第五十六話 九州攻め前夜
「残るは九州のみであるが、その前に諸将への領地の再配と、新たに制圧した領地の統治も必要であろう。それは置いても、今は皆の活躍に感謝する事にしよう」
中国、四国制圧作戦は成功し、信長は作戦に参加した諸将を石山に呼び寄せて祝杯をあげていた。
「権六、いささかも衰えておらぬな。さすがは、かかれ柴田よ」
「ははっ!」
信長は上機嫌で、作戦に参加した諸将に酒を注ぎながらその敢闘を労う。
一番最初に柴田勝家を褒め、太刀や茶器を与えて、彼が織田家筆頭宿老であると皆に知らしめた。
勝家は、大喜びで信長から盃を受けている。
「キンカン、長宗我部の件は残念であったがよくやってくれた」
「いえ、大殿には特別のご配慮をいただき感謝しております」
次に信長は、四国制圧に大功があった明智光秀に声をかける。
長宗我部家の領地の件もあり、やはり信長が気を使っての事だ。
「サル! 信忠をよく支えてくれたな」
「いえいえ、信忠様の力量が優れているに過ぎませぬ」
「相変わらずよな、サル」
信長は親族への称賛は後回しにし、譜代諸将へと酒を注いだり、とりあえずの褒美を渡す作業に没頭した。
宿老は、柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益という席次になった。
ただ、この席次にはあまり差をつけないように信長は配慮している。
特に譜代中の譜代である丹羽長秀と、信長が重用している滝川一益にも勝家達と同程度の褒美を渡して褒める事も忘れなかった。
続けて、信長の乳兄弟である池田恒興、赤母衣衆筆頭の前田利家、黒母衣衆筆頭の佐々成政、林通政、蜂屋頼隆、毛利良勝、河尻秀隆、金森長近、福富秀勝。
側近衆の菅屋長頼、矢部家定、堀直政、長谷川秀一などにも酒を注ぎ、褒美を渡す。
続けて、準一門衆の浅井長政に、その嫡男で対毛利戦で活躍した亮政、娘婿である徳川信康にも声をかけ、最後に信長は信輝に話しかける。
「ミツは、いい跡継ぎを持ったな」
信長は、ご機嫌そうな笑顔を浮かべながら信輝に声をかける。
「ミツも関東と東北を上手く治めているし、信房も世話になっておる。婿殿、冬とは仲良くやっておるか」
「はい、早く帰ってあげたいですね。石山でお土産も買って行きませんと」
「そうか、冬を頼むぞ」
息子達を除くと、信輝は信長から一番最後に声をかけられたが、一番長い時間話を続けている。
諸将は、津田家の特別な立場を改めて理解するのであった。
「父上、母上、ただいま戻りました」
「早く冬ちゃんのところに戻ってあげなよ。新婚なんだから」
「そうだぞ、結婚したらカミさんを優先するように」
「父上と母上は、相変わらずですね」
織田家による中国、四国制圧作戦が無事に終わり、信輝が江戸城に戻って光輝に報告を行う。
すると光輝は、本多正信と将棋で勝負をしている最中であった。
勿論戦況は、正信が圧倒的に有利であった。
津田家中で光輝に将棋で負ける者など一人もいないのだから。
「殿は、いつも驚きの弱さですな」
「戦で負けるよりはいいであろうさ」
「それはそうなのですが、若殿が報告したい件があるそうで」
「領地割りか?」
「はい、色々と移動がありましたね」
信長は、頻繁に家臣達の所領変更を行うようになった。
領地を増やす代わりに、まるで縁のない場所を与えて統治できるかを試す。
そろそろ天下統一も近づき、武功のみならず、統治能力も家臣に問うようになったというわけだ。
「どうせうちは加増なしだろう?」
「はい、安心な事に」
今でも勝家のように警戒している者が多いのに、これ以上の加増は津田家にとって害にしかならない。
対蝦夷対策もあるので、出羽を除くこれまでに抑えた東北地域も安堵というのが形式上の褒美になっていた。
ただ信長は気を使ったようで、信輝に太刀、絵画、砂金などを与えている。
駿河は松永久通のまま、三河と遠江も徳川信康のまま、甲斐は前田利家に与えられた。
信濃は、森可隆、長可、成利、毛利良勝、河尻秀隆などに分割して。
加賀は佐々成政と池田恒興に、越前は柴田勝家のままであったが、彼は若狭を加増されている。
浅井長政は、若狭と丹後を放棄する代わりに近江一国を与えられた。
丹羽長秀は讃岐と阿波に、伊予は織田信雄のままで。
明智光秀は長門、周防、石見に、羽柴秀吉は播磨、因幡、但馬、織田信孝が備後、備中などと、かなり激しい所領の変化が起こっている。
「もう少し統治を安定させてから、九州かな?」
「はい、滝川様が九州探題に任じられる可能性があるそうです」
地味ながらも常に信長に貢献してきた一益は、九州探題となってかの地を統括すると噂になっているそうだ。
「大和から移封だな。そうなったら、壮行会をしてあげないと」
「羽柴様にも声をかけましょう」
「丹羽殿と村井殿と前田殿にもだな」
他にも声をかける者達を考えてみたが、柴田勝家だけは速攻で候補から外した。
相変わらず、光輝に対し奇妙な憎悪を抱いているからだ。
「柴田のジジイはどうしようもないな、信輝は顔を合わせたか?」
「はい、父親に似て小賢しいガキだと」
「権六殿にしては、えらい褒め言葉だな」
信輝は吉川元春を挟み撃ちにして撃破したあとで挨拶に行ったが、勝家からかなり邪険に扱われた。
勝家からすれば、津田家の人間は『坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い』というわけだ。
「あのジジイはじきに死ぬから放置しておけ」
「酷い言い方ですね、父上は」
一方的に嫌われていて、こちらの歩み寄りがすべて無駄になっているからだ。
実は、見た目からして苦手なのであまり歩み寄ってもいなかったが。
「それよりも、領地の整備と九州攻めでも出兵があろう。準備を怠らないように」
「わかりました」
中国、四国攻めの後にすぐに九州攻めにならなかった理由、それはすぐに判明する事となる。
併合したこれらの地域で、新領主に反抗して国人、地侍衆が一揆を起こしたからだ。
織田家においては、彼らのような中間搾取層は認められない。
新領主が検地を始めた事により、それに反発した者達が一揆に走ったという構図だ。
「津田殿、心配せんでください。一揆ならもう鎮圧しましたから」
交易範囲を広げるために播磨を船で訪れた光輝を、秀吉はいつも通りに出迎えた。
新たに拝領した但馬、因幡で国人衆による一揆が発生したのだが、すぐに鎮圧してしまったという。
「さすがですね」
「上手くいっておらんで、大殿のご機嫌を損ねた者もおりますが……」
信長の機嫌を損ねた者の筆頭は、あろう事か信長の次男で伊予を拝領した信雄であった。
備中、備後を与えられた三男信孝が比較的早期に一揆を鎮圧したのに対し、不手際が目立っている。
かつて伊予を支配していた河野氏の旧臣などが一斉に蜂起し、伊予国内ではむしろ信雄の支配領域の方が狭い有様だ。
「大殿が『信雄は我が子にあらず!』と大激怒したそうで」
滝川雄利、津川義冬、岡田重孝などの重臣達にも叱責が及び、これに焦って無茶な鎮圧作戦を強行した結果、津川義冬が討ち死にするという事態にもなっていた。
「お隣が五郎左殿なので、大殿の命で介入すれば終わるでしょうが……」
一国を与えられたのに、それをまともに治められない次男。
信長からすれば織田家による支配体制強化の妨害となり、不安になってしまうのかもしれない。
どう贔屓目に見ても、光輝も信雄が有能だとは思えなかった。
「あとは、旧毛利領の国人衆の一揆ですか。まあ、明智殿は上手くやっておりますが。あの人は出来人ですからな」
九州攻めでは毛利軍と先鋒となる予定であり、拝領された長門、周防、石見を上手く治めている。
石見銀山もあって、なかなかに羽振りもいいそうだ。
ただし、出雲、伯耆は一揆鎮圧に梃子摺っているらしい。
それでも、伊予ほどは酷くないようだが。
「これが治まらないと、九州出兵も不可能ですからな。うちの長吉と茶々殿の婚姻もありますか。案外忙しいですな」
信長の斡旋で決まった、秀吉の嫡男秀勝と光輝の娘茶々の婚礼の儀がもうすぐ行われる事になっていた。
その準備もあって、光輝は秀吉を訪ねていたのだ。
茶々は、お市が最初に産んだ娘である。
彼女は五人の娘を産んでいて、他の娘達も津田家重臣の家に嫁ぐ予定になっていた。
葉子も三人の娘を産んでいて、この三人ももう嫁ぎ先が決まっている。
すべての娘の婚姻が決まってしまったので、光輝の胸中は複雑であった。
「父親は複雑ですなぁ。うちの娘も外に嫁ぐ予定ですから」
ねねが産んだもう一人の娘朝日も、信長の命で池田恒興の次男輝政に嫁ぐ事が決まっていた。
このように、信長は織田家も含めて家臣の間で婚姻を進めて上手く統制を行おうとしているわけだ。
「津田殿は、明智殿の元にも行かれるとか?」
「次郎の元服や、嫁入りの話もありますので」
「お互いに、そういう話をする年になりましたか」
一晩秀吉の歓待を受けた光輝は船で長門まで向かい、今度は明智光秀の歓迎を受ける。
「これからは親戚同士となります。共によき関係でありたいですな」
まったくの外様から、わずか十数年で宿老にまで上りつめた光秀は出来人と噂されるだけの力量を持つ人物であった。
重臣達と共に光輝一行を出迎えて歓迎する。
「出雲などは、一揆が激しいと聞きましたが」
「それでしたら、援軍を出して鎮圧しました」
さすがは光秀というべきか、援軍を出して既に鎮圧済みだという。
どこぞの次男などとは比べ物にならない優秀さだと、光輝は内心思っていた。
「大殿は、激怒しておられましたな」
一揆鎮圧の不手際から、出雲と伯耆に所領を与えられていた飯尾尚清や福富秀勝などが減封となってしまった。
織田家で大名の地位を保つには、それなりの能力が求められるというわけだ。
ただ戦が上手いだけでは、なかなか出世できなくなってしまった。
「その点、津田殿は見事ですな」
「まあ……何とかやっていますよ」
まさか半分インチキを使ってですとも言えず、それ以後は互いに親しく歓談し、応対を受けてから江戸へと戻っていく。
ようやく丹羽長秀の援軍により伊予で発生した一揆が平定され、年が変わって天正十年、遂に九州攻めが発動される事となるのであった。
 




