物の怪姫様のお成り!
踏み固められた剥き出しの地面を、玻璃は北へ北へと走っていた。
時刻は辰一刻(現代の午前7時)を少し過ぎたばかり。父である内大臣が出仕したのを見計らい、こっそり屋敷を抜け出し遊びに出てきたのだ。
道の中央は内裏へと出仕する殿上人達の牛車で混雑し、端は主人の遣いなのか雑兵や童達が忙しそうに行き交っている。それを横目に玻璃は浮き立つ気持ちを隠し目的地へと急ぐ。
内大臣の一の姫という高い身分にある玻璃は、屋敷の奥で読み書きや手習い等を毎日の様に行い、本来なら外に出るなど言語道断である。
それなのに、小袿を脱ぎ捨て水干を着込み、屋敷の者達の目を盗み外へ出てきたのは、ただ単に玻璃が普通の姫とは違い変わり者だったからとしか言えない。裳着(女の子の成人の儀の事。数え12歳位に行う)がまだなのを良い事に、屋敷に仕える童達と庭で遊びまくっている。父や母、他の対の屋の女房達に何を言われようが全く懲りず、少しの勉強と引きかえに、顔を隠す事無く元気な声を屋敷中に響かせていた。
「着い、た……」
弾む息を整えながら絞り出された声には喜色がにじむ。
玻璃が遣って来たのは、怪異の噂が絶えない一条戻り橋。女房達の噂話を小耳にはさみ、どうしても実物を見たくて抜け出してきたのだ。
「此処に物の怪が出るんだよね? どんな物の怪だろう」
物の怪――つまり、怨霊、死霊、生霊等と呼ばれる悪霊や妖怪見物する為、玻璃は態々此処まで来た。
彼女自身、そういったものをある意味見慣れてはいるのだが、まだ見たことのないものが出る可能性がある――そう考えただけで、好奇心を抑えきれなかったのだ。
「うーん……一条戻り橋だから悪霊系? でもそれだとツマラナイ……」
欄干を見詰め、腕を組み、首を傾げる。
あの世に行くも戻るも通るとされる一条戻り橋故、場所柄、悪霊系が一番有り得そうだが……。そういったものはありふれている為、出来ればヤメテほしい。
「何がつまらんのだ?」
「え?」
突然掛けられた第三者の言葉に、玻璃はきょろきょろと周囲を見渡す。
だが、見える範囲には誰も居ない。念の為、後ろを振り返ってみるが、其処にも誰も居ない。
「何処を見ておる。上だ、上」
「上?」
上と言われて見上げてみれば……居た。山伏の様に袈裟を着込み、胡坐を掻いて背中にある羽を優雅に羽ばたかせ浮いている人――ではなく、天狗が。
初遭遇の妖怪の姿に玻璃の目が輝く。
「天狗!? 天狗だよね!」
「うむ? そうさな。人の言う天狗とは吾の事だな」
「本物だー!!」
喰い付き気味の子供に若干引きながらも、天狗は鷹揚に頷く。
その態度に、玻璃の目が増々輝いた。
見上げてくる瞳に、天狗が笑う。
「可笑しな女童よの。吾を怖がらぬか」
「怖がる? 何故?」
本気で不思議そうに瞬き、玻璃は天狗に向けて片手を差し出す。
「分かるよ。貴方は、今まで悪い事なんて何もやってない」
「……」
「それに、此れからも、何かやろうとは思っていない」
笑っていた天狗の口元が、面白そうにさらに吊り上がる。
「……では、吾は何の為に此処へ来たというのだ?」
「え?」
キョトンと目を見開き、
「私と同じく、見物?」
その言葉に、天狗が盛大に噴き出した。
***
たっぷり一刻後。
笑い止んだ天狗と玻璃は、並んで欄干に座っていた。
「では何だ。お主は本当にただ見物に来ただけか」
「うん。普段は見ないようにしているけど、今日は暇だったから見に来てみた」
あっけらかんと自分が普通でない事を暴露する玻璃に天狗は再び笑う。なかなかどうして。胆の座った小さな姫君だ。まずそうそう出会えないであろう胆力に愉快さが増す。
「して。見学に来た甲斐はあったのか?」
「勿論! 天狗みたいに貴重な妖に会えたのだもの。得したとしか言えない」
ニコニコと本当に嬉しそうに笑う玻璃に天狗の笑みは深まる。
自分達を見れば悲鳴を上げるか調伏しようとする輩にしか会わないのだ。好意的な態度は其れだけで貴重だ。
そう考えてふと思う。この娘と共にあれば、さらに面白いものが見れるのではないか、と。
「……お主、今幾つだ?」
「今年、十になった」
「ふむ……まだ本当に子供なのだな」
「後二年で裳着なんだけど?」
ムッとしながら玻璃が言う。二年もすれば大人の仲間入りなのだから、子供扱いされるのは矜持を傷付けるようだ。
天狗はそんな玻璃の頭を軽くポンポンと撫でると、
「大人でも子供でもどちらでも良い。吾はお主が気に入った。故に、吾に協力せぬか?」
「協力……?」
不思議そうに首を傾げる玻璃に天狗は面白そうに笑い掛けた。
「吾等のような妖は、力を使えば使うほど内にある力が強くなっていく。それ故、態と力を使う者が多いのだ」
「なるほど……だから妖って悪戯するヒト多いんだ……」
「まあ、そうだな」
天狗は頷き、再び玻璃の頭をポンポンと撫でる。
「吾も力を強くしたいとは思っているのだがな、態と使うのも面白味がなくてな。どうせなら、他の者達とは違う力の使い方をしてみたいのよ」
「違う使い方?」
「そう、例えば……お主と共に妖が起こす悪戯を戒める、とかな」
「……え? つまり、お仕置きに力使いたいの!?」
欄干からずり落ちそうになるのを必死に堪え、玻璃は天狗を見上げる。真ん丸に見開かれた目に映る天狗は可笑しそうだが至って真剣だった。
「……お主のように力の強い者が現れたという事は、何某かの厄介事が起こる前触れである可能性が高い。大きな流れに巻き込まれぬよう、お主自身が違う力を持つのも必要ではないか?」
「……」
天狗の言っている事は難しく、玻璃にはその大部分の意味が理解出来ない。だが要するに……何かあれば『力を貸してやる』と言っているという事で良いのだろうか?
天狗の顔をジッと見詰めれば、深い深い琥珀色の瞳が玻璃の答えを静かに待っている。
玻璃は首を傾げると、そっと片手を天狗に差し出した。
「……どうすれば一緒にお仕置きしてくれるの?」
その言葉に天狗は嬉しそうに笑い、玻璃の手を優しく取る。
「吾にお主の名を預け、そして吾に名付けよ。名とは最も簡単かつ深遠な言霊の呪となる」
「えーと?」
つまり、名前を名乗った後、天狗に名前を付ければ良いという事か?
玻璃は反対側に首を傾げると、天狗に取られている手を軽く振った。
「わたしは玻璃。それで天狗さんは――」
再び、天狗の顔を見る。やはり深い琥珀の瞳が玻璃を真っ直ぐに見ていた。
「うん。わたしの名前、勾玉の玻璃(現在の水晶)から字を取ってるの。だから勾玉繋がりで、天狗さんの名前は『琥珀』でどうかな? 貴方の瞳の色と同じ琥珀」
玻璃がそう天狗を呼んだ途端――風が巻き起こり、玻璃と琥珀を包む。
その風はゆっくりゆっくり弱くなると、最後にそっと玻璃の顔を撫で消えていった。
「――契約は成された。是より吾は『琥珀』となる。吾の力が必要な時は吾の名を呼べ。何処に居ようとも吾が風の力は玻璃の味方だ」
「……力だけ?」
どこか不満そうな主の顔に、琥珀は愉快そうに口角を上げる。
「何時でも、何処でも、玻璃が望む限り必ず駆け付けると誓おう」
「――うん!!」
これより後、玻璃は琥珀の力を使い、都に蔓延る物の怪の怪異を鎮めたり、違う物の怪を仲間にしたりと様々な武勇伝を上げ、いつの間にか『物の怪姫』と畏怖と尊敬を込めて呼ばれるようになるが――
――今はまだ、物語は始まったばかり。