第六話 ミカンのライン
んじゃあ、店の案内でもすっかー! との水葱の号令で、時兎はこの店の案内をしてもらえることになった。涼水は行ってらっしゃい、と手を振り、永海は家事が残ってるから、と一緒に来ることを渋っていたが涼水に後はやっておくよ、と言われて一緒に来ることになった。なんだか申し訳ない。問題ごとを抱えて飛び込んだだけでは飽き足らず、仕事の順序を乱してしまうとは。永海が絶対に仕事の順序を守らないと気が済まないタイプでないことを祈ろう。
入ってきた時に水葱が言っていたが、此処は黎明堂と言うらしい。堂と言うだけあって(?)屋敷は古めかしいし広い。それでも人の生きている気配がすごくするのだから、涼水はとてもパワフルな人なのだろう。此処が応接間、此処が居間、台所、書斎、涼水の私室、水葱の私室、永海の私室―――流石に此処は入れてもらえなかったけれど。あとは倉庫、風呂、トイレ、庭にある蔵、客室、などなど。
「あそこの部屋を時兎用に掃除するから、まあちょっと待っててな。夜までには終わるから」
「ええ、そこまでは…悪いよ。自分でやる」
「大丈夫だって。いちにのポカンで終わるから」
それは忘れる方じゃなかっただろうか。思ったものの、もしかしたら移動する荷物の中に触られたくないものがあるのかもしれない、と思って素直にお願いすることにした。
部屋の場所を覚えたところで、庭の方へと下りる。
「あの木は涼水が植えた木で、ええと、なんだっけ、アレ」
「忘れた。ミカンの一種」
「永海も覚えてないのか。まあ涼水のことだし、市場に出回ってない品種っていうか
名前ついてない品種だとしてもまったく不思議じゃないんだけどさー」
まあミカンだって、と水葱が振り返る。
「う、うん」
「どうよ?」
「どうって…ええと、美味しそうだね?」
「そう! これがうまいんだよなー! 一応好きに食っていいことになってるから。一応言っとくけど」
「ふうん…」
ミカンを美味しそうと言ったのに嘘はなかった。でもお腹は全然空かないので生返事になってしまう。それについて水葱は何も言わなかった。自分のためのミカンを取ろうと必死で手を伸ばしている。
「だめだ、取れない」
少しミカンの位置が高かったのか、諦めたようだった。戻ってくる水葱に、永海は少しだけ面倒くさそうに息を吐いて、それから木に近付いていく。
「…もしかして永海が取るの?」
水葱と永海の身長は変わりないように見えた。水葱が届かなかったのだから、永海にも届かないと思うが。
「まあ見てなって」
次の瞬間。
永海は一瞬身を沈めると、そのまま勢いよく垂直にジャンプした。先程の水葱のジャンプなんかと比べるのが失礼なくらいのジャンプである。ぽかーんと口を空ける時兎のことなどお構いなしに、普通のこととでも言いそうな顔で永海は戻ってきた。水葱も普通にミカンを受け取っている。
「え…今、すっごいジャンプしなかった?」
「うちのどっちかって言ったら姉はすげーだろ。何でも出来るんだぜ」
「何でも、じゃない」
そんな軽いノリで済ませて良いのだろうか。一人でむしゃむしゃミカンを食べる水葱は、永海の身体能力について説明する気はなさそうだった。突っ込んで聞く気力も失せていた。
なので、違うことを聞くことにする。
「そのさ、〝どっちかって言ったら姉〟って言い回し、聞いても良い?」
「あ? あ、別に良いよ。時兎って結構遠慮しいだよな。まあズカズカ距離詰められるよりかはマシだろうけど」
「自虐?」
「永海チャンそういうこと言う!?」
仲が良いらしいことはよく分かった。
「まあ、オレたちは双子みたいなモンだから」
「モン、っていうと、違うの」
「違うの」
「その先は教えてくれないんだ?」
「おっと、時兎クン分かってるー」
「なんとなくね。水葱ってこう、そういう境界線を暗に示すの得意なの?」
「そうでもないぜ? 時兎がちゃんと分かってるってだけ」
オレ分かりにくいって言われるし、と水葱は続ける。永海は元々ああだからまず話し掛けるところからハードル設置、って感じだし、でもオレはそうでもないみたいだし? 確かにそう言われてしまえば顔は同じつくりのはずなのに水葱と永海から受ける印象はとても違う。真逆と言ってもいい程だ。
「ま、そのうちな。オレが話しても良いって思ったら話すよ」
「その時が来れば良いな」
「お、マジでこの店で働く気出てきた?」
「あ」
そう言えばそういう話だった。思い切り忘れるところだった。
「考えてなかった…」
「時兎って割合抜けてるよな。お試し期間終わったらすぐにあの女また来るぞ」
「こう、僕をこっそりどっかへ逃がす、とか。そういうことは出来ないの? 都合良いこと言ってる、とは分かってるけど、こう、涼水さんなら出来なくないかな、って思うんだけど。流石に僕の頭ファンタジーすぎ?」
「いや、間違ってないよ。涼水に出来ないことって、正直殆どないと思う。正しい意味で…世界を崩壊させること、くらい? それも出来ないっていうか、しないだけなんだけどさ…。でもそれにはまあ…そうだな…料金、料金で良いや。料金が発生するから。お前、文無しだろ?」
「ハイ、ソウデス…」
「じゃーちょっと無理だろうな。差し出せそうなものもなさそうだし」
ちょっと怖い単語が聞こえたような気もしたが、ツッコんだところできっと水葱は教えてくれないだろう。
「っていうか、時兎はなんでそんなにあの子についてくのが嫌なの」
「何で、っていうか…突然追いかけられたから…? 何で追いかけられてるのか全く分かんないし…なんか羽根生えてるし、ヤバい人なのかと思ったんだよ」
「やばいひと」
「ヤバい人」
そうだ、美少女だったのだ。だからもし普通に話し掛けられたら彼女の話を聞いていたかもしれない。でも、彼女は空から振ってきたし羽根は生えてるしコスプレって感じだしで、兎にも角にも第一印象で逃げなきゃ、と思ったのだ。
「話ってしてないんだ?」
「してる余裕も…こう…なかったっていうか…」
「はーなるほどな」
水葱はうんうん、と頷く。
気付いたら横の永海がミカンをどっさり抱えていた。いつの間に取ったのか、時兎は聞き忘れた。