2話
水鏡に映ったのは、見るからにくたびれた男の顔だった。年齢はぼくよりずっと上に見える。無精髭と生気のない落ちくぼんだ濁った目が、若さを見事に拭い去り、中年の印象を与えている。その濁った目を覗き込んだ時、ぼくは思い出した。
この男は、紛れもなく『ぼく』だった。
思い出したのは、この男の人生ではない。それはずっとそこにあったモノだ。ぼくが思い出したのは、ぼくだった頃のこと。そう、さっきまでカッターで爪を切って、ローアングルでアリーシャを視姦していた頃のぼくを思い出したのだ。
「そんな……あんまりだ」
ボロボロと涙が落ちる。頭の中で大量に蘇った前世の記憶が一通り整理されると、ぼくは泣いた。水の中でオッサンも一緒に泣いている。いや、まだオッサンじゃない。まだ二十代なはずだ。正確な数字じゃないが……まだ二十代だ。
時間の感覚が曖昧になるほどに、ぼくの第二の人生は、ただ畑を耕す為だけに費やされてきた。農奴という最下級の身分で、自分の為ではなく、義務として毎日休みすらロクにない生活を何年も当たり前のように送っている。家族も友人も、当然恋人なんて呼べる相手すらいない。天涯孤独の身の上で、同じような境遇の小汚い男が寄り集められた小屋の中にある干し草の上が、唯一自分に与えられた休める場所。ここで死ぬまで同じような毎日を送り続ける。
なんの疑問も持たず、そんなふうに生きてきた。そんな自分が悲しくて、悔しくて、ぼくは泣いていた。
けれど、感傷すら体に馴染んだ生活はあっけなく散らした。もう仕事ははじまっている。無意味な日常を繰り返そうと、今すぐに仕事に戻ろうと、何年も培ってきた習慣が体を無意識に動かす。のろのろと立ち上がり、道具がしまわれている倉庫へと足を向け、中から鍬を一本取り出し肩に担ぐ。
いつも通る道をふらふら歩くと、掘っ立て小屋とは違う、ちゃんとした作りの家屋が見えてきた。農奴の管理を任された農民が暮らす家だ。家と言っても、近くで見るとどれも小屋に毛が生えた程度のみすぼらしい造りで、農民の生活も農奴と大して変わらない。
ぼくたちが与えられている小屋は、この居住区から離れた村の外れにある。
しかし、見れば見るほど本当に寂れた村だ。何年も暮らしているが、この村の名前すらぼくは知らなかった。心を置いてけぼりにする現実に抗ってやろうと、焦る気持ちを押さえつけ、ぼくは村の名前を探すことにした。村の出入り口の所に表札のような物はないか、村を一歩出ると体を反転させ、その全容を視界に入れる。
「あれ……?」
もちろん観光地じゃあるまいし、村の名前が書かれた看板なんてあるはずがない。けれど、どうしてか、改めて正面から村を見渡すと何かが引っかかった。ぼくはこの景色をどこかで見たことがある? 毎日見ていたはずの景色だが、そうじゃないと頭の隅で何かが訴えていた。その何かを掴もうと、辺りを何度も見回していると、
「どうしたんじゃ? まだ腹痛がおさまらんのか」
斜め向かいから、しわがれた声が聞こえてきた。驚き声の方へ顔をやると、ぼくの中で引っかかっていた何かが、パズルのピースが埋まるみたいにカチリと嵌まった。