表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この愛のゆくえ

作者: 光籏 好

愛と愛がぶつかれば摩擦を生じ、それは悲しみを生み…時には憎しみにまで行き着くかもしれない。人は…時に流されて行くもの、その流れに癒されるのも愛だろう

 美与が生まれたのは、滝田と言う家だった。その滝田家は美与が生まれた頃には、駅前繁華街で遊楽と言う食堂を営んでいた。遊楽は美与の祖母、滝田小枝子が開いた食堂だった。小枝子は夫の優三が若死にした為、得意の料理上手を生かして始めた店だった。

 店の名は小枝子の愛した優三の「ユウ」を取って遊楽と名付けた。玄人はだしの料理と気取らぬ小枝子の性格と相俟って多くの客が来た。遊楽の立地も良かった。陸の駅と海の港が徒歩で三分で歩ける距離に有り四国航路連絡船の着く港町尾道だった。時間待ちをする人多く、向島にも大手の造船所が有り日曜祭日など街は活況を呈していた。

 忙しい小枝子は息子の義三を構ってやれず外で遊ばせた。小学校は大宝山千光寺に上る途中に有り小さい頃は店の近くの道路や学校も遊び場だった。

 義三は、思春期の頃から遊び回って不始末を起こしては、小枝子が後始末をした。それだけで済んでいる間はまだよかった。飲み屋に行き喧嘩をして刺された。一命は取り留めたが後遺症を残すという馬鹿な真似までやってのけた。小枝子は、いろいろ悩んだ末に身を固めればおとなしくするのではと思った。


 義三の嫁にと小枝子がこの娘ならと見込んだのが葉子だった。葉子は田舎から遊楽に働きに来て六年になる娘だが、物覚えも良く気も利いて今では小枝子の片腕として欠かせない人間に成長していた。葉子は遊楽で働いていて義三の今までの行状もよく知っている。それも小枝子の狙いの一つだった。

 小枝子にとっては可愛い一人息子だ。なまじ何も知らない娘より葉子のように何もかも知っている娘の方が良いとの思いが小枝子にはあった。小枝子に打診された葉子は、迷い悩んだが義三と一緒になる事を受け入れた。

 葉子と一緒になって義三の遊びも止んだかに見えた。義三は店を手伝うようになり、義三と葉子の間に娘の美与が生まれた。子供好きの義三は美与が可愛かった。小枝子は狙い通りの展開で可愛い孫娘の誕生を喜んだ。そしてこれで義三も落ち着いてくれると思った。


 小枝子の願いと葉子の信頼を、義三は裏切った。葉子は美与が可愛く、美与の為にもと義三に再三にわたって義三に泣いて遊びを辞めるようにと頼んだが、その時だけ「分かった」と言うだけだった。

 葉子は義三を見限り「美与を連れて出て行く」と言い小枝子の引き止めたが、もう聞かなかった。美与を連れて出る事に小枝子は反対した。葉子は美与を手放したくなかった。小枝子が「出て行っても美与に会いたければ会いに来ればいい」と言ったので、これから自立して自分一人で美与を育てて行く明るい展望はない。ならば葉子自身が不安の中で育てるよりも美与を愛してくれる父親とお婆ちゃんの居る所で経済的にも心配ない遊楽に置いて当面自分だけでて行くのも選択肢の一つだと思った。その方が美与の為になると信じて葉子は遊楽を出て行く決心をした。


 小枝子の時間の許す限り美与は小枝子の背中おんぶされて店の客にあやされながら育った。美与は誰にも愛相のいい小枝子自慢の娘になった。小枝子は商売第一で他の子のように美与を外に連れて行ってやる事が出来ないのが悩みの種だった。

 その悩みを葉子が解消してくれ。葉子は美与を外に連れ出し遊園地や動物園、その他にも子供の喜びそうな所へ連れて行ってくれた。

 願ったり叶ったりで小枝子は喜んだ。だが幼い美与には、母の葉子が来て楽しい一時を過ごして、また何所かに帰ってしまう。何故すぐに居なくなるのか分からない。美与は愚図って小枝子や義三を困らせた。その都度、小枝子と義三それに葉子の三人に諭されながら育った。美与は皆に愛されている事を実感しつつ自分の境遇はこんなものかと思い、それが自然になった。


 店も順調、家庭も平穏な日々は長くは続かなかった。以前から操業を止めていた紡績工場跡地に大型のショッピングセンターが出来、自動車の普及もあって客の流れが変わって行った。

 世の中が変わりつつあるのは感じていたが、よもや、あるまいと思っていた大手造船所が撤退した。瀬戸内では名の知れたの観光地とは言え衰退して行く、街の旧来の繁華街は客足が減り廃業を余儀なくされる店もポツポツ出てきた。遊楽もその例外ではなかった。


 そんな中で美与は生き生きとした地元尾道の高校に通う高校生に成長していた。両親は離婚したが小枝子、義三それに葉子に見守られながら素直に思春期を迎えていた。高校二年の夏休み、美与は同級生で親友の小林友恵達、数人と一緒に海水浴に行った。そこで二年先輩で今は大学生の篠宮隆司と柏木壮太の二人と出会った。二人とは高校の一年だけ同じ学校で過ごし、とりあえず顔だけは知っていると言う程度だった。声を掛けられるまでは人の多い中で気付かなかった。「やぁ…来ていたの」言われて振り向くと隆司と壮太が一緒に居た。

 美与は隆司から友恵と壮太、四人で又会いたいと言われた。美与は友恵と相談して会う事を約束した。美与は隆司と壮太の両方から熱い視線を感じていた。海水浴から帰っても頭の中から離れなかった。感じのいい二人の先輩から視線を注がれ美与はその夜…気分が良かった。二人はシュノーケルのクラブに入っているとかで山陰や四国に行っているとも話していた。海の中はどんなんだろうかと思いながら、深海に沈むように眠りの中に美与は吸い込まれて行った。


 壮太は備北の専業農家の柏木家に生まれた一人息子だった。当然生まれた時から両親の純郎と園子は息子の壮太に後を継がす気で計画を立て農業を営んでいた。壮太は高校は街の高校に行くと宣言していた。それには両親も、大学に入れる事を考えていたから異存はなかった。ただ壮太は気が弱く街の子とうまくやって行けるのか心配だった。

 壮太が高校に通う為に純郎は、弟で三原に住んでいる柏木辰夫、康子夫婦に頼んで預かってもらうようにした。壮太は辰夫康子夫婦の世話になり高校に通う事になった。その高校で知り合い何となく気が合ったのが隆司だつた。三年生に進級した時、美与と友恵が入ってきたのだ。


 海水浴に行って声を掛けられて以来、美与と友恵、壮太と隆司は面白そうなところを探して四人一緒に遊びに行った。そして色々これからの進路について話した。美与と友恵はお互い看護師になろうと決め入れる所を探していた。隆司は勉強も出来、京都の有名大学に入って司法試験を目指すと言って目は輝いていた。

 一方壮太は隆司の実家、篠宮家のある福山に出来たばかりの大学に入り叔父の家を出てワンルームマンションを借りて住んだ。隆司が休みに実家に帰ってきた時に四人は揃って集まった。壮太以外の三人はそれぞれ目的を持ってそれに向かって進んでいた。一人取り残されている感じの壮太は、いつも覇気が無く四人の中で元気がないのが、何となく美与は気になった。

 その美与の気持ちを見たのか壮太は美与に二人で会いたいと言って来た。壮太は目的のない一人暮らしの孤独さに耐えられなくなっていたのだ。会って縋りつくような弱々しい壮太の眼に接した美与が「元気出しなさいよ、それで隆司と良く親友で居られるね」そう言うと「あいつとは高校で知り合って…俺、山育ちで海を知らないと言った。そしたら隆司がじゃ一緒に行こうと言ってくれて、それから何故か仲良くなって…と言うか仲良くしてくれて」と言った。


 隆司の帰ってくる休みに四人は相変わらず会っていたが、美与と壮太は二人きりで会う事が多くなった。壮太は家を継がなければならないのが気が重い、このまま美与が傍に居てくれたら街で暮らしたいと言った。そんな壮太を美与の気性では放っておけなかった。美与は壮太の言う事をよく聞いて励ましてやった。そうこうしている内に恋心に変わった。隆司や友恵には何も言わなかったが、二人はそれぞれに気付いていた。隆司にはショックだった。以後隆司は二人に顔を合わせるのが辛くて足が遠のいた。

 壮太はハウス栽培や稲作にと手広く農業をしている柏木家に連れて行き美与を両親の純郎と園子に「これから看護師になる為に勉強している滝田美与さん。俺の悩みを良く聞いてくれ、いつも俺を力づけてくれる女の子だよ」と紹介した。純郎と園子は戸惑いを見せながらも一応歓迎の顔は作って「壮太が、いつもお世話になっています」園子は笑顔でそう言った。純郎が続いて「美与さんの実家は何をなさっているのかな」と聞いた。

 美与は連れてこられた時の緊張は取れ「ハイ遊楽と言う食堂です」落ち着いて答えた。すると園子が「ああ…あの遊楽」と言った。美与は「ご存知ですか」ととっさに聞いた。「ええ…だいぶん昔だけど行った事かある。ねぇお父さん」園子はそう言って純郎を見た。純郎は渋い顔で頷いただけだった。


 美与は地元の高校を卒業した。もう隆盛を極めた遊楽の面影はなく古ぼけた一軒の食堂にすぎなかった。そんな家業を美与に継がせる気は、小枝子にも義三にもさらさらなかった。美与が高校に入って看護師になりたいと言った時、看護師になれるならそれに越したことはないと小枝子も義三も応援した。高校を出て看護学校に行く為に、美与は初めて遊楽の家を離れた。

 電車で二時間ほど離れた呉に看護学校と実習の病院があった。小枝子は勉強が出来成績の良かった自慢の孫、美与が看護学校に行く為に遊楽を離れると言った時は「美与の選んだ道だから」と喜んで送り出してやる事にした。小枝子は自分の背中で大きくなった孫の旅立ちに、嬉しいやら寂しいやらで気持ちは複雑だった。

 美与が遊楽から離れるのを期に、小枝子と義三は相談して建物がもうボロボロになっている遊楽をそのままにする事にした。そして手頃な家の物件を当たる事にした。小枝子にとって思い入れのある建物だがこれも時の流れと割り切った。


 新しい滝田家は、桜並木の続いている川沿いに有った。その家を買った直後、小枝子は自分の身体と相談して養老院の愛輪壮に入所の申し込みをした。美与も義三も養老院なんて決めるのはまだ早いと言ったが小枝子は「お前達に老後は見てもらわない。早く申し込みをしておかなければ入りたくても入れなくなる」そう言って小枝子らしくさっさと決めた。

 美与は桜の花が好きだった。毎年四月の初め川沿いに満開の桜が何キロも続くその様は人々の心を躍らせた。美与が看護師になって帰ってくる頃には、きっと桜も満開に咲いて迎えてくれる筈であった。

 美与の行く看護学校の実習病院にも桜の木が有り春にはちゃんと花を咲かせた。美与はその桜の花を見ては、応援してくれる滝田のお婆ちゃんの小枝子や父義三、二人の顔を思い出しては美与は自分の励みにした。そして難しい勉強にも友恵や他の学生達と共に頑張った。


 美与と友恵やその他の学生子六人と一緒に休みには大型ショッピングセンターに出掛け羽を伸ばした。自衛隊の駐屯地もあり、異性との交わりも盛んだった。美与も友恵もその中に入ってい遊びに行った。その中に友恵の運命の人は居た。

 美与は友恵が皆と行動せず単独行動が多くなっので「友ちゃん、怪しい…いい人が出来たんでしょ」そう美与が聞くと、友恵は頷いた。「誰、ねえ誰よ…教えなさいよぉー私にだけ…ね」「幸輔」とポツリ美与の問いに友恵はうつむいて答えた。

 美与と壮太はJRの電車で二時間足らずの中途半端な距離の恋愛になった。それでも会おうと思えば二人の時間は充分に作れた。月に一回程度だったが日曜日には、お互い心躍らせ電車に乗って美与と壮太の住む駅から中間の公園まで会いに行くのだった。近くに居た時とは違い会った時の時間がとても大事に思えた。誰も知らない海辺の公園で二人肩を並べ綺麗な夕日を眺めて美与は門限ぎりぎり看護学校の寮に帰る事もあった。


 友恵が幸輔に隆司と壮太がシュノーケルをしていると言った。それを知った幸輔が沖縄の珊瑚は綺麗で潜るのなら絶対一度は行くべきだと友恵に話した。話を聞いた友恵は隆司に話した。隆司にとって沖縄の珊瑚の海で潜るのはシュノーケルを始めて以来の夢だった。夢中になって壮太と話、夏休みに幸輔の都合とすり合わせ沖縄に行く事になった。友恵と美与も一緒に行くと聞いて隆司の気持ちは揺れた。 しかし沖縄の海へ行けるチャンスはもうないかもしれないと思って行きたい気持ちを抑えられず誘いにのった。五人は真栄田岬に着き海の綺麗さに歓声をあげた。人の多さはある程度は予想していた。そして来る前に隆司の揺れた気持ちどうり、隆司独り浮いてしまった。こんな思いは二度としたくないと思った。そんな隆司を救ってくれたのは綺麗な珊瑚の海だった。海に潜っている時だけは、すべてを忘れさせてくれた。沖縄を堪能し楽しさに浮いている四人を尻目に一人飛行機の中で眠ったふりをした隆司だった。その後しばらく隆司は、四人の前に姿を現さなかった。


 沖縄から帰ってからは、美与や友恵には色んなカリキュラムが待っていた。病院での実習、学校での勉強、こなしながら時に萎えそうになる気持ちを励まし合った。また時には競い合いながら、二人とも無事に戴帽式を迎えナースキャップをかぶって喜びあった。ナースキャップをかぶるまで友恵は辛くて幸輔の前で泣いた事もあり、そんな友恵が愛おしい幸輔も自分の事のように喜んでくれた。そして今まで実習していた病院に就職を決めて、幸輔の居るこの呉に残る事にした。

 一方美与は壮太の待つ福山の病院に就職を決め壮太と一緒に暮らそうと、いったん小枝子と義三の待つ家に帰る事に決めた。その時、壮太は親の反対を押し切って田舎には帰らず福山で就職して、秘かに美与を待っていてくれたのだった。


 美与は壮太と話し合った。まず滝田の小枝子と義三に二人一緒に暮らす事を分かってほしいと、美与は壮太を小枝子と義三に紹介した。壮太は小枝子と義三の前で「結婚をしたいので美与さんと一緒に暮らす事を許して下さい」と壮太としては一世一代の勇気を出して言った。しかし小枝子と義三は看護師として働きだしたばかりの美与にいきなり紹介されて「美与と一緒に暮らしたい」と言われても答えようがなかった。

 一応話を聞いて壮太が専業農家の一人息子でいずれ家を継がなければならない立場だと分かって「美与に農業は出来ない」と反対した。小枝子と義三にして見れば、せっかく今まで待ってこれから遊楽と言う思い入れの地を離れた美与の好きな桜の見える土地で三人暮らしが出来ると楽しみにして来たのに帰って来たばかりですぐに出て行かれる事に抵抗もあった。

 それに一度、美与は柏木の家に行って壮太の両親には紹介済みだと言った。それを「これから説得する」と言う事は柏木の両親も反対だと言う事になる。そんな話に賛成するわけにはゆかなかった。


 美与は大好きなお婆ちゃんにだけは分かってほしかった。こう言う時に母の葉子なら、どう言うだろうか。葉子なら分かってくれて、母葉子の説得なら小枝子も分かってくれるのではないかと思った。葉子を頼みの綱に葉子の住む山田家のある団地を訪ねた。

 今まで葉子と会う時は、美与のケータイに葉子の方から場所を指定して会っていた。そして会った時には、美与の話を楽しむように優しい笑顔でいつも聞いてくれた。美与の方から訪ねて行くのは初めてだった。美与はいつもの笑顔の母の顔を思い描いていた。

 番地を頼りに山田と言う表札に辿り着いた。その山田家のチャイムを鳴らし出てきたのは母の葉子だった。美与はいつもの笑顔で「お母さん」と言った。葉子にはいつもの笑顔はない、笑顔どころか美与の顔を見て驚いてオドオドと家の中を振り返った。そして美与を家の前の道路まで連れ出した。

 

 母葉子の顔は、いつもの顔ではない。落ち着かない母葉子の態度に、美与はすべてを悟った。「来ちゃ、いけなかったんだね」と美与が言った。「そう言う訳じゃないけど…やっぱりね。今主人も居るし、受験を控えて勉強している息子もしているから」と葉子は困った表情をした。美与は笑顔を作って「ごめんね…母さん」と言うのが精一杯だった。

 美与はくるりと向きを変えて歩きだした。「また、こちらから連絡するから」母葉子の声を幽かに聞きながら、もう振り向かなかった。込み上げてくるものを振り切るように今来た道を戻って行った。葉子はもう滝田の家とは関係ない人であり、山田家の主婦なのだ。頭では分かっていたけれど今現実を見せ付けられ、何故ここに来たんだろう。と美与は後悔の念でいっぱいだった。

 そしてほとんど散った桜並木の川沿いにある滝田の家に帰った。桜の花びらが川土手や広くない道路に散乱し、川面いっぱい浮いて水の流れにゆっくり流されていた。


 小枝子は食堂を辞めて、めっきり足腰が弱り愛輪壮への順番を待っている。義三の方も持病も一進一退で二人とも病院通いをしながら暮らしていた。美与は家に帰った「ただいま」と言って、一寸小枝子を見ただけで階段を駆け上がり自分の部屋に入った。どうしても壮太と一緒に暮らしたかった。壮太と思うように会えず四年間も待ったのだ。二人の給料を合わせれば食べて行ける。

 美与は小枝子と義三の反対を押し切り、とりあえず看護学校の寮から送ったばかりの荷物の中から必要なものを持って壮太のマンションに行った。壮太が両親に「今は話しても駄目だ」と言った。結局柏木の両親純郎と園子の了解を得ずに、壮太の手狭なマンションで同棲を始めた。美与も壮太もこの生活を幾度夢見た事だろうか、人から何と言われようと夢が叶い正夢になった。

 壮太は昼間の仕事で美与は三交代で夜勤もあり、すれ違いの生活だったけれど美与は幸せそのものだった。二人の休日が重なった時には、遊びかてら仲良く出掛けて不動産屋が有れば、そこに入って今より少し広いマンションを物色した。


 自分達の収入と見合うマンションを見つけて引っ越した。そのマンションは広々と子供が出来ても充分の広さ、壮太も今までになく明るくなって二人で一緒に過ごしたいと美与を送り迎えするほどだった。しかしそんな幸せばかりの月日は長くは続かなかった。

 壮太は時々実家の柏木の農繁期には帰って手伝いながら、マンションを変わった事も美与と一緒に暮らしている事ものらりくらりと誤魔化していた。そんな誤魔化しが長く続いて純郎や園子の耳に入らない訳はなかった。

 柏木家の知り合いに街で二人の所を見られていた。その知り合い木崎かね子が柏木家に行って「壮ちゃん、大きなマンションに住んどるんじゃねー、綺麗な女の人を連れて…お嫁さんか、そうか、そうか良かったの―」かね子は一人で言って一人で納得している。そう言われて純郎と園子は作り笑いを浮かべ「ええ、まあ」と言って顔を見合わせるのが精一杯だった。かね子が帰って純郎は血相を変えた。


 純郎は「園子…すぐに壮太に電話で確かめて見ろ」おどおどして園子は電話した。壮太は仕事を終わってマンションに帰っていた。美与は仕事で留守の時間帯だった。壮太が美与の作り置きの夕食をレンジで温めようとしている所へケータイが鳴った。壮太がケータイに出ると園子の声で「もしもし…壮ちゃん」そう聞いた。壮太は「ああ、俺」とだけ答えた。園子は「今、木浦の小母ちゃんが来て…大きなマンションへ女の人と入った。そう聞いたけど、どう言う事」そう聞かれた。いつかは言わなければならないと思っていたので壮太は「あぁ前のマンションが手狭になったから変わった」と答えた。

 「それと一緒に居た女の人言うのは美与さんね」と聞いてきたので「そう…もう美与と一緒に住んでいる」聞いた園子は溜息をついた。その為息は壮太にも聞こえ「どうして…どうしてこれから長い一生の大事なことを、親にも相談せずに黙って決めていいと思うとるんね」と園子は呆れて荒い口調になっている。「俺もう子供じゃないし…相談しても同じ事の繰り返し、賛成してくれるんなら別だけど」と壮太は言った。


 純郎が「変われ」というのが壮太に聞こえて純郎が出た。「壮太…お母さんが言うように、これはお前達二人だけの問題じゃない。柏木家と滝田家の両家にかかわる事だ。滝田のお父さんやお婆さんは賛成したのか…快く賛成なんかしてない筈だ。そんな状態で、これから先の事も考えずに若さだけで突っ走ってどうする。お前はこの柏木家を継ぐ気はないのか」親父の太い声が壮太の耳に入ってきた。

 壮太は「すぐに、そこへ持って行く。俺が継がなきゃならない事は分かっている。だから忙しい時は帰っているじゃないか」そう言い返した。「時々帰って来て手伝いの真似ごとをしただけで出来るほど甘くはない、それに楠見の珠美ちゃんも農学校出て家を手伝っている。珠美ちゃんが農学校に入った時、楠見家にはそれとなく壮太の嫁にと打診してある」と純郎は言った。壮太は憮然として「そっちこそ俺の事を独断で勝手に決めるな。近々帰るわ」そう言ってケータイを切った。

 喧嘩腰でケータイは切ったが父の純郎の言う通り柏木の実家の仕事はそんなに甘いものではない、それは壮太もよく知っていた。


 壮太に柏木の家を継がせる為に純郎と園子には、どうしても壮太と一緒にしたい娘が居た。楠見珠美と言って、年は壮太と五つ違いで壮太は珠美が幼い時から知っていた。楠見家は柏木家とほぼ同じぐらいの規模の専業農家で、珠美は農業漬けの環境に育ち自ら農業が好きだと言って農業高校に入った今時数少ない娘だった。

 そんな珠美を純郎と園子は見染めたのだ。楠見家には健生という立派な跡取りが居て、健生は大学を出て家に帰り地元の農協に勤めていた。純郎と園子が壮太に期待していた理想だった。だか壮太は街の娘、美与が好きになって柏木の家まで連れてきた。その時はまだ美与も高校生だったので、まあ若者だから彼女の一人やそこら居るだろうと軽く考えていた。

 ここまで続いて親の自分達に黙って同棲までするとは「園子…滝田の家に行って向こうの考えを聞いてこよう」と純郎が言った。園子も頷いた。


 美与は幸せな時を過ごしていた。美与の父義三と小枝子は、美与が幸せになれるのなら…と壮太と一緒に暮らす事を、いずれ結婚する事を前提に容認していた。兼ねて友恵と幸輔の婚約を聞いていたが、友恵からいよいよ結婚式の招待状が届いた。

 美与は「友恵も晴れて津久井友恵になるんだ」と友恵の結婚式を我が事のように喜んだ。壮太は我が事のように喜ぶ美与が、何となく自分にプレッシャーを掛けられているような気分になって見ていた。しかし壮太は美与が一番の仲好、友恵の結婚を喜ぶのは当然ではないかと思い直して美与に「何時だったっけ…もう休みは確保しているんだろ」そう言った。

 美与は「当然よ、結婚の日取りが決まったと聞いて直ぐに休暇願を出したわ。壮太も一緒にって言っていたけど、あなたの方はどうなの」と壮太に聞いた。屈託のない美与の問いに壮太は「俺は遠慮しとくよ。美与が一人で行ったらいい」そう答えた。「そう…残念がるだろうなー」と美与が呟いた。


 美与は何の悪気もなく何気なく呟いた言葉だが、それを聞いた壮太は心の底のどこかで「少しは俺の立場も考えてくれ」と呟いていた。友恵と幸輔は皆に祝福されて結婚すると言う、その席に…同棲はしているものの自分の親だけに反対され明るい見通しなど何一つないのだ、しかも付き合いの期間は美与と壮太の方か長いのだ。

 人は、そんな事は関係ないと言うかもしれない。壮太は「自分は素直じゃないのかな」とも思う…しかし自分が友恵と幸輔の幸せな結婚式の場に居てはいけないような気がした。美与はいい同じ学校の最も仲の良い友達だったのだから、出席しない方がおかしいからだ。

 友恵幸輔は友恵の実家のある滝田の家に近い場所の式場で式を挙げると言う、美与は我が家に近くて衣装を整えるにしても便利だと喜んだ。壮太は美与が嬉しそうに言えば言うほど落ち着かなかった。それでも結婚式へは、笑顔で送り出した。


 美与は成人式以来の着物を着て精一杯めかして、友恵の結婚式場へ行った。披露宴になって同じ席に篠宮隆司が居た。美与が壮太を選んで隆司は美与から離れて行った。久しぶりに会った隆司は「美与、美与はそんなに綺麗だったかなー」と言った。美与は「まあ、失礼な」と笑顔で返した。

 「壮太と一緒に暮らしているんだって」そう言った。美与は「うん」と言って頷いた。「そうか、幸せにな」と隆司は満面の笑顔で言ってくれた。「隆司君、弁護士事務所に勤めながら司法試験目指しているんだって」美与も噂に聞いた話をした。隆司は「シィー」と言って「美与ちゃん声が大きい…俺一発で受かろうと思っていたんだけどね世の中そんなに甘くない。ハハハ」小声で笑った。

 他にも懐かしい顔が揃っていて楽しい結婚式と披露宴が住み帰ってきた。美与は「良かったよ。友恵は幸せそうで、幸せいっぱいって感じだった。そう言って自分も幸せそうな顔をしている美与を愛おしいと思う反面、壮太は美与も友恵のようにしてやりたいと思った。


 美与が思い出したように言う「あっ、そうだ隆司さんも来てたよ。あなたの事も言ったていた」の言葉に壮太は「なんて」と内心穏やかならぬものを感じていた。しかし美与が気付く筈もなく「あなたと一緒に暮らしている事を知っていた。幸せそうだなって言うから、もちろん幸せよって答えた」何のけれんみもなく笑顔で話す美与に壮太は内心、お前は良いよ。何も考えずに、そう思った。

 美与は小枝子と義三が壮太と一緒になる事を認めてくれているので壮太ほど深刻ではなかった。そのぶん何の屈託もなく振る舞えた。だから美与は、このまま壮太と暮らせれば、それだけで今は何の不満もなく満足だった。


 柏木家から滝田家に、純郎と園子が夫婦揃ってやってきた。そして小枝子と義三と向き合って純郎が口火を切った。「お宅の大事な娘さんと、うちの壮太が一緒に暮らしているようだが、お父さんやお婆さんは、どうお考えなのか」と言うと義三は「ふつつかな娘だが、娘は可愛い。その娘がお宅の壮太さんと一緒になりたいと言う、最初は少し早いと思ったりもしたが今まで見ていると仲良くやっているようです。出来る事なら普通のお譲さんと同じようにしてやりたいと思うとります」傍で小枝子も頷きながら聞いていた。

 純郎と園子が顔を見合わせ「それじゃー、壮太と美与さんを一緒に」と園子が言う、純郎がその後を取って「そりゃー困る。壮太は我が家の大事な跡取りですぞ、美与さんは一度お会いしたが、とてもいい娘さんだ。だが農業の農の字も知らぬ街育ちのお譲さんには柏木家の嫁は無理です。壮太には私達が言い含めて別れさせる。ついては、お宅の美与さんにも別れるように言って頂きたい」そう言った。

 小枝子が「柏木さん…貴方がたの気持ちもよく分かる。美与が大変な農業の作業が出来るか出来ないかは、美与次第だと思います。我々にとっての六、七年は短い期間かもしれなない、しかし若い壮太さんや美与にとっては六、七年は長い期間だと思いませせんか。その長い時間を愛し合い親の反対にもめげず一緒になりたいと言っている。ここは若い二人を温かく見守ってやってもらえませんか」と言った。小枝子は美与が可愛かった。その美与を愛してくれる壮太も可愛かった。

 純郎は黙って聞いていたが「お婆さんの言われる事も分からんでもないです」そう言った。義三が「それなら」と言いかけた言葉を遮って純郎は「しかし、これだけは…今はっきり言っときますよ。このまま続けば美与さんが困る事になります」それ以降話は進まず純郎と園子は帰って行った。


 美与は病院の慣習にも慣れ三年が過ぎた。壮太は純郎と園子に美与と別れるように、強硬に迫られてた。楠見家の珠美が高校を卒業して年頃になっていたからである。壮太の休日は家の仕事を手伝いに帰っていた。その都度美与と別れるように言われ、うんざりするのを通り越していた。美与は壮太の立場を考えて婚姻を迫るでもなく、一日一日が幸せだからそれでいいじゃないか…そう思いながら過ごしていた。

 いつものように壮太が待っている所へ美与が帰ってきた。美与は落ち着いて壮太と向き合った。「あなた私できたのよ」と言うと壮太は「何が」と言った。「何がって、赤ちゃんよ」そう美与が言うと「本当か」壮太は言う「嘘言ってどうするの、こんな大事な事」美与は笑顔だった。壮太は「そうか出来たか」と言った。美与はすかさず「嬉しくないの」わざと拗ねて頬を膨らませた。膨らませた頬を壮太が指で突っついて「嬉しくない筈ないだろ」笑顔でそう言った。

 壮太は初孫の誕生となれば、さすがに両親も考え直してくれるのではと思った。そう思いながらも、あの強硬さを考えれば一抹の不安と不信はぬぐえなかった。それは美与の妊娠を聞いた小枝子と義三も同じだった。


 小枝子と義三は今までも何回か二人が一緒になる事を認めてくれるように純郎や園子に話した。いずれも柏木夫婦の態度は硬く、つけいる隙はなかった。小枝子と義三は美与が妊娠したと聞いて柏木夫婦に、改めて説得を試みた。しかし美与に壮太を諦めるように逆に説得してきた。そればかりか美与が妊娠した事を知った純郎が一人で滝田家にやって来て「これで中絶してほしい」と札束を二つ義三と小枝子の前に置いた。

 札束を置いて涼しい顔をしている純郎に義三は手か出そうになったが、美与の顔が頭に浮かんでかろうじて思いとどまった。義三も小枝子も腸が煮えくりかえるほど怒りに震えた。義三は純郎の方に札束を突き返しながら「何故そこまでして二人の仲を引き裂かなければならないのか」と問い質した。純郎は「人にはそれぞれ住む世界が有る。美与さんは、もう仕事を持った街の人だ。これ以上壮太にかかわって不幸になってはいけない。壮太には、いずれ田舎の生活が待っている、それに似合いの娘も壮太の帰りを待っている」そう言い放った。

 「それは間違っている、今まで二人が育んできた愛の結晶まで抹殺しようとなさっている。今一番大事なのは二人の気持ちを大切にしてやることだと思うが」と義三は顔を真っ赤にして言った。

 純郎は冷静に「私だってできる事ならそうしてやりたい。しかし御父さん御婆さん、人の気持ちと言うものは時と共に変わるもの。長い間、生きてこられた御二人なら御分かりの筈でしょう。これから先に、双方が困るような妥協の結婚は不幸なんです」


 柏木家との話し合いは、これまでだと義三も小枝子も思った。小枝子は「でも柏木さん…貴方が今こに来られている事を、壮太さんと美与は知っているんですか」声を振り絞って聞いた。純郎は「いいや私の一存できました。まあ壮太には分からせます、田舎で娘も待っている事だし先ほどお話したように時が経てば人の心は変わる」と平然と言った。

 「それはそうでしょうよ。しかし今は壮太さんと美与は一緒に暮らしている。将来を夢見て子供が出来ても大丈夫なようなマンションまで借りて…そこで美与は妊娠した。普通の親なら、今までの経緯はともあれ息子も親父になるか。そう思って喜ばないまでも、仕方なく許してやろうか。それが親と言うもんじゃないですか」義三は純郎の顔を見ながら続けた「柏木さん…二人を、このままそっと見守ってやってはもらえまいか…この通りだ」そう言って義三は座っていたソファ―から降りた。降りて美与可愛さの一念がカーペットの上に土下座した。

 「私どもの農家の仕事というものが、どんなものかお分かり頂けないようですなー」と純郎は義三を冷やかに見ながら立ちあがった。義三は慌ててテーブルの上の札束を取って「これは持って帰って下さい」と首を横に振って純郎に突き返した。純郎はそれを受け取って小さいカバンにしまいながら「そうですか、美与さんが農業をする気があるなら…それも良しとしますか」と言って帰って行った。

 義三は純郎を玄関まで見送って、ソファーに崩れるように座り頭を抱え込んだ。それを見ていた小枝子の眼には涙がいっぱいで頬に一筋流れていた。

 

 柏木の両親が反対している事は、美与にも分かっていた。しかしここまで強硬だとは知らなかった。壮太は柏木家周辺も開発が進んでいるので将来は美与の働ける所も出来るのではないかと楽観的な考えでいた。

 幸いまだ純郎も園子も元気なので、もう少し余裕はあるだろうと思っていた。いくら強硬に反対していても壮太の親だ孫の顔を見れば気持ちも変わるに違いないと信じて疑わなかった。壮太は美与が妊娠したので三週間ほど休んだ。その間色々気を使ってくれた。そんな壮太のいたわりに美与は壮太と同じように両親もきっと分かってくれると思っていた。

 美与が仕事に行きながら様子を見ていた。仕事から帰ってきた美与が「あなた…明日は平日だけど休みでしょ、明日私と私達の赤ちゃん見に一緒に病院に行かない」と言った。「見られるのか」壮太は、美与の顔を見た。「うん、男の子か女の子かも分かるの。五か月だから…まだ小さい胎児だけどね」美与は嬉しそうにそう言った。「本当に分かるのか」壮太は美与にもう一度確かめ美与も頷いた。「行ってみようかなー、うん、行ってみよう」そう言って壮太は美与の肩を抱いた。


 翌日、壮太と美与は一緒に病院に行った。超音波エコーに映った子供は当たり前の話だが雑誌やテレビなどで見た事のある恰好をしていた。壮太には見ても男か女かハッキリしなかった。医師は「男の子か女の子か知りたいですか」と聞いてきた。壮太か躊躇しているのを見て「今知りたいですか、それとも生まれてからの楽しみにしますか」医師はニコニコしながらそう言った。

 壮太は「これで分かるんですか。どちらでもいいですから…やはり早く知りたいです」と言うと医師は「そうですか…女の子ですよ」そう教えてくれた。壮太の不思議そうな顔が笑顔に変わり「女の子」と言った。一緒に居た美与は安心したように満面の笑顔になっていた。

 産科の待合に出て壮太は美与の、お腹に手を当てた。「まだ動かないの」と言うと「もう少しよ」美与は嬉しそうに答えた。そして診察を終え壮太は待合ロビーに戻った。そこにたまたま病室から出て来ていた帰省中に足を骨折して一週間前に緊急入院した篠宮隆司が車椅子で通りかかった。


 壮太が気付いて隆司の方に行く、隆司も気付いて「やぁ」と手を挙げて言った。壮太は驚きの表情で「やぁ…じゃないだろう、どうした…その格好…」「うん、一寸ミスっちゃって様ぁねえや」と隆司は苦笑した。壮太は「お前らしくないなー、何をやっていたか知らんが災難だったなー」と言った。隆司は「お恥ずかしい」と言って頭をかいた。

 壮太が「それで、いつ帰ってきた」と聞いた。「十日前かな、家の用事で」隆司はそう答えた。美与も支払いを終え二人の近くに来た。その美与に「退院は一ヶ月ぐらいだろ、なぁ美与ちゃん」と隆司は聞いた。「さぁー、どうだろ…良い子にしてなきゃ…まだ掛かるかもよー。それに退院してもすぐに仕事は無理よ」美与はいたずらっぽく言う。それを受けて壮太は「そうか、そりゃー大変だなー」と言った。

 「まぁ首にはしないだろうから、ゆっくり休養するよ。それより、そっちこそ二人揃ってどうしたんだ」と壮太を見て美与を見た。美与が恥ずかしそうに「できちゃったの」隆司は「本当か」と言って腰を浮かせたとたん「痛てて」顔をしかめる。「おい大丈夫か」と壮太が慌てた。「大丈夫だ。良かったなー壮太、おめでとう」痛みをこらえながら二人を祝福した。壮太は「まぁな」そう言って照れた。


 壮太と美与はマンションに帰ってきたが、壮太の様子がおかしいのに美与は気付いていた。美与は何が原因だろうと考えるけれども思い当たらない。二人の子供に初めて会いに行ったのだから喜びこそすれ機嫌を損ねる理由は見当たらなかった。

 壮太が重い口を開いた。「隆司の事、何で黙ってた」「なぁーんだ、その事」と美与は原因が分かって安堵したように言った。しかし壮太にはその言い方が、また気に入らなかった。「隆司は高校で知り合って以来唯一俺の親友だった。美与お前もよく知ってるじゃないか、美与の働いている病院に隆司が入院している事を俺は知らなかった。俺に一言、言ってくれていたら恥をかかずに済んだのに…」

 そんなに大げさな事ではあるまい、美与はそう思ったが「ごめんなさい、あなたに恥をかかせてしまって、これから気をつけます。ごめん機嫌を直して…ね」そう謝った。壮太は口を尖らせ「分かればいいよ」と機嫌を直した。

 翌朝からは通常の生活に戻った。そして美与のお腹もだんだん出てきた。美与のお腹の中の娘は元気に動いているのか分かるようになってきた。壮太はしばしば美与野お腹に触れ「あっ、また動いた」と嬉しそうな笑顔で言った。


 川沿いの桜並木に有る滝田の家では義三も小枝子も、美与の可愛さ一念で純郎に土下座までした屈辱は忘れられなかった。あの時の行為が柏木家の純郎や園子の考えならば、例え美与がいかように我慢して使えても、旨く行く筈がなく柏木家の近くにさえ住まわす事は出来ないと思った。

 壮太の気持ちを確かめて今居るマンションが不便であるならば、近くの団地に一戸建てでも買えば援助してやろうと考えていた。それにしても純郎が来て以来、柏木家から美与の所に行った形跡もなく何の音沙汰もないのが不気味だった。義三と小枝子は可愛い美与と孫を守らねばと色々心砕いていた。

 美与は目立ちだしたお腹を突きだして働いていた。隆司も退院してリハビリも終え元の職場に帰ると言って美与の所に挨拶に来た。美与が「どう順調に回復てる」そう聞くと隆司は「うん、まあね。それより美与の方も順調そうだね、壮太も喜んでいるだろう」そう言った。「うん、色々心配してくれてる」美与は満面の笑みだった「良かったね美与…じゃ」と隆司も笑顔で遠い京都に帰って行った。

 臨月が近づき美与は産休に入った。壮太は「近頃は夫も出産に立ち会うって言っていたなー」ポツンと言う「そうだよ」と美与が答えると「俺って資格があるのかなー」と言うから「あなたは立派な私の夫よ、いや夫以上の存在…立ち会って」と美与は言った。だが壮太は結局外で待って美与は予定通り女の子を出産した。


 産後の美与は川沿いの新緑になった桜並木の滝田の家に帰った。滝田の家が始まって以来の大騒ぎになった。小枝子も体は動かなかったが口だけは良く動いた「桜の木には毛虫が多いから」などと言って「網戸をしっかり閉めるように」義三に命令して義三もはじめのうちは聞いていたが途中から面倒臭くなって一人ブツブツ言っていた。美与はそんな二人を微笑ましく見ていた。

 壮太は美与の退院後、仕事帰りに寄って夕飯を食べて帰る日が続いた。義三と小枝子は壮太を美与の娘婿として歓待した。赤子の名前も優しい花の意味で優花と壮太が付けた。これには小枝子が喜んだ小枝子の夫優三の優の字が入ったからである。壮太には全くそんな気はなかったが小枝子が余りにも喜んでくれたので壮太自身も何となく嬉しくなった。義三は義三で台所で腕をふるい婿殿をもてなした。

 半月足らずで毎日来ていた壮太は一日二日と滝田の家に来なかった。ゴールデンウイークに入って壮太は柏木の家に田植えの為に帰ったのだった。美与は毎年の事だからと、別段気にはならなかった。それより今は優花の事で頭がいっぱいだった。壮太が柏木家に帰ったと聞いて義三と小枝子は一瞬凍りつつくような戦慄が走った。札束と土下座をした時の純郎を思い出したからである。


 壮太は田植えに帰っている間、純郎と園子は珠美に手伝いに来るように頼んでいた。表向きは楠見家の田植えが早く終わったからという事だった。壮太が田植機に乗って珠美が苗運びをしたり、逆に珠美が田植機に乗って壮太が苗運びをする。そんな姿を純郎と園子は満足げに眺めていた。

 壮太も珠美とのコンビで段取り良く進んで行く田植えの作業に満足していた。さすが農業高校を出て楠見家で仕事をこなしてきた事はあると感心した。

 一日の仕事が終わり珠美も一緒に夕餉を囲んだ。壮太は酒を一杯やりながら見る年頃になった珠美はとても綺麗で可愛いと思った。

 純郎と園子は田植えの間は柏木家に泊まればいいと言ったが、その頃、壮太は街のマンションで女と同棲していると何かと噂になっていた。その事を知っている楠見家の珠美の両親は、いくら純郎と園子が「あれは一時の若い壮太の気の迷いだから」と頼んでも泊まる事だけは許さなかった。


 「ゴールデンウイークは、今までもそうだったのか」と義三が心配そうに美与に尋ねた。小枝子も身を乗り出して美与の返辞を待っていた。優花を抱いてあやしながら美与は「毎年よ、それぐらい優花のパパもお手伝いしなきゃねー」そう言った。「毎年か、そうか…うん、そうか」義三がブツブツ呟いて、小枝子も頷いた。「何をブツブツ言っているの」と美与がいぶかしがって義三と小枝子を見た。

 義三と小枝子は優花が生まれて毎日通って来てくれた壮太を信じる事にした。「いいや…何でもないでチュよ…ねー優花ちゃん」と義三は指で柔い優花の頬っぺに触った。優花はまだ生まれたばかり笑ったような素振りをすると、その可愛い優花を見る義三の眼はとろけるような眼をしていた。

 ゴールデンウイークが終り滝田家に姿を現した壮太を見て義三と小枝子は、取り越し苦労かと一応の安心はしたものの柏木家のこと何を考え企てているやらと不信感はぬぐえなかった。義三は「柏木の御父さん御母さんは御元気ですか」と聞いた。壮太はすまなそうに「孫が出来ても顔も見に来ない、冷たい親だと思っているでしょうね」そう言って頭を下げた。

 義三は慌てて「いやいや、そんな意味じゃ」そう打ち消した。美与が「あなた気にしなくてもいいのよ」そう言われれば言われるほど壮太は滅入る。性格を知っている美与は「そんな話は、もうおしまい。父さん今夜のご馳走は何…」と聞いた。


 小枝子の愛輪壮への入所が決まり美与と優花のマンションへの帰りが少し遅くなった。義三はその準備に追われた。小枝子への対応と美与をマンションへ返さなければと義三の気持ちは焦っていた。そんな義三を見ながら美与は、義三が気を使いすぎて小枝子が愛輪壮に行き美与がマンションに帰った後に疲れかが出て持病の悪化が心配だった。

 小枝子が明日滝田の家を出ると言う前の晩、小枝子は美与を自室に呼んだ「美与、お前の事を一番心配しているのは、御父さんの義三だからね。これから何が起こるか分からないが御父さんを信じて何でも相談するんだよ」と言った。小枝子の美与を案じての言葉だったが「お婆ちゃん、お婆ちゃんはお婆ちゃんの事を心配して美与は大丈夫だから」と美与は小枝子を元気づけた。小枝子はそれ以上の事を言えずに美与の手を握った。

 翌日小枝子が愛輪壮に行ったのを見届けて、壮太と一緒に美与は滝田の家からマンションに帰った。


 美与は優花と壮太のマンションでの生活が始まった。そして産休明けの仕事に出る準備を始めた。幸い病院には赤ん坊を預かってくれる託児所があった。夜勤のある病棟勤務を避け外来に回してもらうよう要望を出した。認められ美与は朝出勤前に優花を託児所に預け、勤務を終え迎えに行くと言う生活が始まった。

 美与一人では手の届かない事は、壮太の協力が必要だった。元々気が弱く優しい壮太は子育てを自分から積極的に協力した。美与はもう正式に結婚していない事など忘れてしまいたかった。このままの幸せが続いてくれればいいと思った。しかしそれは束の間の幸せに過ぎなかったが、美与は不安を抱く事なく過ごした。その頃、美与と優花を取り巻く人々は己に都合のいい思惑を張り巡らせていた。

 柏木家からはいまだに何の音沙汰もなかった。不気味に思って心配したのは義三と小枝子で、孫の可愛くない者も居るものだといぶかった。


 純郎と園子。あの夫婦の事だ…何か考えているに違いない、義三と小枝子はそう思っていた。その思いは当たって壮太の行動に表れてきた。気づいたのは美与で農閑期の筈なのに、柏木家に泊まって帰って来ない日が多くなった。

 最初のうちは、余り気にもならず「優花ちゃんのパパはどうしたんでしょうねー」と美与は優花をあやしながら呑気に構えていた。それに壮太が「親父が今度新しくハウスを作っている」と言った。「あのビニールハウス」と美与が聞くと壮太は「ああ、そうだよ」と言った言葉を信じていたからだ。

 美与の信じていたが、信じられないに変わっていった。マンションに居る時は、キョロキョロしながら笑顔を見せるようになり日々可愛くなって行く優花を壮太は以前と変わることなく可愛がった。壮太は嘘のつけない人間だった。美与は近頃壮太がマンションに帰ってきた時に今まで見た事もない下着をつけていた。しかも今まで着るのを嫌がっていた下着である。美与は「壮ちゃん、女の人かできたの」と聞くと壮太は目の中で瞳を左右にしながら「そそ、そんなこと有る訳ないじゃないか」打ち消し下手な言い訳をした。


 美与は休日のたびに帰る壮太と同じように義三の居る時は滝田の家に行き、居ない時は愛輪壮に出掛けた。滝田の家に来る回数が多くなり美与が休みのたびにケータイを入れて義三の在不在を確かめてくるのを不審に思った。義三は家に来た美与に聞いた。「どうした、壮太さんと何かあったのか」「ううん…ただ…」美与が口ごもった。

 義三の頭に嫌な予感がはしった。急いで「ただ、どうした」聞き返した。「うん…近頃、やれビニールハウスを造るだの収穫期だのと言って、土日に掛けて泊まりがけで柏木の家に帰る回数が多くなったの」美与は言う、義三は黙って聞いていた。美与は続けて「向こうの御父さんが齢を取った為だと言っているけどね…」

 義三はとうとう向こうが動いてきたと思い、美与も気がかりになる出来事があったらしい事を嗅ぎ取っていた。しかし純郎が言っていた柏木家決めた許嫁という言葉が現実だったのだろうと思った。だが今ここで美与に純郎の言った事をストレートに聞かせる訳にはいかなかった。さりとて心配しなくてもいいよとも言い難かった。


 「父さん、私、聞いちゃったの。壮太には、許嫁が居るんだって…」美与が優花を抱いて目に見えない者を漠然と見るように言った。義三は驚きと共に誰が美与の耳に入れたのだろうかと考えた。そして「誰が言ったか知らんが、そんな事はないだろう」と一応否定した。

 「柏木家の近所だという患者のお婆ちゃんなんだけど…その人が、そう言っていた」美与は、そう言ったが義三は言葉を発する事が出来なかった。

 美与が続けて「許嫁が居るのに、街の女に騙されて同棲させられたんだって…看護婦さん、どう思う。おまけに別れてくれって言ったら、何と…その女、誰の子だか…子供まで作っちゃって離れないんだってよー…もう本人も両親も跡取り息子なので困り果てちゃって、街の女って怖いねー」とお婆さんが言った言葉を再現した。

 近所のお婆さんが言ったと言う言葉は、壮太と美与に当てはまる。それを聞いた義三は…あの純郎と園子なら計算して、そう言う噂話を流布させるぐらいの事はやりかねない。義三は壮太が美与を騙したとは思わないし思いたくもない。美与と壮太が愛し合って優花は生まれたのだ。そうでなければ優花はこののち浮かばれないではないか。ただ…何故に美与が壮太を選んだのか、恋愛とは言えこの齢で世の中、怖いと思った。


 美与は…お婆さんの言葉を、すべて自分に向けられたものだと思っていた。「その女が美与だと言うのか…そうじゃあるまい」とは美与の手前言ったものの義三の心配は頂点に達しいてた。つい「優花まで壮太の子供じゃないと言うのか」怒りに震えながら言ってしまった。美与は「言われている事は事実じゃないけれど、向こうの親ならそう言うでしょうね。こう言う話って他人は喜ぶものよね」

 自分を抑えて他人事のように言う美与が可哀そうでならなかった。義三は「壮太は、マンションから今も仕事に通っているんだろ」と壮太を呼び捨てにした。義三は話題を逸らしたかったが、結果的に火に油を注ぐ格好になった。

 「通っていますよ、何食わぬ顔で」優花をしっかり抱いた美与が言う。義三は、もう三人で暮らすのは無理だと思い「美与…もうマンションへは帰るな、此処へ帰って来い」そう言うと美与の眼から涙が溢れ出た。義三は胸を掻き毟られるぐらい美与と優花が不憫でたまらならなかった。

 涙を拭き取って「父さん…今、私が…マンションを出たら何て言われると思う。そら見ろ、そう言って向こうの言い分を認めた事になる」そう言ってマンションに帰ると言った。義三も「それも…そうだな」と呟いた。

 滝田の家には、もう義三一人…相談する小枝子も居ない。仮に愛輪壮まで行って小枝子に聞かせたところで、もう涙を流すだけだろう。今まで心配ばっかりして来た小枝子に、もうこれ以上心配はさせられない。嫌な事は聞かせずに、少しでも気楽に過ごさせてやりたいと思った。化粧を直し優花を抱いて帰ってゆく美与の後ろ姿を見送りながら、これからどうしたものかと義三は考えていた。


 壮太は今回四日の予定で柏木の実家に帰ると言う、自分の車を修理に出していた。美与が柏木家の前まで送って行った。壮太は両親がとんな動きをしているか知ってはいない。だから両親に優花を見てもらおうと思っていたが、両親は田んぼに出ていた。

 前もって知らせてあったが壮太の両親、純郎と園子は家には居なかった。美与は自分が嫌われていると言うより壮太と別れさせようとしている事をよく知っている。だけど優花は間違いなく壮太の子供だ。噂では誰の子か分からないと流布されているらしいが、純郎が中絶を進めに着たぐらいだから壮太の子供だとは認めているのだ。

 美与は私が憎いのはそれでいい、だけど自分達の孫がそんなに嫌なのか…そう思うと矢も楯もたまらなかった。壮太は田んぼまで探しに行こうと言ったので、美与は自分さえ我慢すればと思った。しかし純郎や園子の冷ややかな視線や、まだ見ぬ珠美という女性が美与の頭をよぎった。

 純郎や園子の居る田んぼまで探して行く気になれず、壮太の思いに沿う事なく「私、このまま帰る。またマンションに帰る時ケータイして迎えに来るから」それを言うのが精一杯で帰った。壮太は美与の気持ちも分からなくはなかったが「俺の言う事が聴けないのか」と思う一方で、なぜかホッとしている自分に気付いていた。


 四日の予定だったが三日目に壮太にケータイが入り車の修理が出来たと言う。その時もう関係を持った珠美と一緒に農作業をしていた。純郎と園子には嫁扱いをされていたのでもう夫婦気取りだった。壮太はそんな気安さから珠美に「今日車の修理がてきたから取りに行かなきゃいけない」と言った。

 珠美は壮太が美与に送って来てもらった事を知っている。知っているから「私が送って行ってあげる」と美与に対抗心を出して言った。送ってもらうだけならいいか、と壮太も自動車のディラ―まで送ってもらう事にした。柏木の家に来た時には野菜や果物、それに米など持って帰る事になっている。それを珠美の車に積み込んだ。そしてディラーの裏の修理場に着いた。珠美の車から壮太の車に積み替えるのも面倒だった。壮太は今朝メールで美与が実家の滝田家に行っている事を知っていた。

 壮太は珠美に「マンションの前まで一緒に来るか」と言った。珠美は「いいの」と予想外の壮太の言葉に美与への嫉妬心と好奇心で目を輝かせた。マンションの駐車場に着いて壮太は「ここでいい」と言って柏木の家から持ってきた荷物を壮太の車に移すように珠美に言った。


 壮太は移した荷物を二回に分けて運ぶつもりだった。しかし「こうして二人で運べば一回で済むじゃない」そう言って珠美が荷物を抱え壮太の後を着いて来た。

 壮太は珠美をマンションの中に入れてはいけない。そう思いながらも強くは止めなかった。キッチンに入って「壮ちゃん達、こんな所に住んでいるんだ…」そう言いながら中を、ゆっくり見回した。壮太は珠美に「おい、済んだら早く帰れ」と今度は強く言った。

 珠美は「手ぐらい洗わせてよ」と言ってハンカチとピンクのケータイを一緒に出してキッチンテーブルの上に置いた運んできた荷物の近くに置いた。さすがに壮太も珠美に長居されては困ると思い、珠美の手洗いが終るのを横で待っていた。手洗いが終るか終らない内に肩を抱いて外に出るように仕向けた。

 「そんなに乱暴にしなくても帰るわよ」とマンションから出て行った。そんな壮太の焦りが、珠美のケータイを荷物の陰に残す結果になった。


 マンションに美与は優花を抱いて帰った。今日は帰って来ないと思っていた壮太がソファーに上着を掛けたまま寝転んでテレビを見ていた。優花を抱いた美与を見て慌ててテレビを切った。そして「早かったなー」と起き上って「優花、おいで」と美与から優花を抱き取った。

 「また滝田の家に行っていたのか」そう言うので…知っているくせに、あなたにそれは言われたくない。そう言いかけて喉元で呑み込んだ。そして「今お父さん、一人だから…」と言った。「そうだな、お婆さんが愛輪壮には入って一人だ。仲のいい親子だったのに、寂しいだろうなー」壮太は同情し他に意味なく言ったのだろうが、今の美与には素直に受け止められなくなっている。優花をあやしている壮太を見ただけで、壮太には答えなかった。

 美与がキッチンに入ると柏木の家から持って帰った野菜がドカッと置いてあった。いつもの事だから気にもせずヒョイとテーブルの上を見た。果物の入った袋であろう袋の陰からピンクのケータイが見えた。「あなた、ケータイ替えるたの」と美与はわざと聞いた。壮太はいぶかしそうに「いいや…どうして」と言った。美与は精一杯平静を装って「ここに有るケータイ、あなたのじゃないの」そう言うと壮太が優花を抱いたままキッチンまでやって来た。とっさに美与は「優花おいで」と壮太の抱いている優花を奪うように抱き取った。


 びっくりした優花は泣きだした。壮太はピンクのケータイを見た途端顔色が変わった。ピンクのケータイを取るや否や「出掛けてくる」と言って、慌ててソファーの横の上着を取ってバタバタと出て行った。美与は泣いている優花を抱いたまま唖然として、ほんの少しの間…壮太の出て行った玄関の方を見ていた。そして泣いている優花に向いて「優花のパパ、行っちゃった」あやしながら言った。

 美与に取って壮太と二人の愛の証しでもあるマンションに、もう男女関係を持った親が勝手に決めた許嫁の女を入れたのだ。美与は「許せない」とポツリと言った。込み上げてくる涙を抑えきれずに頬に伝わせながら義三にケータイを入れた。

 義三は美与と先っきまで壮太の事で色々話をして美与の事が心から離れず心配していただけに、取るものも取りあえず飛んで来た。もう陽は隠れて外は薄暗かった。優花は泣き疲れたのか美与にお乳をもらい無邪気な顔で眠っている。

義三はベビーベッドで眠っている優花を見ながら小声で言う「優花…ごめんな…お爺ちゃんの俺が、お前をお前のママと同じように寂しい目に会わせる結果になったようだ」美与が目頭を押さえてていたハンカチを取って涙を啜った。「それは違うよ」とハッキリ言ってまた涙を啜った。「あの時に、無理にでも引き止めるべきだった。言っても…もう遅いか」そう言って義三はソファーの美与の横に座った。


 「私ね、体力には自信があったから…壮太に色々聞いたの。そして私にも教えてもらえれば農業が出来ると思っちゃったりして馬鹿よね」と言い枯れた涙を啜った「美与…」義三は絶句した「結局、柏木の両親には何もさせてもらえず頭から駄目出し。気づくが遅かったけれど柏木の両親には壮太の嫁にと決めた人が居たんだよね」美与はまた天井を見て「それでも優花が生まれてくれた事で気持ちが変わってくれるんじゃないか…なんて甘い甘い」大きく息をして「壮太だけは信じていたのに」と言った。

 義三は美与が覚悟を決めて柏木の両親と対峙しようとしていた事を改めて知った。「美与…」と言って美与の肩に手を添えた。「父さん、私…父さんが思っているほど寂しくなかったよ」美与の強がった言葉に義三は天井を仰いで涙をこらえた。

 「美与…父さんなー…お婆ちゃんがまだ家に居た頃に、柏木の両親とは度々会っていたんだよ。その都度その都度、結婚は許さないから早く諦めさすように迫られた。父さんもその都度、本人達の気持ちが一番大事だから、まず二人の気持ちを大切にしてやってほしいとお願いしてた」と義三は言った。

 「お婆ちゃんの所へこの間、優花を見せに行ったよ。その時、全部聞いた。このまま黙って死ねないって、おかしいよね。身体は動かないけれど、口はあんなに元気なのに」美与は小枝子の事に触れて落ち着いた様子だった。


 「そうか…聞いたのか、お婆ちゃんもお喋りだなー」義三も落ち着きを取り戻していた。「父さんさー、私が優花を妊娠した時に柏木のお父さんが二百万持って来て…中絶するように言われた時、土下座までしてくれて突き返してくれたんだってね。それ聞いた時、正直腹が立った。ごめんね…父さん」美与がそう言うと、義三は「あの時は本当に腸か煮えくりかえったよ。あの時に遅かれ早かれこうなるって確信した。だけど…壮太に一途の望みをつないでいた」膝の握り拳に力を入れた。

 キッチンに見える柏木の家から持って帰ったと言う野菜や果物の袋を見て「だから…だから二人の気持ちを大切にしてやってほしいと言ったのに」義三は、そう言って握り拳で自分の太腿を何度も叩いた。悔しそうな義三に美与は「父さん…もういいよ。これからどうなるにせよ壮太は、また…ここに帰って来る。私、ここで待っているから」と言った。

 義三は心配そうに美与を見て「美与一人で大丈夫か」そう言った。美与は「大丈夫だよ…父さん心配しなくても、今父さんが考えて心配しているような事は起こらないから…それに、ああ見えて壮太は優しいんだよ。それが災いしてこうなっちゃったって事もあるけどね」そう分析して笑顔を作った。義三は「美与…」とまた絶句した。


 「ごめんね、取り乱してケータイなんかしちゃって。でも、もう本当に大丈夫だから」と付け加えた「そうか…信じていいんだな」とそれでも心配顔の義三だった。義三も急いで取るものも取りあえず家を出てきたので、家の心配がない訳ではないが…それよりも、大事な美与と優花を放り出して帰る気にはならなかった。

 義三は結局、壮太から「今夜は帰らない」と美与に連絡があってようやく帰る気になった。もう一度「信じていいんだな」と美与に言って滝田の家に帰って行った。義三に言った事は嘘ではなかったが、美与は義三が帰って行った後は優花が目を覚ますまで放心状態でいた。

 優花が目を覚まして愚図ったので、お乳を与えてまた寝かしつけた。美与もヘッドに横になったが朝まで眠る事は出来なかった。朝早くケータイの着メロが鳴った。義三からで義三は開口一番「美与無事か」と美与と優花の安否を気遣った。義三は美与に大丈夫だと言われて帰ってはみたものの、もしや、辛い気持の美与が変な気を起しはしないかと気が気ではなかったのだ。

 美与は今、義三の声を聞くと安心できるのだが「お父さん…私が、優花を連れて何かすると思ったの。私そんなに弱くないから」義三の心配を一蹴して強がって見せた。義三には娘が精一杯強がっているのが手に取るように分かった。


 「そうか、美与はお婆ちゃんの滝田小枝子の孫だもんな」真面目に義三はそう言った。「ハハハ父さん…だいたい普通はこういう場合、俺の子だからって言うんじゃないの」と美与は笑ったつもりだったが声は弱気の泣き声に近かった。

 「うん、そりゃそうだな…だけど滝田家を今まで支えてきたのは、お婆ちゃんだからな。父さんはお婆ちゃんの後を着いて歩いただけだから…しかも途中からね。美与には、お婆ちゃんのような困難に負けない人になってほしいから、父さん俺の子だからって言えなかった」

 義三も明るく言ったつもりだったが思うように明るく言えず明るくならなかった。それでも父娘の親子の意思疎通が出来心通わせた。「私、父さんのように優しくて…いっぱい失敗しても立ち直れる人間になるから」と言うと義三は「おいおい…それは誉めているのか、けなしているのか」笑いながら問いかけた。「その両方よ」と美与は笑った。


 義三と話して少し気楽になった美与は、優花と一緒に壮太からの連絡を待った。壮太から美与に、今夜帰るとメールが入った。その事を昨夜から一睡もせず心配し続けている義三にも知らせた。義三は「今夜、そっちに行く」と言い出した。その気持ちは美与にも分からぬでもなかったが「父さんが入ったら話がややこしくなるだけだよ。父さんが心配しているように私も壮太も逆上して事件なんか起こさないから、そこだけは信じていていいからね」そう言う娘の美与を義三は信じるしかなかった。

 美与は自分の身を案じくれる義三が夜も眠られないほど思い詰めて、体調を悪化させないか逆に美与の方が心配になった。それもこれも、すべて学校を卒業して反対を押し切って一緒になった私の所為だと美与は思った。

 最初の頃は何を言われても親の言いなりにはならない。と言っていた壮太も最近は、柏木の父親の言う通りにコントロールされて行く。美与は息の詰まりそうなマンションで優花と一緒に壮太を待った。優花が起きて泣いたり笑ったりしている時はいいが、すやすやと眠ってしまって優花をベビーベッドに移して一人美与がソファーに身を投げ出すと心は沈んで行く。


 長い長い一日の陽が落ちて、壮太は何の変わりもなく普通にマンションに帰ってきた。壮太はベビーベッドに行き、優花の何の屈託もなくすやすや眠る可愛い顔を眺めた。今夜がこうして寝顔を見られる最後かもしれないと思った。二人が今共有しているのはもう一緒に住めなくなったと言う事だ。

 経緯はどうであれ壮太のした事は絶対に許せない。だけど美与は壮太を憎めなかった。最初に壮太と隆司に出会い要領よく動ける隆司と比べ、素朴で気弱な壮太は街育ちの美与には新鮮に映った。その時、美与が壮太を好きにならなければ今の事態は起こっていなかった。美与の心の中に色んな思いが交錯していた。

 美与は今まで良く尽くしてくれたと思う。だがそのぶん親との軋轢も感じていた。しかしそれを乗り越えなくてはならなかったのに乗り越えられなかったのは自分の気の弱さであり美与には何の落ち度もない。優花という娘を持った今、これから背負わなければならない十字架は今までよりも…もっともっと重いだろうと壮太は思った。二人はそれぞれ去来する想いを胸に、チグハグな会話で軽く最後の夕食を終えた。

 二人はリビングのソファーに座った。その時優花が目を覚まして泣いて愚図った。ベビーベッドから美与があやしながら抱いてソファーに戻った。美与と壮太は相手を見ることなく真っ直ぐ前を見ている「俺達、終わりだな」と壮太が静かに切り出した。美与も想定内の言葉に「そうね」と答えた。それから先はお互い興奮する事もなく、淡々とこれからの事を話し合った。

 壮太と美与が話している間、優花が壮太が話している時は壮太を見…美与が話している時は美与を見て振り向き振り向き赤ちゃん言葉で双方を見ながら上機嫌で一人話しかけていた。美与と壮太はそんな優花を話の合間合間にチラチラと見ていた。壮太には優花の機嫌がよければよいほど優花に攻められているような気がした。


 優花が生まれた時に柏木の純郎と園子に知らせると面倒になるので、その前に病院からもらった出生証明書と左側に有る出生届に二人で考えて[  滝田優花 ][<父> 柏木壮太][<母> 滝田美与][<続柄>長女 ]と書いて市役所に提出していた。非嫡出子ながら認知された立派な壮太の子供なのだ。

 出生届に壮太の名前を書いた事で怒り心頭したらしい純郎と園子は優花に会いにも来ない。それを考えても優花を美与が引き取る事は問題ない。その他の金銭的な問題は後日しかるべき人を介在させて文書に残して決める事にした。

 一応の話を終わって美与が語気を強めて…「私が優花を妊娠した時…滝田の家に、あなたのお父さんが札束を持ってきた。中絶するようにってね。そのうえ父に土下座までさせた。私はあなたのお父さんを、このまま絶対に許さない。その事だけはキチンと謝ってね」と言った。壮太は「そんな事をやってたのか、馬鹿な事を」と驚いた。「優花にも謝ってほしい」美与は追い打ちを掛けた。壮太は「俺だってそんな事は許せない。キチンと謝らせる」強くそう言って優花を抱かせるよう美与に促した。

 壮太は優花を抱いてジッと見詰めた。優花は機嫌よく笑顔を見せている…まるで別れるなと言うように…。壮太は美与に優花を抱き移して「じゃ俺はこれで帰るわ」と言って柏木の家に帰って行った。


 残された美与は、今までの二人の生活は何だったのだろうと思うと自然に涙が滲み出て抱いている優花の笑顔が揺れて見えた。

 その頃、壮太の車は市街地を抜けて周りの暗い道路を走っていた。壮太の胸に優花の温もりがまだ残っている。冷静は装っていたけれど美与の顔は「何故なの」と自分に聞いてきていた。

 壮太はその問いに答えただろうか自問していた。優花という子供まで授かりながらマンションに家族を残し別れを告げてきたんだ。と思うとジーンと込み上げてくるものがあった。

 美与は美与と優花を心配している義三にケータイを入れた「父さん、全部終わっちゃった」と報告した。「そうか…大丈夫か」と義三もしんみり言った。「父さんは、大丈夫かという言葉しか知らないのね」笑った心算で言ったが美与の声は義三には泣き声に聞こえた「心配するよ、そりゃー。それでお前達二人は喧嘩もせずに話は着いたのか」美与は「もう喧嘩なんかしてもどうにもならない事は二人ともよく知っているわ。それに、こんなになる二人だったけれど壮太と一緒に暮らしている間一度も大きな喧嘩らしい喧嘩はした事はないよ」と義三に言った。それは嘘ではない。

 けれども喧嘩をしなかった事が良かったか悪かったか分からない。壮太も内向きの性格だから美与に怒りたい事があっても黙って我慢していたのかもしれない。しかし、今それを考えとも虚しく悲しいだけだっだ。


 美与はありったけの元気を出して「父さん、これから大変だと思うけど…宜しくね」そう言うと「そうだな、これからの事を柏木家とキチンと決めとかないとな」と義三は美与に応えて続けた「もうそのマンションに居る事もなかろう。そこに居ればいろんな事を思い出して辛いんじゃないか」そう付け加えた。「うん…まあそんなに辛くもないんだけどね、もうこっちの病院も辞めたしここを整理するから父さん来てくれる」美与にそう言われて「じゃこれから行くわ」と言った。

 壮太との話し合いで美与と優花の必要な身の回りの物を持って帰る事は合意していた。優花のベビーベッドかあるのでと何所で調達したのか義三は軽トラでやって来た。持ち帰るものの大半はもうすでに美与が纏めていた。近くのスーパーで工面したのだろう、折畳んだ段ボールの箱をいっぱい持ってきた。美与は苦笑いしながら「こんなに…沢山」と言ってしまった。

 義三は心外と言うふうに「何もないとはいえ三年も四年も暮らし優花だっているんだ。それ相応の荷物はあるだろう」そう言ってガムテープを使って段ボール箱に復元を始めた。美与は久々の笑顔で「ハイハイ」と言ってサイズに合わせて纏めて置いた荷物を詰めた。

 義三は美与が落胆して憔悴しているのではと思いながら駆け付けたので、空元気であれ美与が笑顔で自分を迎えてくれた事に少し安心した。美与の軽四と義三の軽トラがマンションを後にして滝田家に向かって帰って行った。


 美与の部屋は二階にあつたが、優花のベビーベッドもあるので取りあえず空き部屋になっている小枝子の部屋に落ち着いた。その夜小枝子の寝ていた場所に布団を敷いて美与は横になった。眠れない日が続いたので、すべて終わった今日こそ眠ろうと横になったが寝付かれなかった。

 考えまいとしている数々の出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。少しウトウトしたような気がして目覚めて見るカーテンは明るかった。優花が気になってベッドを覗いた。優花は手足を動かしながら目を覚ましていた。「優花…言い子にしていてくれたんだね、ありがと」と言ってオムツを取り返え抱っこしてお乳を含ませた。

 「美与…起きてるか」とドアの外から義三が聞いた。美与から返事が返って来なかったので義三は心配になった。「美与開けるよ」と言ってドアを開けた。美与は優花に乳首を含ませたままの状態で何を見るでもなくぼんやりしていた。美与は気丈に振る舞っていたが、やはり相当のショックを受けていると義三は思った。

 近づいて「美与…美与」と声を掛けて、ようやく無言のまま義三の方を向いた。眼がいつもの美与の輝きが無く、かと言ってただの寝起きの顔ではない。義三は美与がここ数日間、眠っていないのではないか思った。「朝ご飯が出来たぞ。冷めないうちに食べようか」そう柔らかく言った。美与が少しだけ頷いた。


 部屋に入った義三に無言のまま何の反応も見せない、こんな事は今まで無かった。けれど少しでも反応してくれたので義三はホッとした。朝ご飯を食べさせて早く眠らせてやりたと思った。「美与、父さんむこうで待っているから」そう言ってキッチンで待つことにした。義三は心配でイライラしたが部屋から出てくる気配がして美与がキッチンに優花を抱いてきた。

 食卓の椅子に優花を抱いたまま座った。優花の座る席はマンションから昨日ぺビーベッドと一緒に持って帰っている、義三は優花を美与から取りあげ優花の席に座らせた。優花は無邪気に手足を動かし「マーマ、マーマ」と「まんま」とも「ママ」何とでも受け取れる言葉を発していた。それでも美与は黙ったままだった。

 「美与!」と義三は大きな声を出した。依然として美与はボーとして定まらぬ視線で「うん」と小声で言った。元気なく答えた美与は、優花用の離乳食を優花に与えた。優花に食べさせただけで美与自身は一向食べようとしない、それを見ていた義三は美与に食べるように促した。義三に促されて美与は箸を取って二口三口ご飯を口に運んで「ご馳走さま」とと言って箸を置き優花を抱いて、また小枝子の部屋に引きこもった。一連の美与の行動を見ながら義三は一段と心配になった。


 当面このまま眼の届く小枝子の部屋に置いて様子を見る事にした。朝食の後片付けをしながら美与の状態を案じどうたものかと悩んだ。こう言う時に頼りになる小枝子が居ない、男親には言えない何か分からない事がありそうで義三はオロオロとして心配するだけだった。

 今の美与に必要な人間は誰だろうか、そう考えた時に頭に浮かんだのが美与の母親の葉子だった。葉子は地元のスーパーの鮮魚部で包丁さばきを活かしパートで働いていた。美与は今でも時に連絡を取っている筈であったが、義三は離婚以来遊楽を営んでいた頃は時々顔は見ていたが今は音信不通だった。

 今の美与の異常な状態を放っておく訳にはゆかず義三は、恥を忍んで藁おもすがる思いで葉子の働いているスーパーに出かけて行った。鮮魚売場の前で普通の客のように調理され冷陳に並べられた魚を眺めていた。すぐに葉子は出てきた出て来て話を聞いて「じゃ一応こっちから美与に連絡取って見る、それから考えよう」と言ってくれた。葉子の快い返事に来て良かったと言う気持で滝田の家に帰った。

 葉子は午前中の勤務なので、午後勤務を終え美与にケータイを入れた。ケータイの向こうの美与の様子がいつもと違って涙声で言っている事も聞き取れないほどだった。葉子は滝田家に直接行くのは抵抗があったが美与の様子を聞いては放っておけなかった。


 仕事上がりの葉子が滝田家に来てくれた。葉子は挨拶もそこそこに美与と優花の居る部屋に入った。そして優花を抱いて出て義三に優花を渡し話をする間、優花を見ているように言った。再び部屋に入った葉子は布団の上に着替えもせず座っている美与の前に座った。

 「美与…辛かったね。お母さん、おおよその事は分かっている。今の美与に何もしてあげられないかもしれないけれど話してごらん」美与は眼に涙をいっぱいため母の葉子を見た。葉子はそっと美与を抱き寄せ言う「辛かった、辛かったね」美与は母に抱かれて泣いた。葉子も一緒に泣いた。すすり泣く声が義三にも聞こえてきた。

 中に入って小一時間も話していただろうか葉子は部屋から出てきた。「どうだった」と葉子が出てくると同時に義三か聞いた。葉子は「大丈夫だと思う、父さんに心配かけたと言っていた」と言っていた。葉子の話を聞いて「俺は何もできなかった」と義三の目は潤んでいた。

 その義三に追い打ちを掛けるように「私も同じ目にあったからね」と義三を見て言った。「今、俺に恨みごとかよ」と優花を抱いた義三が口を尖らせた。「ほらほら優花が泣くよ」そう言われ「よしよし」と優花をあやした。葉子は舌をちょこんと出して「あんた幸せだね、良い娘と孫に恵まれて」そう言うと義三が「今度は嫌味か」と言う「ほら、あんた昔と変わってないね」葉子に言われ義三は口の中でブツブツ言った。「私は、もう此処…滝田の家には来ない、美与とは外で会うから」そう言って葉子は帰って行った。義三は葉子に感謝した。


 葉子が帰ってから美与も元気になったか、自ら部屋から出て来て義三から優花を受け取った。優花を抱いた美与は、椅子に掛け優花の頭に頬を当て「私…今まで壮太を苦しめていたのかなー」と虚ろな目で言う、義三は予期せぬ美与の言葉に「そんな事はないよ。どうして…そんなふうに考える」とっさにそう答えた。美与が続けて「両親が反対しているのを知りながら…壮太と一緒に暮らし続けた」と言った。

 「それはお婆ちゃんも母さんも父さん三人みんな知っていた。だから壮太と美与の幸せが続くように三人一生懸命だった。もしも壮太が反対されて苦しかったとしても、それは美与のせいじゃない」と穏やかだったが義三は心の底からそう言った。美与は独り言のように「そうかなー」と呟いた。

 義三は「そうだとも…気の弱い壮太も美与が好きで愛していたからこそ、あの強い反対にも負けなかった違うか」美与は首を横に振った「美与も壮太が好きで一緒に暮らしたかったから優花を生んだんだろ」美与は頷いた「そうでなかったら…優花が生まれた時、壮太があんなに喜んだか」と強い口調だった。

 義三は続け「父さんも母さんも大好きたからこそ美与が生まれれたんだ。父さんが悪かったから別れたけれど父さんも、母さんは再婚しても美与の事を片時も忘れてないぞ」自戒も込めてそこまで言うと「分かった」といって美与は優花を抱いて部屋に入った。このままだと、また美与が閉じこもってしまいそうで義三は心配だった。


 愛子が来てくれた日から二日が経った。美与は相変わらず元気はないが徐々に変わって来ているように見える。しかしまだ心配な状態は続いていた。義三は「美与、これから出掛けて見ないか」と誘った「どこへ」美与は気のない返事をした。「お婆ちゃんに優花を見せに愛輪壮に行こう」そう義三が言うと「愛輪壮」美与はポツンと言う「嫌か」義三が追い打ちを掛けた。

 「お婆ちゃん」少し美与の眼が顔が元気になったように義三には見え「優花…お婆ちゃんに会いに行こうか」と美与が言った。義三は美与の変化が嬉しかった。「婆ちゃんの所に行って、久しぶりにハンバーカー屋にでも寄って帰るか…なぁ優花」そう言って優花の頬っぺを突っついた。優花は無邪気笑っている。美与は正直愛輪壮に行くのもハンバーガーもどうでもよかった。ただ今は息が詰まるような重苦しさに悩まされながら、ただただ此処から逃れたいと思っていた。

 優花を抱いて乳を飲ませ優花の世話をする事だけが生きている実感だった。車を走らせ楽しそうなのは優花だけだった。美与も義三も見慣れた風景だけれど、季節の移ろいを感じながら郊外の道路を走っている。その季節の山の木々、道沿いの草の中に花々が点在していて美与の心の重苦しさを一瞬なりと忘れさせてくれた。


 「お婆ちゃん喜ぶぞ、なぁ優花」義三はあえて美与に直接ではなく、美与の赤ちゃんの時によく似て愛相の良い優花の名を呼んで間接的に美与に話しかけていた。車で少し揺れながら優花を抱いている美与はそれに応える事はなかった。愛輪壮に着いて小枝子に面会した。

 小枝子は一寸見ない内に随分弱ったらしくベッドに横になっていた。美与と優花を見ると自分でベッドを起して義三にオーバーテーブルを脇にやるよう命じた。そして自分の近くに優花を座らせるように言った。小枝子があやすと優花は愛相よく笑う「そうかそうか優花ちゃんはママにそっくりだ。お前のママもな、そうやって良く笑ってくれてお婆ちゃんの辛い時どれだけ慰めてくれた事か…そうかそうか今度は優花がママを慰めるのか、うん。だけど優花はママより幸せかもしれないよ。いつもママと一緒に居られるからね」そう言う。

 そう言う小枝子を見ていた美与が「お婆ちゃん…」と優花を支えながら小枝子の横に泣き崩れた。小枝子は不自由になった手で美与の頭を撫でながら「美与…辛かったね。辛かった辛かったろう…」と小枝子自身も泣いていた。小枝子は「お婆ちゃんもお父さんも結局、何もしてやれなかったね。ごめんよ美与」そう言った。それにつられるように機嫌の良かった優花も顔をゆがめ泣きだした。


 美与は頭をあげ涙を拭いて「お婆ちゃんや父さんのせいじゃない。私が馬鹿だったのよ」と言うと小枝子は「美与、自分を責めちゃいけないよ。壮ちゃんを一生懸命愛して優花を授かったんだろう、だったら何が馬鹿なもんか。美与はお婆ちゃんの孫だぞ、しようと思えば仕事もちゃんと出来る。お前のお父さんとは誓うんだぞ」そう言い終わるか否や「おいおい、俺だってそんなに捨てたもんじゃないと思うがね。まぁお婆ちゃんに言われても、返す言葉はないけどね」そう言って力無く笑った。

 美与が可愛くてたまらないと言う眼差しを注いでいる小枝子の顔を見た美与は、頷いて「お婆ちゃん、私の事は心配しないでね。もう大丈夫だから、これからは自分の身体の事だけ心配するのよ」そう言うと、小枝子は「その調子だよ…美与お婆ちゃんもお父さんも美与を信じているからね。一寸横になりたい…ベッドを下げるよ」そう言った。美与はベッドに居た優花を抱きあげ「ごめん、ごめん、お婆ちゃん疲れたね、ママこれでも看護師なんだよ。優花…お婆ちゃんに、ごめんねって」と抱いた優花を揺すった。

 「すぐに疲れる…もうお迎えが近いのかねー」九十に近づいている小枝子はそう言いながらベッドを倒した。「お婆ちゃん、まだまだ私これからなんだよ。そんなに弱気じゃ美与と優花が困るよ」美与がそう言うと「そうだねーこれからだ」小枝子はそう言うと静かに目を閉じた。義三が近づいて小枝子の手を取って「じゃお母さん、また来るから…あんまり心配しないでいいからね」そう言うと、あぁ分かったよと言うように目を開きにっこり笑って見せた。


 マンションから引き揚げて来た美与が利枝と小枝子の御蔭で落ち着いた。だが義三はこれから大事な難問を抱え込んで忙しかった。美与は義三が四十過ぎの子なので義三の齢は、もうすぐ古希を迎える。見かけは元気そうに見える義三だが持病を抱えての忙しさは、さすがに身にしみた。

 今の滝田家には重要な美与の事を打ち分けて話せる身内という親戚はいなかった。柏木家と対峙するのに公人を入れた方がよかろうと古い知人に知り合いの司法書士か弁護士が居ないか居れば紹介するように頼んだ。

 今までの経緯もあり会って話しを聞かなければ相手が相手だけに何を言い出すか予測もつかない。かといってスムーズに行く事はまずあり得ないだろう。こじれた場合は裁判所と言う事も一応考えておかなければならなかった。義三はあれこれ奔走していた。

 義三が自分の為に奔走している事を知っているので義三の身体か心配だったが、義三にすまないと思いながらも美与はまだ誰にも会う気がせず家に閉じこもって優花と一緒に過ごしていた。手伝う事と言ったら義三が買ってくる材料を料理して食べてもらう事だけだった。それでも義三は助かると喜んでくれた。美与は部屋に入って優花に「お爺ちゃん、ありがとうだね」と話しかけていた。


 三人の子供を抱え近頃忙しそうな友恵からケータイが入った。友恵は「あれから…どうなった」と聞いた。前回かかって来た時は、壮太がマンションに珠美を連れて来る前だったので別れてからのケータイはこれが最初だった。美与が別れた事を告げると「やっぱり壮太は親の言いなりになったんだね。あれだけ美与が尽くしていたのに…」と開口一番友恵はそう言った。

 美与は「初めから分かっていたっちゃ、分かっていたんだけどね」そこまで言って声を詰まらせた。友恵は「そんな馬鹿な、美与はそれでいいの」とたたみかけてきた。気を取り直して美与が「だって…もう、仕方ないもん」そう言うのが精一杯だった。友恵も美与の心情を考えそれ以上突っ込まなかった。友恵は「またそっちに帰った時に寄って見る」そう言ってケータイを切った。


 友恵のケータイの後に一日置いて隆司からもケータイが入った。隆司の声は何故か懐かしかった隆司は「壮太と美与の話は着いたとしても、これからの話はどうなっているの」と弁護士らしい関心を示した。美与は「今お父さんが、司法書士って人…その人と話し合いのテーブルに着いたってところかな」と答えた。

 隆司は「そうか、俺が出て行く訳にも行くまいしなー」そう言う。美与は「心配してくれて有難う、でも事か事だから隆司が出てきたら何を言われるか分からないよ。そんな状況判断が出来ないなんて…まだ試験受かってないの」わざとそう言った。隆司は「それもそうだが美与にそう言われりゃ世話ないわ」ケータイの向こうで笑っている声が聞こえて、美与も笑った。

 隆司が「お父さんの身体に気をつけてあげるんだよ」と言った言葉を聞いて涙が出てきた美与は「うん、そうする。話し合いは色々手配しながらやっているから大丈夫だよ。それに…こんな私の姿、隆司に見られたくないから」そう言い終えてケータイを美与から切った。美与の眼から涙が溢れていた。


 「誰にも会いたくない」これは美与の本音だった。たとえそれで柏木家との話合いが不利になっても…、ただ優花さえ手元に居てくれたらそれで良かった。心血注いで事にあたってくれている父の義三にはすまないと思うが、今はそっとしておいてほしかった。

 今まで散々期待を裏切り続けてきた人の良い壮太だが、最後の最後のケジメぐらいは壮太がつけてくれる。そう信じたかった。「だって優花のパパだもんね」美与はそう言って、まだ意味も分からない無邪気に笑う娘と会話するのだった。

 仮に金銭的に何もしてくれなくても優花は私だけで育てて行く、そう決心していた。義三は美与と壮太が別れても、優花を壮太に会わせるかどうか迷ってた。これは美与に聞くしかあるまいと、義三は美与に「美与はどう思う」と聞いた。美与は首を横に振って「まだ優花は壮太の事は覚えていないと思う…だから会わせない方がいい」と言った。義三は「それで良いんだな」と念を押した。

 美与には不安だった。もしも壮太に会わせていて柏木家の都合で気が変わる可能性だってないとは言えない。義三は「分かった、美与の言う通りにするよ」そう言った。


 壮太には辛い選択だったか美与の「優花に会わせない」て言う条件を飲んだ。美与と別れて間もない今、すでに事実上珠美と暮らしている。そんな自分の優柔不断さが美与を奈落のどん底に突き落としたままでだ。だが柏木家の純郎や園子はそれが当然のような顔をしていた。

 これで柏木家の思い描いていた通りになったのだ。だがしかし一つだけ許せない事がある。それは壮太が優花を認知していると言う事だ。それはすなわち優花がこの柏木家の相続権を持っていると言う事だ。これは純郎も園子も見逃す事は出来ない、そこで純郎と園子はもしや気のいい壮太を騙して他の男の子供やもしれない優花を財産目当てにと思った。ここはDNA鑑定でも何でもやってみなければと言い出す始末だった。

 壮太が怒りをぶちまけたのは生まれて初めてだった。「何がDNA鑑定だ。優花は俺の娘た。あんた達…もう充分に美与を傷つけているじゃないか、何でその傷口をほじるような真似をするんだ」純郎と園子に手を掛けるかのような勢いで「優花は俺の子だ間違いはない」と二人を怒鳴った。そして純郎に向かって「美与が優花を妊娠して時、親父あんたは何をした。子供を下ろせ。と言って札束をちらつかせ美与のお父さんに土下座までさせたそうじゃないか…。そこまで俺を自分達の息子を今まで支えてくれた美与が憎いのか…親父お袋あんた達は人間じゃない鬼だ。あんた達が認めようが認めまいが優花はあんた達の孫だ、優花に謝れ、美与のお父さんお婆ちゃんに謝れ」凄みのある声だった。


 純郎も園子も驚いてすぐには声が出なかった。純郎は「今現在、美与さんと別れる事になったように、こうなるのは目に見えていた。まだ美与さんも若いし、これから先またいい人が出来た時に身軽な方がいいと思って美与さんの事を思ってやった事だ」そう釈明した。

 壮太はせせら笑って「そうだろうとも、だが親父…俺がやっぱり美与の所に行くと言ったらどうする。美与がどんな辛い気持ちで別れる決断をしたか、それを思ったら…」と言うと純郎が「それは許さん、お前にはもう珠美さんが居る」と声を荒げた。園子がハラハラしながら見ていた。

 園子のその顔を嘲笑うように壮太が「もう珠美に子供が出来ていて、俺が今出て行くと言ったらどうする」園子は「珠美さんから何も聞いていない」首を横に振った。壮太は「あんたに先に言うと思うか、滝田家に行った時と同じように楠見家に行って札片切ったら」そう言うと純郎が「馬鹿も休み休みに言え」と言った。

 壮太は「その馬鹿を滝田家で、あんたはやったんだよ。楠見家でやったら即刻絶交だろうよ。滝田では、美与の為と我慢をしてくれた。そうとも知らずに俺は滝田の家に行って歓待を受けていた。後から聞いて俺は顔から火が出るほど恥ずかしかった。もういい加減に恥の上塗りはさせないでくれ、親父もお袋も家の為とは言え恥ずかしい事は辞めろ。優花は間違いなく俺の子だ。持って行くほどの銭があるなら上積みして慰謝料として払え…、俺は養育費を払う」もはや純郎も園子も何も言わなかった。


 話し合いがついて美与と壮太の暮らしに終止符を打ったと聞いたその日。愛輪壮から病院に入院していた小枝子の様態が急変した。まるで美与と壮太の別れを見届けるように逝った。義三と美与それに優花に看取られながら…。

 初七日も終り小枝子の夫優三の待つお墓に納骨も済ませた。滝田家の心の支えを失った衝撃は大きく美与は一段と沈んでいった。義三は覚悟はしていたものの、いざ逝かれて見るとポッカリいた心の穴は埋めようがなく寂しかった。

 美与と壮太の問題に奔走して終った。疲れもドッっと出たが病院通いをしながらしのいだ。そして美与も元気の出る様子もなかった。八方塞の感のある中で救いはただ一つ優花の元気な可愛い笑顔や元気な泣き声だった。まだ仕事をする気が起こらず美与は家にこもっていた。そんな美与が義三は心配だった。試練の大きさを思った。小枝子を亡くしもう相談できる人もないと思うと孤独感が襲ってきた。


 義三が病院に出掛けた留守に玄関のチャイムが鳴った。美与は優花を抱いて玄関を開けた。「美与ちゃん」という声が耳に入って、そこに友恵が立っていた。友恵が心配して訪ねてきたのだ、美与は歓迎するでもなく家の中に通した。儀礼的にお茶も出した。友恵は美与が優花を出産して以来、久しぶりの再会にすくすく育っている可愛い優花を盛んにあやしていた。

 お茶を一口飲んで「美与ちゃん、お婆ちゃん亡くなったんだって、学生時代お世話になったのにね」と友恵は涙を浮かべていた。友恵は昔から優しかった。友恵は美与に比べて幸輔という旦那と子供達に囲まれ幸せな日々を送っていた。友恵との話に美与は感情の入らない返事に終始していた。友恵は「やっぱり壮太は、親の言いなりになって美与と別れたんだね」と言った。

 美与は「誰に聞いたの」と聞いた。友恵は今までの美与と誓う事に気付いていた。「誰にって隆司からも小父さんからも聞いたよ」と友恵も戸惑った。美与は「壮太も隆司も父さんも男のくせにお喋りだなー」そう言って一層不機嫌になった。ショックが重なって参っているんだろうと思って「隆司が心配していたよ」慰めるつもりで友恵は言ったが、美与は「余計なお世話よ。そう言って皆に広めてくれりゃ世話ないわ」と一蹴した。


 友恵は「皆に言った訳じゃないよ。私と美与の仲だから」三人の男を庇った。そこで美与は言ってはいけない言葉を吐いた「友ちゃんは優しい旦那さんが居て三人の子供に囲まれ、マイホームも建て幸せいっぱい。それに比べ結婚も出来ない男を選んで子供まで作って捨てられた。可愛そうな美与の顔でも見てやれ、そう思って来たんでしょう」驚いた友恵は落ち着いていた。

 「美与ちゃん何て事を言うの、情けない美与ちゃんらしくもない。確かに壮太も柏木家も悪い、そしてお婆ちゃんを亡くした美与ちゃんも辛かろう。だけど美与ちゃん以上に美与ちゃんのお父さんは辛いと思う、小父さん私に言った。今の美与に何をしてやったらいいのか分からない…だから友ちゃん、仲のいい友ちゃんに会ったら少しは気分も変わるかもしれないってね…そして隆司だって凄く心配しているんだよ。そんな人の気持ちが分からない美与ちゃんじゃないでしょう」と友恵に言われながら下を向いて聞いていた美与が顔を上げた。

 瞑っていた眼に溜まっていたのか涙が一筋頬を伝った。美与はそのままの顔で「友ちゃん帰ってくれる」と言った。友恵は「うん、じゃ帰る。美与ちゃんこれだけは覚えといて…美与ちゃんには優花ちゃんが居る。そして頼りになるお父さんが居る。決して独りじゃないからね」そう言って友恵は帰って行った。


 美与と壮太の別れ話と、それに続いて小枝子の死と言う辛くて悲しい出来事に追われて忙しかった義三がゆっくりと病院で検査を受けて帰って来た。美与は「今日、友恵が来たよ」とだけ言った。義三も「そうか」と言っただけで会話はなかった。二人ともそれ以後も優花の相手をして和むだけで必要以外の事は話さず一緒に居るだけという状態が続いた。

 義三が通院先の病院に居る時ケータイが鳴った。「もしもし、父さん…」「ああ、美与か」「うん、私…優花を連れて二三日、旅に出てくるから…父さん一人で大丈夫だよね」「父さんは大丈夫だけど…旅って何所に行く」「知った人に会わない所に行きたくなっただけ、だから私のケータイ電源切るからね。父さんとの連絡は、私の方からする。じゃあね」「じゃあねって、お前…美与…美与」と言ったが切れた。慌てて義三は美与にケータイ入れた。だがもう美与は出なかった。

 点滴を終えて滝田の家に帰ったのは午後三時を回っていた。チャイルドシートに優花を乗せて出たのだろう、美与の軽自動車はなかった。家の中に入って美与と優花の居る部屋を見た。日頃使っている優花の小物もない、美与が優花を連れて旅に出たことを確認した。義三に一抹の不安が頭をよぎった。


 義三から連絡しようがない以上…美与からの連絡を待つしかない、夕食を済ませ時計を見ながら首を長くして連絡を待った。「何を考えているんだ」とブツブツ独り言を言いながら心此処に有らずだった。七時過ぎケータイが鳴り義三は急いで取り「もしもし、美与か…」と言うと、待ちかねていた美与の声で「もしもし、父さん…今ホテルに着いた所。優花も私も元気だからね」「もしもし美与、何所」と言い掛けると素早く美与が「心配しないで、大丈夫だから。じゃあね」と義三が喋る前に切ってしまった。

 「何が、じゃあね…だ」とまたブツブツ言った。それでも義三は辛い事が続いた後だけに「美与が、もしや」と考えると次から次へと悪い想像が湧いて来て眠るどころではなかった。翌朝も遅くなって「優花も私も元気にしているから…じゃあね」と美与の声だけ聞けた。

 義三は矢も楯もたまらず、この前…家に来て話をしてくれた友恵に何か知っているのではと藁おもすがる思いでケータイを入れた。友恵は「何も聞いていないよ。また、そんな話をする雰囲気じゃなかったから」という答えだった。じゃ待つしかないと言うと「待って…一応隆司と相談してみる」「そうしてくれるか、友ちゃん色々心配掛けてすまないね」そう言って連絡を待つ事にした。

 友恵の連絡を待っていたが、義三には、それを待つ事すらまどろかしい気がした。待つ事数時間「小父さん、隆司が小父さんの家に行くって…今夜か明日の朝早くそちらに着くと思う」と言った「そうか友ちゃん、色々有難う」「小父さん、美与は絶対大丈夫だから…余り心配し過ぎないようにね。小父さん睡眠充分取るのよ」と言ってくれた。ケータイを切った義三は涙が出るほど友恵と隆司に感謝した。


 昨夜も眠っていない所為か少しうとうとしたらしい…美与の連絡を待った。ケータイが鳴って美与の声が聞こえ自分の言いたい事だけ言って切れると言う連絡があった。翌朝九時過ぎ隆司が来てくれた。隆司は義三に聞いた「小父さん近頃の美与ちゃんに特に変わった事はなかったですか、もちろん色のな事が重なって通常ではなかったと思いますが」聞かれて義三は考えが今の美与はすべてが変わっているように思えた。しばらくして「そうだ、これが特別かと言われれば頭を傾げるが…一寸待ってくれ」義三は何か思い出そうとしていた。

 「そうだ、そう言えば…こんな歌を口ずさんでいたなー。ハナワ、ナーガレテドコドコユクノー…ナキナサイーワライナサアイってね」隆司はすかさず「それだ、小父さん」と言ってケータイを出して「広島発十一時四十分か…ここから車を飛ばせば間に合う。小父さん、これから行って来るわ」と言った。

 義三は「まさか、沖縄」頭に?マークが点いていた。隆司はもうタクシーを呼んで落ち着かず行ったり来たりしていた。義三もイライラしていたが今は隆司をなだめる方に回った。義三が聞く「隆司さん確かか?もしも行って違っていたら」心配そうだった。隆司は確信を持っているらしい「間違いないよ、小父さん…優花ちゃんと美与ちゃんは必ず連れて帰ってくるから」今度は義三が慰められた。


 隆司がタクシーに急いで乗ると滝田の家の前を走り去った。果たして沖縄に居るのだろうか…たぶん隆司は友恵から連絡を受けて自分の仕事もそっちのけで飛んできてくれたに違いない。義三は己一人の無力さを思い知らされれていた。そして美与と優花が沖縄に居てくれる事を願う一方で、もしも居なかったらと思うと気が気ではなかった。

 隆司は十三時三十分那覇空港に定刻通り着いた。那覇空港から以前来た時に宿泊したホテルに向かった。隆司にとって決して良い思い出のホテルではなかった。しかし今、そんな事を言っている場合ではない。そう思いながらも五人で来た時の隆司は苦痛以外の何物でもなかった。その苦痛を救ってくれたのは潜った時の沖縄の綺麗な海だった。その海を今、美与は父と暮らせない子…優花を抱いて海を見ているに違いない。


 沖縄リゾートビーチのホテルに着いて確認すると、やはり美与は来ていた。今赤ん坊を連れて出掛けたと言う、とりあえず義三にケータイを入れた「もしもし小父さん、美与ちゃんも優花ちゃんも元気です。明日の十三時二十分発の広島行きで連れて帰りますから」そう言うとケータイの中から「そうかー良かったー…隆司さん…有難う、有難う」と義三は声を詰まらせた。隆司は「これから心当たりを当って見ますから」と言った。義三は「お願いします」と言うのが精一杯だった。

 隆司は明日の十三時二十分発広島行きの搭乗券を手配した。そしてホテルに部屋を頼んだ。シュノーケルの時に使う建物まで歩きながら美与と優花を探し回った。その建物まで辿り着いた。

 建物の向こうに有る見晴らしのいい休憩所で優花を抱いた美与を見つけた。隆司を見た美与は「隆司…どうして」と驚いた顔をした。隆司は優花を抱いた美与に近づき黙ったまま優花に向いて「おいで」と両手を差し出した。優花が身を乗り出すようにして隆司の手に渡った。

 隆司は優花を一回高く持ち上げて普通に抱いた。優花は声を出して笑った。美与はそれを呆然と見ているだけだった。隆司は優花に向かって「優花ちゃん、黙って旅に出ちゃ駄目だよ。お爺ちゃん気が狂うぐらい心配していたよ。明日は…お空を飛んで、お爺ちゃんの所へ帰ろうね」そう言った。美与は「隆司…」と言ったまま隆司を見ていた。隆司は続けて「優花ちゃん、ここの海の色は綺麗だねーママはこの綺麗な海を見て何を考えたんだろうなー。気持ちの整理はついたのかなー」と言った。美与が「隆司…わざわざ、私の為に来てくれたの」美与の眼に涙が光っていた。南国沖縄の海は熱い太陽に輝いていた。了

題名をつけて書いてゆくうちに、この題名しかないと思った。書いて行けば行くほど、他の題名が考えられなくなった。それは人の愛に終りが無いからだろうか、先の見えない人生そのものだからだろうか。人は生まれて死ぬまで様々な愛で、愛し愛されいるものだから…。生きている今、その…ゆくえ…はわからない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 世界が違う。 自分のルーツをなぞって生き方を考えねばならん。 みんなそうしてここまできとる。 そういう言葉を、その土地を思い出しました。 彼らのような人生は隣にあるものでした。 こらえて…
[良い点] 一気に読ませて頂きました。素晴らしいの一言では足りませんが、それしか私には言えません。何と素直で、気取りがなくて それでいて、心を動かすのでしょう。 この作品に出合えて良かったです。 [気…
[良い点] 確かな筆圧がある。 [気になる点] 1話が長すぎて、小説家になろうのライトな層には向かない。 [一言] 若輩者で、未熟な私が評する必要もないくらい筆圧のある作者さんです。 ですがあえてマイ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ