察だよ。時間あるよな? なぁ?」


 けいさつ? おれは恫喝されてる? なんで? 混乱する俺は、咄嗟に弁当を脇に抱えてイヤホンが絡まないよう急いでたたむ。

「ついてこないと不利になるぞ」と、二人組は俺が逃げられないように密着してくる。混乱する状況に重ねて、俺にとっての理不尽の象徴が迫ってくる。


 閉じた口の脇から生きたゴキブリを何匹もねじこまれるような抗えない嫌悪。

 口の周りの薄い肌にチクチクと悪意が皮脂を削る。


 指示に従えばこいつらはイジメをやめる。満足させなければいけない。自分たちが正しい、と迫害するときの目。従う。従うしかない。とにかくやめてくれ。


 頷いた俺は、訳も分からないまま近くの駐車場まで引っ張られた。そこに停められた国産の普通車の後部座席に、腕を組んだままのグレースーツの小太りと一緒に押し込められる。


 二人組の警察は常に何か話しているようだが、俺はそれどころではない。頭の中にイヤホンを直接突っ込まれてるように騒音がガンガンと反響し続ける。頭の遥か後方で響く金切り音、両目には角膜に爪を立てて誰かに転がされるように、左右であべこべに違う視界を映す。


 いつのまにか、安いプラスチックで組みあがった俺の体は、ヘドロのような臭気で中を満たされる。重く、固くへばりつくヘドロが車の振動と共に攪拌されてノドに這い上がる。鼻と口を両手で掴み、何度何回飲み下してもヘドロのトゲの生えた足がノドに刺さって苦しいまま。


 窒息しないためには息を吸い続けなければ、――



 気が付けば、俺は警察署の階段を上がらされているところだった。


 中学のころを思い出す。職員室に連れていかれるときに浴びた視線。明らかな敵意を込めた視線と気づいてるのに居ないもののようにわざと扱う視線。関わりたくないと示す嫌悪。引きずられるように入った事務所は正に職員室のそれで、明らかに異物として歓迎されてないのがわかる。


 事務所の更に奥の部屋の前まで引きずられ、ケータイと弁当をとりあげられる。紺スーツが急ぎ足でノートを誰かのデスクから取ってくる。そのまま俺は、俺を連れてきた二人組と二畳ほどの狭い部屋に入る。そこには、ところどころ凹んだ事務机と2脚の安いパイプ椅子のみで、窓には全て鉄格子が嵌めてある。まるでドラマの取調室のようだ。


「まぁ座ってよ」


 紺スーツの指さした奥の席に着く。俺が座ったあと、扉にもたれるグレースーツの中年は、腕時計を外して、意識を集中するように黙りこんでいる。しかしこの席、カーテンも無くすりガラスの窓のせいで夕焼けがずっと顔にかかって眩しい。


「どうぞ」と紺スーツの男がノートを開いたのを合図に、グレーの小太りがいきなり顔を寄せてくる。


「なぁ……お前なんで呼ばれたかわかるか? 」


 興奮する男の鼻に浮き出す脂汗が口に入りそうで気持ち悪い。饐えた汚水のような臭いに吐き気を催す。そうして俺が動揺するほどに、男の顔との距離は近くなる。臭いをかがれているかのように顔を寄せられ、代わりに男の口から出た湿気が目や鼻といった粘膜にまとわりつく。


「な、なんでですか……」


 俺がようやく絞りだせた細い声に、男の顔はそれだけで人を殺せると思わせるほどに、赤く変色し深いシワが刻まれた。


「駅の高架のことだよ!! 自分が一番わかってんだろッ!!」


 駅の高架といえば、そう、あのばあさんとぶつかりかけたあのことだろうか、しかし――


「で、でも、誰もケガもしてな――」


 俺の言葉を遮り、太い腕が飛んでくる。


「ケガしてなけりゃなにしてもいいのか!? お前誰に迷惑かけたかわかってんのかッッ!」


 手の甲で壁にもたれるような姿勢で、俺を壁に押し付けて体重をかける脂ぎった豚オヤジ。こんな奴が警官なわけない。サディスト、犯罪者じゃないのか。顔が近い。こいつは俺を殺そうとしている、殺しても構わないと思っている。黄ばんだ歯が、虫の様にもがいてる俺を、垢が寄れたワイシャツが、なんでなんだよ……。

 グレースーツの豚の息をすする様に俺が五回は吸い込んだ後、ノートを畳んでから紺スーツの男が「まぁまぁ」と止めに入ってきた。


 バイト中にたまに現れるクレーマーらもこうだ。片方が脅し、もう片方が宥めすかすいわゆるマッチポンプ。恐喝の常套手段と知っていたのに、俺は助けてくれた紺スーツの男に心から「ありがたい」と思ってしまった。


 助けを求めたら応えてくれると思った俺は、その一心から知ってる限りを彼に話した。おばあさんとぶつかりかけたこと、今日のシフト、本名、家族構成、中学のいじめ、好きなアイドルまで、紺スーツの男は時折にこやかにしながら耳を傾けた。時折合いの手のように、ジャケットの袖のプラスチック製の飾りボタンを壁で割ろうとでもしてるのか、豚オヤジが「親に迷惑をかけるぞ」「こっちは全部わかっている」と、机や壁に腕を叩きつけて騒音を立てる。まるで駄々をこねる大きな子供のようで気持ち悪い。


 気づけば夕日は落ち外は真っ暗、時計もないこの部屋ではどれくらい時間が経ったかさえわからない。


 俺は気づかないうちにあのおばあさんに危害を加えていたのか、自分が信じられなくなる。もしそうなら、傷害……もしくは殺人なんてことになったら新聞に載るとかニュース……最悪だ。


 打ちひしがれる俺に、豚オヤジは執拗に触れてきた。子供が毒をもつ毛虫を木の棒ですりつぶす様に、しつこく同じことを何度も何度も、何度も何度も繰り返して追い詰めてくる。


「本当は何をしていた」


「悪いと思っているのか」


「他にもあるだろう」


「バカにしてるのか」


「素直に今言えば罪も軽くなる」


「今日は帰れると思うなよ」


「俺たちの苦労も考えろ」


「泣きたいのは俺たちの方だ」


 俺が頷くことしかできなくなったころ、二人組は頻繁に外に出るようになった。


 それからしばらくして、一方的な終わりが告げられた。


「まぁ、今回はおばあさんも大したことなさそうだし、ご家族の方も気にしてないそうだから帰っていいよ」


 紺スーツの男が俺の荷物を抱えながら部屋へ戻ってきた。豚オヤジが鼻息を荒くしながら、扉を開けて待っている。


「はい、これ預かってたキミのケータイと弁当ね」


「あとキミのすぐ連絡のつく電話番号と、迎えに来れる人いないかな? 一応決まりなんでね」


 ケータイの電源をつけると時間は深夜の1時を回っていた。およそ7時間、「これがバイトなら1万円はもらえたのか」などと、片側に寄ったのり弁を見て考えていた。そこから更に連絡できる相手もいないと時間を使ったのは覚えている。


 気が付いたのは駅の券売機の前だった。


 電源の落とされた券売機の一番右端のボタンを押し続けていた。別に行く先もないのに。


 駅前のロータリーに列を成す酔っ払いの列とか駅前の明かりを眺めたかったのかも知れない。


 こんな時間にこんなにたくさんの人が、この場所からどこかへ行けることが羨ましい。誰もかれもが声を出している。友達や仲間と、独り言とか電話とか、みんな何かを訴えている。


 ずっと券売機の前に立ち尽くしていた。

 ようやく券売機に電源が灯ったころ、バス停で寝転がる人や銀行の大きなガラスで踊りを練習してるヤツらが、誰もいなくなった駅は静かになり、空はすっかり白んでいた。


 俺の足は構内を抜けて、アスファルトを越えて砂利を踏み、雑草をまたいで錆びた金属階段を登って、見慣れたフローリングに投げ出された。


 隣室からは朝のニュースが聞こえてくる。


 体の中のヘドロが、時間を経て強い臭気で漏れ出して体中に固着している。


 時間がたてば楽に、軽くなると思いたいのに、水分の抜けていく体は臭く、黒く濃く、重たくザラついていく。


 顔から流れ落ちた水たまりに泳いでいた蟻は、渇いて白く染まり、袖も襟もゆすれば粉が落ちるほどに固まっている。


 床にばらまかれたのり弁の中身を黒い砂粒が運んでいく。


 部屋の外からは「犯罪者」「出ていけ」と言う叫び声と駅前に聞く、雑踏のような集団の足音が響く。


 窓から差し込む西日に取り調べを思い出し、また打ちひしがれ、目も耳も塞いで丸く惨めにうずくまる。


 暗くなった部屋の中で、玄関へ向かい流れる白い米粒は空へ浮きあがる気泡のようで、いくつかを指で潰すと弾けて薄れた。


 何も感じられない黒く濁った汚泥の底で残ったのは、用途も需要もないプラスチックゴミばかり。汚泥にも染まらず混ざれずに積み上がっていく廃棄物。


 ビニール袋に空の弁当箱に油まみれのバラン。


 水泡は全て浮き上がったあとの残されたプラスチック。


 黒は次第に灰になり、途切れ途切れのバイクの音が聞こえる。隣室ではまた朝のニュースが流れる。




 しばらくして錆びた金属階段がけたたましく響く。


 そいつは俺の部屋の扉を叩いたあと、無遠慮に扉を開けて暴力的に俺の肩を掴んだ。


「帰るぞ、なんだここは」


 見慣れない顔の男は、俺を外に連れ出し、車の後部座席へ荷物にするような扱いで押し込んだ。


 そのまま有無を言わさず、見慣れない顔のよく知った俺のトラウマは車を走らせた。


「しばらく家で過ごさせる。母さんが気にしていたぞ」


 傲慢な物言いで父はひどくわずらわしそうに鼻を摘まんでいた。


「とりあえず仕事は辞めさせる。あちらにはもう連絡しているからな」


「ニュースを見てすぐに来た。驚いたが、お前はとにかく家で静かにしてろ」


 父の指さしたカーナビに映るニュースには、見慣れたアパートが映っていた。警察が隣室の住人に似たオッサンをパトカーに連れていく様子と、誇らしげな小太りのグレースーツの中年のオヤジが映っている。見たことのある結び付かない二人に疑問をもつが、考えることがひどく億劫でただただ呆然とする。


「母さんにも謝っておけよ、警察からの連絡で怯えていたぞ」


 握った手の中では、いつの間にか手のひらにへばりついた折り目だらけのプラスチックのバランが、チクリと肉に食い込むことで、その些細な存在に気づかせた。その刺激に、ふと思考が巡った。

 それも最悪なありえない思考。


 つまり、俺は人違いで警察に連れていかれたんじゃないのか、と。


 本当は俺は加害者なんかじゃなくて、おばあさんのことなど何事もなく、無関係だったんじゃないかと、被害者なんじゃないかと。冤罪だったのだと。


 だったら大人しく黙っていないで弁解しないと、このままじゃ警察からの連絡で勘違いのまま親に犯罪者扱いされてしまう。


 本当に事件があったなら解放されているわけがない。こんなに自由なのもおかしい。


「父さん、聞い――」


「そういえばお前のとこの青木くんだったか、あれだけハキハキお前も喋れないもんか」


「それにバランって呼ばれてるんだな。ピッタリだな」


 勇気を出して父に投げかけようとした言葉は、ひどく乾いたノドにつっかえた。父の言葉は激流となり俺に向かう、俺の言葉がそこに逆らって届くことはないんだと改めて思い返した。


 どうしてだろう。


 この男の言葉はいつも触れられたくない、俺の粘膜のように敏感な箇所を何度も爪でこすってくる。それは彼には当たり前の言葉ばかりで、そこへ何かを返すと眉をしかめて押し黙られる。決まってその時の彼の口元は、小さく聞こえないように動くのが常だ。

 今も、急いで来たといった口は小さく舌打ちをしていた。

 皮のベルトの腕時計も、袖口までキッチリボタンの止まったシャツも、磨かれた革靴も男は当たり前のように着こなしていた。


 きっと、ずっとこうなんだ。それでもどうにか、俺の手は車のドアを思いっきり開いた。

 風が吹き抜ける。酸素が、流れ込む。臭気が飛び出した。


 ――次の瞬間、俺の頬は地面に引きずられ、天地がひっくり返った。水面に叩きつけられたように体の自由もままならないのに、片方の靴が飛んで行ったという些細なことがやけに気になる。


 裂けた唇の渇きが治まる。


 アスファルトに体が固着し始めた頃には、熱く興奮していた頭から急速に熱が冷めていくのがわかるほどだ。


 周囲からはオーディオの様に響く誰かの叫び声。視線を向けると、どこから群がってきたのか、大勢の人の群れで視界がすっかり黒く埋められていた。


 彼らは無表情に黙々とカメラを向ける作業をこなしている。中学生もサラリーマンも子連れの母親も女子高生も誰もが一様に同じことを言いながら作業に励んでいる。


 そんな彼らが、まるで俺の手にベッタリと貼りついた弁当ゴミと同じようで、何と求められるでない人垣がひどく滑稽で、型枠から作る大量生産品の様で、俺の様で。


 体から全ての汚泥が流れ出したように冷えた頭で考えると気持ちが軽くなった。


 加害者に、被害者に、と拘っていた、何者かになれないかと悩んでいた。



 なのに悩んでいたのも馬鹿らしくなるほどに、どいつもこいつも馬鹿みたいに居並んで馬鹿みたいに同じことをしていやがる。個性も何もない。こいつらは何ということもないプラスチックのバランだ、現実と非現実の境目に差し込まれているだけだ。


 どうだ、ざまぁ見ろ。


 羨ましいだろ。こうなりたいだろ。羨ましいんだろ。そっち側だった俺がこうなったのが羨ましいだろ。


 どうだ、ちゃんと見ろよ


 鼻を摘まんで見下してるだけの、今も、いつも、遠巻きに立っているだけの、煙たがるだけのお前とは違うのを、青木じゃなくて、犯罪者じゃなくて、被害者じゃなくて、俺を見ろよ。


 ざまぁ見ろ。ゴミでもいいんだ。お前とは違うんだ。どうだ、ざまぁ見ろ。


 俺を皆が気にしてる。夢じゃないんだ。現実だ。仕返しだ。


 そうだ、羨ましかった。やっと手に入れた。プラスチックなんかじゃない生きたって思えるやつを。


 これが俺の仕返しなんだ。やっとできたんだ。







 車から飛び降りた男の異様な光景に、取り囲む人垣は絶えずケータイを鳴らした。


 しばらくの間、周囲はちょっとした騒ぎになったが、30分もしたころ、救急車の登場を山場に見物客らは興を削がれたように散り散りに日常へと戻っていった。


 その夜には、終始笑い続ける男の様をネットで数人が呟いたが、翌朝のニュースでは桜の開花を話題にコメンテーターが和やかに盛り上がっていた。



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