第二十五話 朝倉家追討命令
「新地から、季節の挨拶が届いたそうじゃな」
「はい、主上」
「それは楽しみよな」
弘治三年に崩御した後奈良天皇より践祚した正親町天皇は、毛利元就から献上されるまでの三年間、即位の礼を挙げられなかった。
前の代の後奈良天皇も、更にその前の天皇からもそうであったように、この時代の天皇や公家は例外なく金銭的に困窮していたからだ。
今は、官位目当ての各地の戦国大名と、本願寺法主顕如からの献金に、織田信長上洛により御料地の回復などが行われて財政的には大分マシになっている。
加えて、彼の義弟にして伊勢志摩を領有した新地光輝が、多額の献金や季節の贈り物を絶やさなかった。
特に、年末には色々な物を贈ってくれる。
正月に必要な、餅、干し椎茸、カズノコ、昆布、干し魚、干し伊勢海老、新巻鮭、イクラ、タラコ、サトイモ、ユリノネ、クワイ、黒豆、クジラ肉、焼き干し牡蠣、鴨、砂糖、ハチミツ、水飴などの豊富な食材が贈られてくる。
禁裏でこれを調理し、みんなで新年にお祝いを行うのだ。
その豪勢さに、正親町天皇も多くの公家達も喜んでいた。
定期的に決まった額の献金もあり、珍しい宝物や中国磁器の名器も贈ってきた事がある。
絹の服や、羽毛を使った布団、便利な生活用品なども贈ってもらった。
羽毛布団の温かさと軽さには、正親町天皇も虜になっている。
「新地の勤王の志は、評価に値するの」
随分とよくしてもらっているが、彼らが過剰な要求を出した事はない。
官位を与えるのに、少し家系図を弄ってやっただけだ。
家系図を弄って官位を与えるなど、実はそう珍しい話でもない。
三河の松平家も……本当に新田氏系得川氏の係累かどうか怪しいところだが、他の大名家にも相当血筋が怪しい者がいるので大した問題ではなかった。
実際にその地が治まっていればいいし、皇族も貴族も蓄えが乏しい。
先立つ物は必要で、松平改め徳川家康はそれなりに、新地光輝も多額の献金をしてくれた。
朝廷のために貢献してくれた者に感謝の気持ちを表す。
これの何が悪いのだと、内心では多くの貴族達も思っている。
当然、もう少し利益供与してほしいという下心もあったが。
『貴族と公家御用達、マイウー』
『同じ市場で売るにしても、相場が全然違うからね。薄利多売の大量生産と、高級ブランド品を併用して儲けるのさ』
下心は新地家も同じなので、これはお互い様であろう。
新地兄弟は、無料で人に沢山物をあげるほどお人好しではなかった。
「まだまだ献金をしてくれる者は少ないからの」
名門の出を誇る癖に、自らが困窮没落して勤王の心すら失っている武士も多いのだから。
家柄を気にする者もいるが、多数の廷臣達の中で何人かはそういう成り上がり者が混じっても許すくらいの度量、これが貴族と皇族には必要だと正親町天皇は思うのだ。
勿論、そんなに沢山はいらないが。
「新地を殿上人にしてやれぬのか?」
一度くらいは直接会って、感謝の気持ちを述べてやる必要がある。
そのためには、昇殿を許される階位である五位まで上げてやらねばなるまい。
「しかしながら、あの者の血筋は怪しく……」
「その問題があるの。なら、彼に箔をつけてやろうではないか」
あの者に、高貴な家の娘を嫁がせて貴族の縁戚にすれば昇叙も問題あるまい。
正親町天皇は、とてもいいアイデアだと思った。
「新地家にですか?」
「彼は織田の家臣で義弟でもある。織田の功績にも素晴らしいものがあるから、彼も階位と官職を上げてやり、新地が昇殿するために公家の娘が嫁入りする必要があると事情を説明しておいてやろう」
「それはよろしいですな」
賛成した貴族は、自分の娘を嫁に出そうと決めた。
結納金だけで、まだ傾いている家の財政を立て直せるからだ。
それに加えて、毎年の仕送りと季節の贈り物まで期待できる。
「新地殿の弟殿には、既に唐橋家の娘が嫁いでおりますれば」
「ならば、公家の娘には慣れておるの。問題ないではないか」
「正妻殿と、信長殿の妹御の序列を乱さねば問題はないかと」
こうして、光輝の預かり知らないところで勝手に昇叙と三人目の妻の嫁入りが決まってしまう。
光輝が断ろうにも、貴族が手際よく信長にも根回しを終えていて、断る事も出来ず新しい妻を迎える事になるのであった。
「三條西家ですか?」
「大臣家だな」
「なぜ、そんな雲の上の存在がうちに嫁を? 何か悪い物でも食べたのですかね?」
「そんなわけがあるか! 今の主上と貴族連中なら、腐った物でもまだ大丈夫だと食べて腹を壊しそうだが……」
「あの人達、何であんなに貧乏なんでしょうかね?」
光輝のイメージでは皇族と貴族はセレブのはずであったが、それは上洛の際に現物を見て幻想であった事を確認している。
初めて貴族の屋敷を見た時に、お化け屋敷かと思ったほどだ。
「我が知りたいくらいだ。だが、貧乏だからといって蔑ろにはできぬ……」
主君と家臣による、頓珍漢で不敬で失礼な会話が続く。
光輝は岐阜に呼び出され、そこで三條西家の娘が新地家に嫁ぐ事が決まったという事実を知らされる。
知らされた時には光輝に拒否権などなく……元からそんなものはないのだが、信長としても断られると困るので君命となっていた。
「ミツを殿上人にするために、我の階位まで勝手に上げる念の入れようだぞ。断れる理由がないわ」
恐ろしいまでの手回しのよさに、光輝は『貴族侮りがたし!』と感じてしまう。
第一、朝廷に献金や贈り物をしているのは、光輝がいたアキツシマ共和国にも皇室が存在し、雲の上の人であり、国民の人気も高かったからちょっと格好つけて献金などをしてみただけなのだ。
献上した食料や物品は、広告費だと割り切っている。
天子様も食し使用しているというだけで、新地産の食品と物品は高級品扱いで取引されるのだから。
「昇殿といっても、行儀作法は大丈夫なのですか?」
「我も前に苦労した。ミツも習え!」
信長にそう言われたら逆らえない。
光輝は、カナガワで資料を探そうと思った。
あとは、ビジネスマナーと共通点が多い事を祈るのみであった。
こう見えて営業担当でもあったので、基本的なビジネスマナーは心得ている。
覚えなければいけない仕事が増えたが、光輝からすれば織田家株式会社で幹部に必要なスキルを社内研修で学ぶのだという程度の認識であった。
「その話はそれで終わりだ。それよりも、厄介な問題がな……」
「公方様ですか?」
「ああ、その公方様だ」
義昭は将軍になった途端、これまで以上に高慢ちきな男になっていた。
自分は日の本を治める征夷大将軍なので、全国の大名達は自分に挨拶に来るべしと各大名に手紙を送り始めたようだ。
「誰からも、色よい返事が貰えぬようだな」
東北各地の大名は、小競り合いで忙しいので上洛できず。
関東の北条家は、他の関東各地に割拠する大名達との戦で忙しい。
上杉家と武田家は、お互いに殴り合いで忙しい。
今川家は、三河の松平家改め徳川家の攻勢に晒されて上洛など無理。
毛利家も、尼子家と大友家との争いで忙しい。
四国には三好家がいるし、他の大名家もパっとしない。
勢力拡大中なのは長宗我部家くらいだが、だからこそ逆に彼らは忙しい。
竜造寺家と島津家は、大友家との戦いで忙しい。
全員例外なく戦で忙しく、誰も上洛する予定はないそうだ。
もし光輝が義昭から文を貰ったとしても、間違いなく挨拶になどいかないであろう。
そんな事をしても、一文の得にもならないのだから。
「越前の朝倉家はどうなのです?」
「加賀一向宗への備えで忙しいようだな」
この現状に義昭は、征夷大将軍である自分を舐めているのかと大激怒しているそうだ。
怒るだけで止めてくれればよかったのだが、いらぬ事を考えたようで、岐阜に使者を送ってきた。
しかも、京都所司代に任命された明智光秀にも話を通さずにだ。
「上様は、上洛に応じない朝倉家を討てと仰せです」
使者は、光輝が大嫌いな細川藤孝であった。
義昭の命令で仕方がなくという事情を鑑みても、光輝はこの男が気に入らない。
当代唯一の古今伝授伝承者にして朝廷からの信頼も厚いそうだが、相変わらずの上から目線の口調と態度が気に入らないのだ。
「新地殿もよろしいか?」
光輝は信長の家臣であったが、服属大名のような扱いになっているので、信長と共に越前討伐のために兵を出せという事らしい。
「その前に、もう一度上洛を促す交渉をしたらいかがですか?」
「それは既に、浅井殿が行っています」
同盟を結んでいる縁で、浅井長政が朝倉家と事前に交渉を行っていた。
ただし、結果は芳しくない。
朝倉家は、義昭などお飾りで実力者は信長であり、織田守護代家の家臣筋でしかない信長が名門朝倉家に命令するなどおこがましいと考えているからだ。
「とにかく、上様からの命令を伝えましたぞ」
藤孝は、義昭からの命令を伝えると京に戻っていく。
「長政殿とも協議しないといけませんね」
「そうよな」
信長の機嫌は悪い。
彼からすれば、越前などいらないからだ。
朝倉家が評判の悪い加賀一向衆の蓋になってくれているのだから、無理に討伐すると面倒事が増えると思っていた。
「長政も参加させねばまずいか……」
藤孝が持参した義昭からの書状には、ご丁寧に浅井家も朝倉家討伐に参加させるようにと書かれていた。
長政が朝倉家との交渉に失敗したのだから、責任を取れという考え方らしい。
光輝も信長も、義昭の傲慢な態度に呆れかえるばかりだ。
「(あのハゲ……)どういう意図なのでしょうか? 浅井家は、朝倉家とは同盟状態にあるのですが……」
「ふん、大方、浅井・朝倉家三代に渡る同盟関係よりも、将軍たる自分の権威の方が上だと世間に示したいのであろう。あとは、武田元明だ」
信長は義昭の考えがわかり、余計に顔を渋くさせる。
越前の隣若狭の守護は武田家であったが、今は朝倉家に併合され当主武田元明は朝倉家の人質になっていた。
義昭には、元明を若狭守護に戻したい意向もあるようだ。
「浅井家の参加は難しいのでは?」
「隠居した久政がいるからな」
親朝倉家である先代久政は長政によって強引に隠居させられたが、親朝倉の家臣達の後ろ盾となり、いまだに浅井家において大きな影響力を保持している。
朝倉家討伐のために兵を出せと言うと、浅井家が混乱する可能性もあった。
「長政の力量に期待するしかあるまい。義昭公からの命令であると、強調して命令を出すしか方法が思いつかぬ。あとは、徳川殿もか……」
三河守護職と、新田流得川の名跡を継げたお礼という理由もあり、義昭は徳川家にも出兵を命令した。
「行きたくないですね」
「バカらしくなるわ」
信長と光輝は、共に溜息をついた。
それでも飾りとはいえ将軍の命令である以上、朝倉家討伐は行わないといけない。
織田軍、新地軍、徳川軍は越前に侵入し、手筒山城を皮切りに敦賀郡の諸城を落とし、金ヶ崎城も落として城代朝倉景恒を自刃させた。
討伐は順調に進んでいたが、なぜか浅井軍は姿を見せない。
「長政は来ぬな」
「久政殿達の説得に時間がかかっているのでは?」
作戦自体が順調に進んでいた事もあり、信長は怒っていない。
対朝倉戦においては、浅井家は仕方がないと思っているからだ。
「その内に来るであろう……」
形だけ軍勢を率いて、最後に挨拶だけしてくれればいい。
浅井家に対して信長はそう考えたが、事態は予想外の方に進んでしまう。
突如、陣地に一人の使者が飛び込んできたからだ。
「ご報告の件あり! 浅井久政殿が率いる浅井軍、比叡山の僧兵、旧六角家臣達と共にお味方を挟み撃ちにしようとしております!」
使者は、甲賀郡を有する和田惟政が寄越した者であった。
惟政は、浅井家で当主長政の押し込めが発生し、当主に返り咲いた久政が朝倉家救援のために兵を起こしたという情報を手に入れ、急ぎ信長に使者を送ったのだ。
しかもご丁寧に、旧六角家家臣と比叡山とも同盟を組んでであった。
どうやら久政は、かなり前から水面下で策動していたらしい。
「四国より、三好長治を擁した篠原長房が畿内に上陸すべく兵を進めております!」
続けての報告に、信長はただ頷いた。
朝倉家とて路傍の石ではなく、使者を送り三好家を動かした。
生き残るためには、このくらいはして当然であろうと思ったのだ。
「三好、朝倉、浅井、比叡山か」
どれも、敵に回すと厄介な勢力ばかりである。
天台宗の総本山比叡山が敵に回ったのは、織田家が南近江支配の過程で彼らと揉め事を起こしている状態であったからだ。
全国に荘園を持つ比叡山であるが、南近江にも多くの荘園があり、以前は六角家と揉めていた場所も多かった。
六角家から織田家へと南近江の所有者が移っても、その関係に変化はなかったというわけだ。
「引き揚げだ! サル! 殿を頼むぞ!」
信長は即座に撤退を決め、藤吉郎に殿を任せた。
このまま挟み撃ちになれば、織田軍の敗北は確実だからだ。
「はっ! この木下藤吉郎、大殿のためなら」
「世辞はいい! 生き残れよ!」
信長は一瞬だけ藤吉郎に笑顔を見せると、馬に乗り、わずかな供のみを連れて急ぎ京へと駆け出した。
「朽木谷を通過するのであれば、交渉はお任せを」
さり気なく、従軍していた松永久秀も軍勢の指揮を息子久通に任せて信長に同行する。
「さすがは、久秀殿か」
どのような状況でも生き残る。
久秀の潔さに、光輝はある意味感心してしまう。
「さて、藤吉郎殿のみでは色々と大変でしょう」
「如何にも、某も手伝いましょうぞ」
光輝のみならず、今回の戦で初めて正式に顔を合せた明智光秀も殿への参加を志願した。
鉄砲を多く持つ彼の参戦は嬉しい。
「ならば、三河者も意地を見せましょうぞ」
徳川家康も参戦を表明し、ここに四軍共同での殿役が決まった。
「この中で、一番兵力を持つ新地殿のお考えは如何に?」
織田家主力も京に向けて撤退を開始し、残された四人の内の一人明智光秀が光輝に作戦を尋ねる。
光秀も藤孝と同じでかなりの教養人であったが、常識的で、商人上がりだと思われている光輝を見下さなかった。
苦労人のようで、光輝とも丁寧に接してくれる。
光輝のイメージでは、常識のある有能なおじさんといった感じだ。
「逃げる時は何も考えずに逃げる。ですが、今はその時ではありません。一度、痛打を与えて追撃の勢いを殺ぐべきです」
早速追撃してくるであろう朝倉軍に対し、共同で伏兵を張る作戦が始まった。
「信長を討つのだ!」
逃げた信長を追うべく、朝倉家の先鋒山崎吉家、魚住景固の軍勢が進軍をしていると、突如茂みなどから鉄砲や弓を撃ちかけられる。
「伏兵か!」
新地軍、明智軍の鉄砲が連続して朝倉軍を襲い、多くの兵が倒れた。
「ひるむな! 種子島は撃てる数に限りがあるのだ!」
吉家が混乱する兵を鎮めようとするが、一向に鉄砲の射撃が止まない。
命中率もよく、次々と朝倉軍の兵士達が死傷する。
「バカな! なぜ!」
「種子島に弱点があれば、それを補おうとして当然である」
知的な表情を浮かべながら、光秀は苦心して編成した鉄砲隊に交じって自らも種子島で射撃を行う。
彼は、射撃の名人でもあった。
「銃撃止め!」
長らく続いた射撃が止んで朝倉軍の将兵が安堵していると、今度は木下軍と徳川軍が斬り込んできた。
これにより、朝倉軍の先鋒部隊は完全に崩壊した。
「こら! 逃げるな! 貴様、何者だ?」
「徳川家家臣、本多忠勝!」
慌てて部隊を立て直そうとした山崎吉家であったが、彼は本多忠勝によって討ち取られてしまう。
「残念であるが、今回は首を獲る時間もなし。これにて退くぞ!」
木下軍と徳川軍は、一つも首を獲る事なく目的を達したら素早く退却を開始した。
「クソぉ! 再編が終わったら追撃開始だ! 逃がしてなるものか!」
同僚を討たれて頭に血が昇っている魚住景固の命令で追撃は続くが、定期的に鉄砲を撃ちこまれ、木下軍と徳川軍に斬り込まれて更に犠牲を増やす。
彼らは誰一人首を獲らずに撤退したために付け入る隙もなく、朽木谷方面からの撤退を許してしまった。
「浅井家を背かせ、織田家の越前侵攻は阻止した。だが、織田家に犠牲はほとんどなく、逆にこちらの犠牲は大きい……」
追撃失敗後、冷静になった魚住景固は、朝倉軍の死傷者が三千人以上と甚大なのに対し、織田軍の犠牲者が五百人にも満たないという報告を受け、前途に暗雲が立ち込めてきたのを感じずにはいられなかった。
 




