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第五十八.五話 皇室御用達と毛皮のコート

「よく来てくれたな、津田左近衛大将よ」


「主上より格別の配慮を賜り、関東や奥州では犠牲になる民が減りました。これも、主上の威光の賜物と思っております」


 津田光輝は、従三位左近衛大将の官職を賜ったお礼に、正親町天皇を訪ねていた。

 殿上人になってから必要な儀礼を習ってはいたものの、その機会があまりなく、いまいち自信がなかった光輝であったが、どうにか恥をかかない程度にはこなす事が出来て安堵している。


 さて、光輝が賜った左近衛大将というのは、この度朝廷が新たに定員を増やした官職であった。

 織田政権下において大量の武士にも官位や官職を与えないといけなかったので、信長の勧め、というか命令で定員が増やされている。

 公家側も自分達の分の官位や官職が減ると困るので、荘園の追加を条件にこれを呑んでいた。


 宮中の警固などを司る左右の近衛府の長官で左右一人ずつなのだが、東西南北で四人いてもいいだろうという信長の強引な解釈により、左右が二人ずつになった。


 公家から二人、武家から二人という暗黙の決まりになっている。

 どうせ武家の近衛大将は宮中の警護などしないので、人数が倍に増えても問題ないというわけだ。


 右近衛大将が実質的な副将軍扱いであったが、光輝はほんの少しそれよりも身分は低いという解釈にしているようだ。

 光輝からすると、そういうのはよくわからないので朝廷と信長で勝手にやっておいてくれというスタンスであった。


『宮中は前例がないと動きませんが、時にはそれを強引にねじ伏せる権力者が出ますな』


 津田家で朝廷対策を専門に行っている三淵藤英は、信長の強引さに半ば呆れていた。

 

『これも新しい時代の流れですか……』


『別に誰かが損をしたわけじゃないし、うちの大殿なんてこんなものよ』


『確かに……普通に暮らす庶民からすれば、近衛大将が何人いても関係ないですからな』


 光輝の言い分に、藤英は納得した。


「此度も、色々とすまぬな」


「いえ、大した物も贈れず、お恥しい限りでして」


 勿論謙遜であったが、そう言った方がいいルールになっているので、光輝はわざとそう言っていた。


「缶詰であるか。噂には聞いたが、凄い物だな」


 朝廷でも津田領産の缶詰は噂になっていたが、手に入れられた者は少なかった。

 いまだ購入はできず、津田家から贈られた織田家家臣から数個をもらった貴族が数名いただけであったからだ。


 それが、正親町天皇に対し五千個も献上されたので、彼は早く自分で開けてみたいと思ってしまう。 

 缶切りを持ちながら、正親町天皇はワクワクしていた。


「毛皮なども済まないの」


「最近、取引が増えているのですよ」


 伊達政宗は、沿海州を円滑に統治するために食料、武器、銭、生活道具などを大量に必要としていた。

 当然無料というわけにはいかず、政宗は豊富に獲れる動物の毛皮を津田家に輸出していた。

 その中でも、特に貂の毛皮は高級品であった。


 これでエリマキとコートを作り、正親町天皇に献上したのだ。


「この肌触り……癖になるの」


 正親町天皇は、貂の毛皮のコートに大喜びであった。

 ただ、これを試作した今日子は毛皮製品を愛用していなかった。

 

 光輝もそうで、その理由はこの時代に移転する前、荒ぶる動物保護団体により毛皮製品を使用している人達への過剰な嫌がらせが社会問題になっていたからだ。


 町を歩いていると、いきなり水やペンキをかけられる被害が発生していた。

 運送業の仕事でも、もし打ち合わせなどで毛皮を着ていくと、依頼者が毛皮の使用反対論者で仕事を断られたなどという話も聞いた事があり、つい自分達は着ない癖がついてしまったのだ。


 仕事の打ち合わせで毛皮を着る人など少ないので、実は金がもったいないという理由の方が大きかったのは秘密である。

 しかし、未来では、毛皮を着て外を歩く人への非難が大きかったのは事実であった。

 金持ちなどはそれを怖れて、内輪のパーティーなどでしか着用しない人が大半であった。


『お市ちゃんと、葉子ちゃんは遠慮なく着てね』


 今日子は、光輝を通じてお市と葉子には毛皮のコートなどを贈っていた。

 自分の好みや癖のせいで、二人が毛皮を着られないと可哀相だと思ったからだ。


『旦那様、ありがとうございます』


『温かいですね』


 お市も葉子も普通の女性なので、光輝からアクセサリーや服などをもらうととても嬉しそうな顔をした。

 夫としての光輝の評価も上がったので、彼は今日子に感謝している。


「妻の分も済まぬの。男用と女用で造形が違うのだな」


 正親町天皇は毛皮のみならず、コートのデザイン性にも感心した。

 そこは、先端をいく津田家直営の服飾工房の作品だ。

 毛皮のコートも、ちゃんと男性用と女性用で別にデザインをしてあった。


「服は素材も重要ですが、造形や縫製技術も重要ですからね」


「なるほどの。いやしかし、本当にいい物をもらったの」


 正親町天皇は毛皮のコートを大変気に入り、寒い時期に外に出かける際には必ず着用するようになった。


「主上、素晴らしい毛皮ですな」


「津田左近衛大将よりの献上品でな。蝦夷よりも北方で獲れた貂の毛皮だそうだ。加工は、津田領の服飾工房だと聞いておる」


 正親町天皇は出かける先で必ず毛皮のコートの事を聞かれ、嬉しそうにその話をした。

 

「なるほど、あの津田領で作られた品ですか。納得がいきます」


 津田領では、絹、木綿、麻、青苧などの布と服への加工産業が徐々に発達しつつあった。

 スーツなどの特殊な品は特注品で高価なため、滅多に市場には出回らなかったが、男性用のブリーフと女性用のパンツ、インナー、モモヒキ、ネックウォーマー、毛皮や毛糸の帽子、靴下などが庶民にも人気になっていた。


 関東と東北は寒くなるので、防寒に役立つ商品がよく売れたからだ。

 帽子を被るため、関東と東北では光輝と信輝のように髷を結わないで短髪にする男性が増えていた。

 

 他にも、職人には作業着やツナギ、警備隊の将兵には鎧の下に着れるインナーなども支給を開始している。

 警備隊向けなので需要が多く、現在服飾関係の工房はその生産で大忙しであった。

 腕のある女性は稼げるので、就業希望者が江戸に多く集まっている。


「(貂の毛皮か……いくらくらいなのであろうか?)」


 正親町天皇の毛皮のコートを見た貴族や武士や大商人達は、自分も毛皮のコートがほしくなってしまった。

 早速津田家に問い合わせてみるが、やはり目の玉が飛び出るほど高い。


「貂の毛皮は貴重であるし、造形のよさに、縫製でも手間をかけているようだな。高価だが……」


 あの正親町天皇も愛用している品で、値段相応の価値は確実にある。

 そのように踏んだ彼らは、値段を気にせずに毛皮のコートを買い漁った。


「うちの稼業は皮革だから、これは手に入れないと」


 主な購入層は、今井宗久などを始めとする大商人であった。

 彼らは、高価な毛皮のコートでも気にせずに購入できる財力を持っているからだ。


「家内にも欲しいと言われてしまいましてな」


 勿論、奥さんに強くせがまれたという理由もある。

 妾や、妾にしようと考えている女性に贈ろうと購入する者もいた。


「うちもそれなりの身代やさかい、一着くらい持ってへんと格好がつきませんな」


 信長の命で堺から石山へと移動した旧堺の会合衆に、全国各地の大商人、大名やその妻、果てはその評判のよさから明や南蛮にも輸出されるようになった。


「今日子様、こんなあり得ない金額の外套が、なぜ作っても作っても足りないくらい売れるのでしょうか?」


「直ちゃん、世の中にはお金を持っている人が意外と一杯いるんだよ」


「みたいですね……」


 現在、服飾工房で毛皮のコート製造の責任者になっている井伊直虎は、物凄い金額なのに大量に売れていく毛皮のコートに素で引いていた。


「最初に、主上夫妻に献上したでしょう?」


「はい、正直勿体ないと思いましたが……」


「あの主上夫妻が愛用している。日の本国内でこれほどの評価はないから」


 今日子は、未来でも皇室御用達、王室御用達の品が高価なのに売れている事実を知っていた。

 正親町天皇夫妻への献上は、あくまでも広告費だと割り切っていたのだ。


「日の本国内で評判が上がれば、今度は海外にも波及するからね」


 その結果、直虎はかなり忙しい時間をすごしていた。

 義息子の直政も結婚して新しい屋敷に引っ越してしまったし、忙しい分だけ給金も大幅に増えている。

 仕事にもやりがいを感じていたし、不満は特に持っていなかった。

 むしろ、充実しているとも言えた。


「ふと疑問に思ったのですが……」


「何かな? 直ちゃん」


「明って、海禁政策で日の本と貿易していませんよね? どうやって明に販売しているのですか?」


「それはね。品が品だから、ちゃんと正式な取引でやっているんだよ」


 今日子の言う正式な取引とは、江戸より遥か北方のあの人物の領地からであった。


「小十郎、どうだ?」


「似たような物は作れます」


「そうか、なら!」


「あくまでも似たような物なので、明にいる目の肥えた金持ちから見れば粗悪品です。せっかくの高価な貂の毛皮の価値が落ちたと思われるでしょう。津田家の加工技術でないと、加工しても価値が殆ど上がりませぬ」


 明との交易ルートとして利用されているのは、明の冊封下に入っている沿海王伊達政宗であった。

 伊達家は、津田家から獲った動物の毛皮の正しい処理方法を伝授され、その毛皮は津田家へと輸出された。

 それらは津田家において高品質な服飾品などに加工され、今度は伊達家に輸出される。


 伊達家は明に販売し、その利ザヤを稼ぐというわけだ。


「加工された毛皮製品がとんでもない金額になっていて、明らかに伊達家が損をしているような……」


「技術がない以上は仕方がありません」


「職人の育成を急がせないとな」


「やらせてはいるのですが……」


 現在の伊達家は人手が少ない。

 特に日本人の数が少なく、もっと支配が安定化するまでは軍人に多く割り振らねばならなかった。

 技術者も、武具と町の建設などに多くを割り振っている。 

 職人を養成する余裕は少なく、正直なところない袖は振れないというわけだ。


「儲かっているのですし、今は我慢するしかありません」


 津田家は毛皮製品を密貿易で流しておらず、明への窓口は伊達家のみとなっている。

 これは、政宗が正式に明の冊封下に入っていたからだ。

 

「確かに、仕入れ値の倍以上の値段で売れるからな」


 さすがの政宗も、ただ仕入れただけの毛皮製品が高額でも飛ぶように売れるのを見て、明の大国ぶりに驚くばかりであった。

 明には金持ちが多く、彼らは高価な毛皮のコートなどを大金を積んで購入した。


 しかし、政宗は知らない。

 伊達家から毛皮のコートを仕入れた明の商人は、明の金持ちに更に数倍の値段で毛皮のコートを販売している事を。


「まあいい、この交易で稼いだ金でもっと我が領地を発展させるのだ! さすれば、いつか津田家を倒せる時もこよう」


「そうですね(その稼いだ金も、武器、玉薬、港や町の建設用資材などでみんな津田家に戻ってしまうのだが……)」


 小十郎がそれを口に出さないのは、政宗がその事実に気がついていないはずがない。

 要するに、政宗の『津田家打倒言』はあくまでも努力目標であり、必ず実現するとは一言も言っていないというわけだ。


 当然主だった家臣達もそれに気がついており、そこを追及しないのは伊達家重臣として必要な能力であった。


 後世、伊達家の重臣に必要なのは空気を読む事と言われるようになる最大の原因でもあった。


「津田家を倒し、伊達家が日の本を束ねるのだ!」


 色々と矛盾はあるが、小十郎は自分に与えられた仕事にまい進すべく現場へと戻っていく。

 片倉小十郎は、空気が読める大人であった。






「殿、大殿より手紙が届いておりますが」


「何だろう?」


 正親町天皇夫妻に毛皮のコートを送ってから数か月後、光輝が正信から渡された手紙を読むとそこにはこう書かれていた。


『至急、女性用の毛皮の外套と襟巻を送ってくれ! 至急だ!』


「……お濃の方に催促されたのかな?」


「でしょうな……」


 光輝は、急ぎ信長から頼まれた品を石山に送るのであった。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  殺伐とした世界観になりがちなのに、最初から一貫して楽しそうな雰囲気が大好きです。 [気になる点]  細かい事ですが・・  右と左、どちらが上位と言われれば、世界基準では右となります。  …
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