347.閉幕の後
――冷たい。
足の先が、手の先が、骨に染みるほど冷たくて、身体が少しずつ氷菓になっていくような感覚だ。
だから、僕は本能的に少しでも暖を取ろうとする。左右の足の先を擦り合わせて、両手を絡め合って、全身を小刻みに震わせる。上下の奥歯が打ち付け合って、カチカチという音が鳴り続ける。
すでに身体の表皮は暖かさを感じている。
肌の感触から、僕は毛布に包まっているとはわかっている。けれど、表皮までしか暖かさは伝わってくれなくて、いつまでも身体の中身は冷たいままだ。血の代わりに冷水が流れて、肉の代わりに氷が詰まっているとしか思えないほど、寒い。
ああ、寒い。とにかく寒い。
もう一枚毛布が欲しくて、人肌が恋しくて、必要に駆られて、僕は動き出す。
瞼を開いた。
世界の光を瞳に吸い込んで、両手をベッドについて、勢いよく身を起こした。
目に飛び込んでくる光景は、特徴のない木製の部屋。家具はベッドとテーブルが一つずつ。綺麗なわけでも汚いわけでもない一室だが、異世界では上等な部類に入っていると思う。今日までの異世界での生活が、この部屋の値段をなんとなく理解させてくれる。
「あ、れ……?」
いま僕は眠りから目を覚ました。
ただ、その第一声は疑問だった。
僕の胸の中に大きな疑問の塊があるのは間違いない。けれど、僕は何に疑問を抱いているのか、その続きの言葉が出てこない。
その奇妙で――とても慣れた感覚の中、僕は冷静に見回す。
皮肉なことに、もうこんなことくらいで戸惑うほどの人間らしさは、僕になかった。
「まずは場所を知らないと」
軽めの《ディメンション》をともなった情報収集は、瞬間的だった。
僕は自分がいる建物の構造を全て理解した。
そこそこの宿だ。その二階の隅にある部屋に、いま僕はいる。おそらく、値段は一泊銀貨数十枚程度。本土の国で見れば下のほうで、連合国あたりで見れば上のほうにある一室。
そして、宿で動く計十六人の人間の中に、見知った顔を一人見つけた。
黒髪を腰元まで垂らした『異邦人』。
異世界の服で身を包んでいるが、間違いなく僕の妹。
隣の部屋に、相川陽滝がいた。
丁度彼女は、その部屋から出ようとしているところだった。それを《ディメンション》が捉えている。
考える暇なく、陽滝が僕のいる部屋に入ってくる。
ノックすらない。家族内といえども無遠慮な入室だ。
ただ、それがとても懐かしかった。
元の世界だと、何度も見てきた光景だ。陽滝が僕の部屋のドアを開き、中を覗き込み、ベッドにいる僕に声をかけて、確認を取る。それが、いま『異世界』で繰り返される。
「――兄さん。起きましたか?」
それに僕は元の世界と同じように返す。
「ああ、起きた……。やっと、起きた……」
とても長い間眠っていたという実感があったからか、そんな言葉が漏れ出た。
先ほどから時間感覚が曖昧で仕方ない。昨日の出来事を思い出すのが億劫で、気だるさが付きまとう。常人ならば吐き気と不快感に戸惑うだろうが、僕ならば――慣れている。
その僕の様子を、陽滝の双眸が突き刺すように見ている。
黒の瞳が二つ動き続けて、僕の一挙一動を観察している。
「まだ眠たそうですね。……いま丁度、朝御飯を用意しましたが、兄さんも食べますか? もちろん、白いご飯はありませんけど」
「朝御飯……?」
その言葉の意味を、僕は《ディメンション》で辿る。
隣の部屋のテーブルに朝食が用意されていた。さらに、階下にある宿の食堂では厨房が使われた跡があった。軽い『過去視』が自然と働き、僕は陽滝が朝早くから食材を買ってきて、そこで料理してきたことを理解した。
――あの病弱な陽滝が、僕の役目である食事の準備を代わりに行った。
途端に、とある強迫観念に囚われた。僕はベッドを降りて、声を荒らげつつ妹に詰め寄る。
「陽滝……! そういうのは僕がやる! 僕がやるから、おまえは安静に――」
「はあ、兄さん……。もう大丈夫ですよ」
だが、それは陽滝の呆れた溜め息が止めた。
彼女は手を胸に当てて、少し咎めるように僕を諭す。
「そういうのは全部終わりました。終わったんです。……だから、これまで兄さんに頼ってきた分、これからは私にさせてください。この前、そう話しましたよね?」
「あ、あれ……。そうだったっけ……。もう、大丈夫……確か、ノスフィーのおかげで、僕たち二人は、もう……」
陽滝の病は治った。
元の世界では治らなかった難病だったが、この魔法の発展した異世界で、ようやく治ったのだ。つまり、僕が心配することは、もう何一つない。
安堵の溜め息と共に、僕は全身から力を抜く。
「ああ、終わったんだ……。全部、何もかも、もう……」
「はい、終わりです。これで、何もかも、全て終わりました」
僕が認め、陽滝も断定した。
陽滝は何一つ嘘をついていないだろう。
いまの僕は人の虚偽が全てわかる。呼気や脈拍の乱れによる観測だけではなく、次元魔法も含めた二重の嘘診断で、その気がなくともわかってしまう。
陽滝の血行はいい。体温も平常。体調は完璧。
つまり、本当に終わったということ。
それを理解し、ぽつりと僕は返答する。
「……朝御飯、二人で食べよっか」
「ええ、二人で食べましょう」
僕は軽く部屋の中で身支度を整えてから、陽滝と一緒に隣の部屋に入っていく。そこには異世界では柔らかな――しかし、僕の世界では固い――パンが並び、備え付けには暖かな根野菜のスープがあった。
テーブルに着いて、同時に「いただきます」と手を合わせ、僕たちは口に含んでいく。
クッキーのような固さのパンをかじり、口の中の水分でほぐしていく。パンを飲み込んだあとは乾いた口内を潤すように、スープを少しずつ流しこむ。
液体が舌に乗った瞬間、スープの材料が全て細やかにわかる。その調理手順も、またわかる。それは意図した分析ではなかった。極まった次元魔法使いの習性だった。だが、その情報から陽滝の用意したスープが丹念に作られたことがわかって、僕は妙に嬉しく感じて笑う。
「美味しい。すごく美味しいよ、陽滝……。ありがとう……」
「……はあ。よかったです」
陽滝は僕の評価を聞き、癖の溜め息をついて、自らも食事に集中していく。
質素で特筆すべきことのない食事風景だった。パンを千切っては、スープを含み、パンを千切っては、スープを含む。特に会話もない。ただ、家族と一緒に食事を取るというだけの時間。ただ、それだけで他には何も要らない。
ただ、落ち着いて、安心して、穏やかに、暖かな食事を取って、身体が温かくなるだけの……。だけの……?
ゆったりとした時間に僅かな疑問が混じった。
それは胃の中を満たしたスープのもたらす温かさでも暖めきれない――身体の冷えだった。
「ねえ、陽滝。妙に寒くない……?」
その一言に、何気なく陽滝は答える。
「ええ、寒いに決まっていますよ。なにせ、外は雪が降ってますからね」
「雪が降ってる……?」
僕は食事中ながらも行儀悪く立ち上がり、部屋の窓に近づいた。
外界と隔絶する木板を押し開く。
瞬間、肌を擦る冷気が部屋の中に吹き入ってくる。粉雪が少し混じった風だった。そして、それに相応しい光景が目に映る。
「うわっ……! すごい……!」
白銀の世界だった。
パラパラと雪の結晶が空から降り注ぎ、よく知る質朴な街並みが真っ白な雪に包まれていた。上を見ても下を見ても白。自分の吐息も白。街道を歩く人々の衣服だけが、唯一キャンバスに色をつける。
僕は目だけでなく、耳でも雪景色を楽しむ。
雪の落ちる小さな音から、厚着の子供たちが楽しそうに走り回る足音。
そして、遠くから聞こえてくる旋律。軽くて、優しくて、心地よくて、跳ねるような金属打楽器の音が聞こえてくる。
「陽滝、このシャンシャンシャンって音……」
「ベルの音ですね。どうやら、ここでは鈴を身につける風習があるようです。大きいものから小さなものまで、色々。ハンドベルを振り回す子供も、時々見かけます」
大小混じって入り乱れているから確信できなかったけど、これは鈴か。
「鈴の音が連なって、たくさん……。これ、なんだか、まるで……」
止まらない音色に、不思議とわくわくしてくる。
いま街は日常だけれど、特別な日常を送っている感覚。新しい出来事が始まるような期待感と、慣れ親しんだ出来事を待ち望む安心感が入り乱れる。心臓から出てくる血が、いつもより濃いような高揚。
「ええ。まるで、私たちの世界の聖誕祭ですね。……はあ。ティアラってば、私たちの話を聞いて、丸パクリしたようですね」
あえて僕が口にしなかったことを、陽滝は溜め息と共に言葉にした。その中には、聞き逃せない名前も入っていた。
「これ、ティアラが……?」
「ええ、ティアラがやりました。もし雪が降ったときは、こうしてベルを鳴らせと。レヴァン教の開祖様が、千年前に決めたようです」
聖人ティアラ。
よく知っている。
千年前の僕の仲間であり、この千年の歴史を決定付けた偉人であり、千年後の世界でも助けてくれた少女。
「兄さん。もしかして、彼女のことを忘れてしまいましたか?」
ただ、そういう聞かれ方をすれば、忘れたと言うしかないだろう。
僕は千年前にティアラと年単位の二人旅をしていた。けれど、その中で僕が思い出せたのは少しだけ。
ただ、その少しだけでも彼女が恩人であることは間違いないとはわかっている。仲間で偉人で恩人。それで間違いはないはずだけれど、妙に喉奥で引っかかる気がした。
「ティアラについては、少しずつ思い出してる途中なんだ……」
「少しずつですか。はあ、よかったです。……彼女が忘却の彼方に消えていなくて」
「それだけはない。絶対にないっ。だって、僕は少し前にティアラと会って……――会った? 会ったで、いいんだよな。あれ……」
「それは聞きました。『再誕』したティアラと会って、お別れしたんですよね?」
「そうだ。お別れをした……。もう二度と、ティアラとは会えない……。会えないんだ……」
少し前。
連合国にあるフーズヤーズ国の十一番道路。
あそこで僕は聖人ティアラと再会し、千年前のお礼を言った。
そして、彼女の一押しで、ようやく僕は本当の気持ちを――
「――っ! さ、寒い……」
「そりゃ、開けっ放しにしてたら、そうですよ。馬鹿ですか、兄さん」
記憶を遡れば遡るほど、身体の芯が冷えるような気がした。
すぐに木板を締めて、窓から冷気が入ってこないようにする。
「しかし、もうティアラと会えないというのは寂しいですね……」
冷たさが増す。
身を縮ませて、その感情に同意する。
「ああ、とても寂しい……ってことだけはわかる」
途端、急速に目頭だけが熱を持ち、いまにも涙が出そうになった。
その意味が自分一人では理解できなかったが、『僕はティアラについてもっと聞かなければならない』と、本能的に僕は思った。
しかし、僕が質問をしようとする前に陽滝は立ち上がり、手際よく外出の準備を始める。
「兄さん、そろそろ出ましょう。時間です」
外出の予定があるらしい。
当然のように、僕も同行することになっていた。それに不満はないが、確認のために聞き返す。
「出る? 時間って、どこに行くつもりなんだ?」
「――本当に寝ぼけていますね。行くと言えば、迷宮に決まっています」
予想から外れた場所だった。
『迷宮』。
千年前の『世界奉還陣』の基点であり、千年前の全てを想起する場所であり、世界の『最深部』に繋がっている巨大回廊。
「私たちは連合国に住む迷宮探索者なんですから、ちゃんとお仕事しないと。それとも、もうお金持ちだからって「家でぐうたら、可愛い妹とずっと二人きりがいいー」なんて人間失格な妄想をのたまうつもりですか?」
それは日常会話の軽口だった。
……だったが、見過ごせない部分が多かった。
まず、僕たちがいる場所。本土でなく連合国。宿の質からして、おそらくはヴァルトあたり。そして、『妹とずっと二人きりがいい』という確認作業。
いま何気なく喋っている陽滝の黒の双眸が、僕の反応を窺っている気がした。
だから、僕は首を振って、軽口に答える。
「いや、そういうわけじゃないよ。行くよ。でも、僕たち二人だけで迷宮に入るの? もっと他にも――」
「もちろん、今日も手伝ってくれますよ。彼女が」
そう喋りながら、もう陽滝は部屋を出ていた。
僕は宿の廊下を先導する彼女の後ろをついていく。
玄関受付を過ぎて、外に出て、その寒さに身を震わせる。
ちゃっかりと厚手のコートのようなものを着ていた陽滝は、懐からマフラーを取り出して、僕の首に巻きつけた。その一連の流れに懐かしさを覚えながら、僕たちは白銀の世界を踏み歩く。積もった雪に足を取られて歩き難いが、僕たちの身体能力上、それで遅くなったり疲れたりすることはない。
順調に真っ白な街道を歩き、迷宮の入り口に辿りつく。
早朝である上、天候も相まって、人気は少ない。
そこで待っていたのは少女が一人。
僕たち二人の来訪を目にして、その手を大きく振った。
「おっ、カナミ! それにヒタキ! 遅いぞ!!」
快活な声と仕草からディアであるとわかった。
しかし、いつもと雰囲気が違う。これでもかと防寒着を着込み、もこもこと膨れたリスのような状態になっている。首元には僕と同じく、大きめのマフラーが巻きつけられていて、以前よりも伸びた金の髪がたわんでいる。
左手にはハンドベルを一つ持っていて、道中ですれ違った子供たち同じ動きで、落ち着きなくシャンシャンと常に鳴らしていた。そして、その格好から分かるとおり、もう剣は腰にすら携えていない。完全に後衛としての装いだった。
「ディア、お待たせしました。兄さんが寝坊したんです。私は悪くありませんので、あしからずあしからず」
「あぁっ、やっぱりカナミかぁ! ヒタキは怖いくらいきっちりしてるから、カナミだと思ってた! とにかく、遅れた分、早く行こう! すぐ出発だ!」
ぷんぷんと可愛らしく怒ったディアは、余った手で僕の手を取った。もう片方の手でハンドベルをシャンシャンと鳴らしながら、僕を迷宮の中に誘おうとする。
その一連の会話の流れはとても自然で、まるで僕の知らない何年かの交流が二人にあったようで、違和感を覚えた。
僕は足を止める。
「ん? カナミ、どうした?」
ディアは振り向いた。
その動きに合わせて、マフラーに入っていた金の髪の毛先が、ふわりと外に出る。その髪の長さといい、服装のセンスといい、なにより言葉遣いが以前より少し柔らかい。もうディアが『男の剣士』であろうとしていないのがよくわかる。
「えっと、ああ、その……可愛い服だね。マフラーもいい感じだ。似合ってる。それと、スカートも……」
口が勝手に動いていた。
格好良さでなく可愛さが際立っていると、指摘していた。
言外に少しだけ「おかしくないかな?」と聞くように。
ただ、その僕の思惑とは別に、ディアは顔を真っ赤にしていく。
真っ直ぐ見つめる僕から、目を逸らしながら答えていく。
「そ、そっか……! カナミから見ても、似合ってるんだな! よかった! これ、フランのやつが用意してくれた服なんだ! あいつ、私にはこれが似合うそれが似合うって繰り返して、毎日人形のように着せ替えしやがったんだ……! でも、我慢した甲斐があった! カナミから見て、可愛いんだな、これ! へへへっ」
恥ずかしさからディアは、友人への憎まれ口を叩いた。
ディアらしい物言いだが……その端々が少し上品だった。
いうなれば、貴族としての気品だろうか。かつてのような泥臭い少年の仕草が少ない。
「よかったですね、ディアさん。……あと兄さんは、その誑し癖と共に死んでおきましょう。なに、第一声で口説いてんですか」
陽滝はディアの隣まで歩き、友人の喜びを我がことのように喜んだ。ただ、僕に対しては家族用の辛らつな一言を突き刺した。
ただ、いま僕はそれどころではないので、陽滝でなくディアに重ねて聞いていく。
「ディア。それと、いま手に持ってるものも……」
「ああ、これか。エルトラリュー学院で配ってたから、貰ったんだ。いい音だよな……。大好きだ」
もう「剣はどうした?」と聞ける空気ではなかった。仕方なく僕は、前方の二人に気づかれないように、自分の『持ち物』を一人で探った。
が、元々ディアの所有物だった『アレイス家の宝剣』は見つからない。
使える剣は一つ、なぜか『シルフ・ルフ・ブリンガー』のみ。
親友ローウェンがいないことに、僕は困惑する。
いま他の誰かが持っているのだろうか?
そもそも、いつ、どこで誰に渡したのだろうか?
と考えていると、ディアは迷宮探索の目標を口にする。
「よーし! じゃあ、カナミ、ヒタキ! 今日こそ、八十層を越えるぞ! 私は『最深部』に何があるのか確認するのが、楽しみで仕方ないんだ!」
それも僕にとっては重要なことだった。
先ほどから重要なことが多すぎて、目移りが激しい。
「そうだ……。僕たちは迷宮の『最深部』を目指すことになったんだ……。『最深部』に行く為に、僕たちはみんなと協力して少しずつ進んで……。でも、それは……」
――どうして?
その目標の理由が思い出せない。
いままでは『元の世界への帰還』『不治の病の治療』が理由だった。
しかし、いまとなっては必要ない。
もう妹は隣にいて、元気にもなっている。
「どうしてって……。兄さん、いまさら……。はあ……」
陽滝は溜め息と共に、僕を冷たい目で見る。
対して、ディアはおろおろとした様子で、自分が何か間違ったのかと不安がる。
「カ、カナミ……。駄目か? 最初に私が「全部終わったから、また探索者っぽいことをしたい」って言い出したんだ。それで、一応の目標として、一番奥を目指そうって話になったんだけど……」
その理由の軽さに僕は驚き――しかし、それが妥当であるとも理解する。
なにせ、もう僕には、ろくな目標がない。
最初で最大の目標『妹の再会』は終わった。
『仲間たちの安全』も確保されている。
あとは『穏やかな毎日』さえあれば、他に何も要らないだろう。
全てが終わったいまならば、中途半端に終わった迷宮の解明を行うのも、そう不思議な話ではない。
「……いや、駄目じゃないよ。そもそも、この迷宮は千年前の僕の作ったものだ。僕が終わらせる責任がある。いつまでも放置していいものじゃない」
とりえあず、ディアを心配させまいと、僅かに残っていた使命感を口にしてみる。
だが、その思惑は妹にあっさり看破される。
「これ、適当ですね。こうやって小難しい言い方をするのが『思慮深そうな自分カッコイイ』と思ってる兄さんです。本心は別ですよ、ディア」
「えっ? 違うのか? 凄く納得しかけたんだが……!」
「はあ。本当にディアは純真ですねえ。馬鹿な男に騙されそうで不安です。……あの方を思い出します。本当に」
陽滝は遠い目でディアを見た。千年前の使徒の面影を見ているのかもしれない。ただ、その眼差しをディアが好まないと知っているのか、すぐにやめて僕には話を振る。
「兄さん。ただ、楽しいからですよね? この迷宮探索が。この『異世界』の冒険が」
楽しい?
いま僕は楽しいのか?
すぐ傍にはディアのきらきらとした瞳が二つ。彼女の期待に応えるのが、僕という人間の癖だった。陽滝に言われるがまま、僕は頷く。
「ああ、楽しい……のかも。楽しくないと、迷宮なんて危険なところ入らないしな」
「は、ははっ……。よかった! なんだかんだでカナミも私と同じなんだな! 探索者として冒険するのって、本の主人公みたいですっごい楽しいよな……!!」
「本の主人公みたいで……?」
そのディアの言葉は僕を揺るがす。
『冒険』『本の主人公』『迷宮は楽しい』――
「――《コネクション》」
唐突に次元魔法が発動した。
それは次元属性だったが、僕でなく陽滝の使った魔法だった。僕にも劣らない立派な魔法の扉を造り、出発前の最終確認を彼女はしていく。
「はあ。では、楽しい楽しい迷宮探索の始まりですよ。八十層には『セルドラ・クイーンフィリオン』、九十層には『ノイ・エル・リーベルール』が召喚される予定でしたが……どちらもノスフィーの手によって、召喚済み。残すは百層のみです。そこで召喚されるのは『アイカワ・カナミ』で、いま、ここにいる兄さん。もう敵らしい敵はいません。百層到着は、約束されたものと言っていいでしょう」
迷宮前で話す陽滝。
その彼女の背後から、朝陽が差し込み、僕たちを照らしていく。
雪の日だけれど、雲の合間を縫って、とても明るい光が煌いた。
その光には見覚えがあった。
とても明るい光と、とても冷たい雪。
いまの視界と重なるように、こことは違う光景が薄らと見え始める。ぼやけた記憶が少しずつ溶けるように、過去の出来事が想起されていく。
その最中も、目の前の陽滝は話し続ける。
「そこへ行けば、クリアです。さあ、頑張って行きましょう。兄さん」
いまも、過去も。重なって。
陽滝は、同じことを僕に話している。
ほぼ同じ会話。
ただ、過去のほうは場所が違う。
とてもとても高いところで、とてもとても明るいところ。『一番』高くて『一番』明るいなんて言葉が相応しい場所で、僕たち兄妹は大事な話をしていた……。
「百層へ。この世界の『最深部』へ――」
いまも、過去も。陽滝は僕を誘う。
優雅に振り向き、立ち止まる僕に向かって、陽滝は手を伸ばす。
この手を取って、私について来いと言う。
どこまでもいつまでも永遠に、世界の果てまで、二人だけで行こうと――
それに記憶の自分は何と答えたのか……。
言葉は思い出せないけれど、そのときの自分の表情だけは思い出せる。
「……ああ。行こっか」
いまの僕は、過去の記憶と真逆の――笑顔で答えた。
ここでようやく、僕は分かった気がした。
ろくに何も思い出せないけれど、大体分かってしまった。
目覚めてから一時間程度。結構手間取ってしまった。
「さくっと百層に行こうか。ただ、僕たちの楽しい冒険までさくっと終わってしまうのは、ちょっと名残惜しいけどね。ああ、もう終わりか……。ははは」
僕は自由に笑顔を作って、それらしい言葉を紡ぐ。
とても自然だったと思う。
小さい頃と比べて、本当に僕は上手くなった。
そのとき、もう名前すら定かでない少女■■■が頭に浮かぶ。
彼女に出来たのだから、僕にだって出来ると『勇気』が湧いてきた。記憶はないが、魂に刻みこまれている死の感触がある。心は寒くて堪らないけれど、自分のやるべきことだけはわかる。
ただ、この調子だと、僕は頭の中がリセットされる度に、こうやってすぐに大体分かっているようだ。毎日毎日、抗うように大体分かっては、大体忘れてしまって――まあ、それは、さして重要なことではないか。
「カナミッ! 冒険を始める前から、終わることを考えちゃ駄目だろ! そういうところが、カナミの悪いところだよなあ……、もうっ!」
「……はあ。兄さん、相変わらずの空気の読めなさですね」
「ははは。ごめんごめん……!」
《コネクション》を通って、迷宮の六十層に入りながら、僕は■■■のような笑顔と共に重要な部分を確認する。
僕はよく知ってる。
『記憶』なんて些細なことだ。
『自分』なんて気の持ちよう。
『生まれてきた意味』なんてなくても笑って生きていける。
重要なのは、諦めないこと。
どんなに辛く苦しいことがあっても、前に前に前に――いつか手が届くと信じて、前に進み続けると、僕は■として■に誓った。その誓いは、脳でも血でもなく、魂に刻まれている。
もちろん、彼女との誓いだけではない。
本当にたくさん、みんなの想いを魂に刻んできた。
初めて異世界に迷い込んだ頃から、僕は変わった。
だから、大丈夫。
こんな状況でも、僕は他意のない心からの笑顔を、陽滝に向けられる。
優しい光のなくなった何もない六十層に辿りつく。
恒例の寂しさと共に、陽滝に近づく。
もう光の後押しはないけれど、僕は陽滝に笑いかけた。それに対して陽滝も、他意のない心からの笑顔を笑い返してくれる。
「ははは」
「ふふふ」
言葉はなくとも、通じ合っている。
そして、あの高くて明るい場所での『話し合い』は、まだ続いているようだ。
ちょっと他所の家とは違って、ちょっと人の道に外れて、ちょっとスケールが大きめだけれど――間違いなく、いま、僕たちは家族会議中だ。
これが陽滝の言っていた全力なのだろうか。もし、そうならば、それに僕も全力で応えるしかない。
少しずつでもいい。
全て確かめよう。
聞けば終わりなことも全部聞こう。
子供の頃のことも、両親のことも、千年前のことも、ティアラのことも、いまのことも。
死んだ■■■と同じように、真実を認めていって――終わらせよう。
約束した。
確かにあいつと約束した。
だから、同時に僕も終わりだとしても、別に構わない。
その程度で後戻りするほど、もう僕は弱くない。
僕は強くなった。
本当に……。
本当に強くなってしまったから……。