第五話 どうぞよろしく
その距離の近さにわあ! と声を上げて後ずさる時兎を涼水は気にもしないようだった。
「どうしましょうかね」
少しだけ首を傾げてみせたその所作が綺麗だと思う。涼水自身は特別美人であるようには思えなかったが、清潔感があり好感が持てるのは事実だ。年もそんなに離れているように見えないし、つまり時兎がどぎまぎするのは仕方ないことである。決して今まで女性と触れ合ったことがないからではなく。永海には別にどぎまぎしていないし、先程のコスプレ美少女にもどぎまぎしなかったのでまあ、つまりそういうことだ。単純に距離が近かったのもあるだろうが。
「これで追っ手は一旦追い払いましたが、君、ええと、時兎くんでしたっけ。どうしますか? せっかくですし、とりあえず一週間くらい本当にうちで働いてみますか?」
「っていうか働けよ、お兄さん。うちは働かざるもの食うべからずだよー。ま、これは涼水の言葉じゃなくてうちのどっちかって言ったら姉の言葉だけど」
「姉…っていうと、永海さん?」
「サン付け! めっちゃウケる!!」
腹を抱えて笑い出した水葱に、遅れて一つ。
「っていうか、一時しのぎ、だったんですか」
「そりゃあお前、いきなりバイトとか。普通ハッタリだって分かるだろ」
「分かんないよ………」
確かに突然〝此処で働いてみませんか〟なんてあまりにトントン拍子すぎる話だとは思ったが。
改めて言われてみれば時兎はほんの少し前に此処に転がり込んで来た見ず知らずの人間であるし、彼らはそういったことに慣れているふうではあったが普通知らない人間を雇ったりはしない。
「人手があって困ることはありませんし、どうせ引き取るなら働いてもらった方が助かるには助かるというのは事実ですが。君も逃げてきたということはいろいろあるんでしょう。今後のことを考える時間も必要だと私は思うんですが」
「あ、いえ」
前述の通りであるのにこれ以上迷惑を掛ける訳にはいかない。一週間後にはあの少女がまたやってくるのだ。それまでに今後どうやって逃げるか、もしくは諦めてお縄につくか決めなくてはならないのは確かだろうが、そのいっときを稼いでもらって更に厚かましい真似は出来ない。それに。
「一週間、お願いします。そのつもりで答えました…から」
涼水をしっかりと見つめて言う。
突然放り込まれた状況で差し伸べられた救いの手、それに縋ったのは事実だが、時兎とて何も考えずに答えた訳ではない。
「此処がどういう場所かは、よく分かりませんけど…見ず知らずの僕を助けてくれたのは間違いありませんから、その恩返しくらいは」
もう一度お願いします、と今度はきっちりと頭を下げた。腰の角度は九十度である。
自分でも完璧だと思えるくらいきっちり礼をして頭を上げると、涼水の両隣に水葱と永海が寄ってきていた。水葱は非常に渋い表情をしている。永海の表情は変わっていないが、恐らく水葱と同じことを思っているのだろう。
「なんつーか、お兄さん、マジお人好し」
「騙されそう」
「そうそう。架空請求とか大丈夫? アレ払わなくて良いんだぜ?」
「最近はそういうのも頭が回るようになってきたから、適切な対処が必要」
「待って。とりあえず架空請求はされたことないから」
「えっマジで? 意外すぎる」
「辛いからって嘘を吐かなくても良い。恥ずかしいことじゃない。力になる」
「いや本当にないから」
誂われているのか本気で心配されているのか分からない。
そんな遣り取りを見ていた涼水は笑って、もう仲良しになったんですね、と言った。
「じゃあ、時兎くんのことは水葱に任せましょうか」
「あれ、オレ?」
「ええ」
「オレで良いんだ?」
「水葱が適任だと思うよ」
その言葉に水葱は少しだけ考えてから、まあそうだな、と納得したらしい。
「時兎くんは、この一週間で本当に此処で働くか決めてくださいね。勿論、さっきの彼女についていくことも出来ますし、それはそれで君が思っているよりはひどくないと思いますよ。寧ろ、自然の摂理とも言えます」
「………あんな、ファンシーな子についていくことが、ですか?」
「ファンシー…ッ」
ふき出したのは勿論水葱だった。永海は相変わらず表情を変えずにいる。
「ファンシーな子ですが、ほら、真面目なのは分かったでしょう。あの少しの接触で」
「…まあ、はい」
「だからそんなに怖がることでもないんですよ、とだけ私からは言っておきますね」
「じゃ、そういうことで。よろしくな、お兄さん!」
「よろしくお願いします。水葱さん、永海さん」
「永海で良い」
「オレも水葱で良いよ」
あとタメでどーぞ、と言われてじゃあ、と言い返す。
「僕のことも時兎って呼んでよ」
「あっじゃあ改めてよろしく! 時兎!」
「よろしく。時兎」
「よろしく。永海、水葱」
恐る恐る差し出した右手は永海に取られて、開いていた方の左手は水葱に取られた。
「あっ、ちなみにオレは左利きだから! よろしくゥ!」