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1話

 一番に気付いたのは、鼻につく嫌な臭いだった。


 小学生の頃、教室の片隅で藻に覆われ緑色した水槽に入っていた腐ったような水の臭いに似ている。不思議なもので、どんなに汚い水の中であろうと、自分の体にすら藻のような病的な斑点を浮かばせながらも、その中で金魚は涼しげに泳いでいたっけ。押しつけられた水槽の掃除が面倒だったのもあるが、そのたくましく生きる姿に感化され、ぼくは学校近くの川に金魚を放してやった。


 二十六年生きてきて、ぼくがやった善行はそれくらい。それ以降、金魚を死なせたんだとクラス中から弾劾され、本格的ないじめがスタートするより先に、引きこもり生活をスタートさせたから、さぞや閻魔様は困り果てただろう。何一つ、ぼくの進退を決定する材料がなかったからな。


「いや、助けた金魚の分は、天国の方に傾いているはずだ」


 ぼくの気持ちを代弁するような声が、ぼくの声とピッタリ重なって聞こえた。低い男の声に、反射的に体が強ばり、ぼやけていた意識が覚醒する。

 目の前には雨水だろうか、腐りかけた樽に溜められた水があった。その水面が反射して、男の影が黒々と落ちている。


「だっ、誰だ!」


 ぼくは覗き込んでいた体勢からバッと起き上がり、転げそうになりながらも振り返った。体で樽を押してしまったらしく、ジャポンと中の水が跳ねて腰の辺りを濡らす。下半身を襲う気持ちの悪さを無視して、先に背後に立っていた男の姿を探すが、辺りには誰もいなかった。見間違いかと、ホッとしたぼくは、腰が抜けたみたいにその場に座り込んだが、そうなると今度は漏らしたような下半身の不快感が気になり出す。


「もう、なんなんだよ! これじゃあ、お漏らししたみたいじゃないか!」


 腰を捻り濡れた箇所を確認していると、また聞こえた。ぼくを馬鹿にするような声が聞こえたのだ。でも、おかしい……ぼくの声が聞こえない。


「…………まさか」


 そろりと熱い物でも触るような気持ちで、自分の喉元に手を伸ばすと、ゴクリと生唾を飲み込む動きが指先に伝わる。


「これは、ぼくの声……なのか」


 しっかりと指が感じ取った事実に戸惑い、同時に色々なことにようやく気が付いた。

 目の前に広がる景色は、ぼくの部屋でも病院でもなく、ここが現代だと証明するような文明的な物が一つもない場所だった。


 背中を預けている樽が置かれているのは、掘っ立て小屋の軒先だ。扉のない出入り口から中を覗けば、馬小屋だろうか藁(?)の山がいくつも高々と積まれている。その他には何もない。同じような小屋が左右に数件並び、それらの前には小屋よりも一回り小さい、けれど、しっかり扉の付いた建物が対になるよう建っていた。無味乾燥なそれらの箱には、人の気配こそなかったが、無数の人間が寝起きしている場所なのだと、鼻につく皮脂や汗の嫌な臭いで分かった。


 誰もいないことだけ確認すると、ぼくの視線は自然と自分の体へと向いた。ゆっくり手を腕を上げると、日に焼けて浅黒い肌が目に付いた。触れると硬い、まるで岩のような筋肉質な腕だった。自慢じゃないが、三百六十五日、二十四時間、自室に籠もっていたぼくは、日焼けなどない真っ白な肌をしている。筋肉ではなく脂肪を巻いた腕はぷよぷよしていて、これでもかと言うほど柔らかい。


「あ、つめ……さっき切った爪は?」


 混乱する頭で必死に自分がどんな形だったかを思いだそうと、両手の指先を見る。きれいに切りそろえたはずの爪は、何カ所も割れ、全て中に泥が入り込み真っ黒だった。


 暑くもないのに、汗が吹き出す。どこを見ても見覚えのある部分が見つからない。ぼくは立ち上がり、水の張った樽の縁をギュッと掴んで、深呼吸を繰り返した。自分がどうなっているのか……樽を覗き込めば知ることが出来る。何度か躊躇った後、ぼくは樽に飛び込むような勢いで、水面を覗き込んだ。

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