7話
思い切り腕を擦りむいてしまった。ジンジンとした痛みが頭いっぱいに広がり、視界が滲む。怪我をするなんて幼稚園以来だ。ぼくは込み上げてくる嗚咽を飲み込み、転んだ時に手放してしまった鍬を掴むと、必死で起き上がり再び走り出す。
幼稚園児だった頃は、転んで泣いても、先生がすぐに駆けつけて起こしてくれたが、二十六にもなると誰も手を貸してはくれない。それはたとえ世界が違っても共通のようだ。
形振り構わず、全力疾走するぼくの後ろをザッザッと土を蹴る音が追ってくる。その距離が縮まっている様子はないが、気のせいかザッという音は増えてきているように思えた。幻聴かなと思おうとしたが、背後で膨れ上がる獣の息づかいはそれを許さない。
「ウサギは草食動物じゃないのかよ! その辺の草でも食ってろよ! 頼むから!」
本気でぼくを食おうとしているのかは分からないが、でなければ追っては来ないだろうとぼくの生存本能が囁いている。一匹なら鍬で追っ払うことも出来たろうが、群れになってしまったら、どうひっくり返ってもぼくに打てる手はない。とにかく森に飛び込んで、木にでも登ってやり過ごす。情けないことに、それが今出来る唯一の対処法だった。
五分か十分か、それとも三十分、一時間。もしかしたら三分ということもあるかもしれないが、それだけの時間を全力で走り、ぼくは森の中に飛び込んだ。草原と違って、薄暗い、日の光を遮る木々の枝が落とす影に身を隠し、ようやく足を止め一呼吸。心臓はドクドクと脈打っているが、他は体が少し熱くなった程度で、なんの問題もなかった。乱れた呼吸を押さえるように胸に手を当てるが、それはものの数秒で手のひらの下から消えてしまう。
「これって……普通……なのかな?」
比較出来る対象が自分しかないので、平均的な体型をしている人間が走った後にどうなるのかは、想像するしかないのだが、どう考えても平均的な体ではないような気がする。
もしかして、自覚がないだけで最強の肉体なのかもしれない。そう考えると同時に、ぼくがにやけるより早く、視界に何かの残像のようなモノが映った。
キキキィと甲高い鳴き声が、互いに合図を送り合っているみたいに全方位から聞こえてくる。
ぼくが腕の激しい痛みに気付いた時には、すでに辺り一面、木の葉を揺らす何かに取り囲まれていた。痛みに目をやると、二の腕が真っ赤に染まっていた。ボタボタと垂れ流される血を見ていると、痛みと喪失感で視界からは色が剥がれ落ち、意識は切れかけの電灯みたいに明滅する。
ジリジリと近づいて来るのは、思った通り中型犬くらいのウサギの群れだった。見た目はただのウサギなのに、群れを率いる一匹の姿にぼくは戦慄する。さっき二の腕を囓った奴だろう、もふもふした口元をぼくの血で真っ赤に染めて、何かを咀嚼するように頬を膨らませていたのだ。
「いやだ……いや、だ。こんなところで死にたくなぃ」
血の溢れ続ける腕を押さえ、逃げ出すことさえ出来ず、腰の抜けたぼくはその場にへたり込む。
なんて人生だ。なにが転生だ。こんな雑魚モンスターにやられる雑魚キャラ、転生した意味ないじゃないか。
失血のせいか、目の前に迫る食われながら死ぬことに対する恐怖か、体はガクガクと震え、歯がガチガチと鳴っている。
ぼくの味を確認するみたいに口を動かしていた一匹が、その動きを止めた。周りで鳴いていた奴らが一斉に静まり、ぼくの震えすら止めるほどに不気味な静寂が広がる。
「……だれか……っ」
真っ赤な口をしたウサギが、クッと鼻を上げて一際甲高い鳴き声を発した。
「誰かぁー助けてくれぇー!!」
何も出来ないぼくが上げた精一杯の声を、ウサギたちの歓喜の声が飲み込んでいく。
もうダメだ。そう思い頭を抱えメチャクチャに叫ぶ自分の悲鳴が耳を壊さんばかりに響いた。グチャグチャに食いちぎられていく痛みが恐ろしくて叫び続けていると、唐突にぼくとウサギたちの間にガチャンという金属音が落ちてきた。