お醤油戦士キッコーマン
ある晴れた夏の正午、股引三太郎は部屋にこもってパーソナルコンピューターと向かい合っていた。
「あーちっくしょー。やっぱ人妻なんて簡単に落とせねーじゃん」
彼はチャットの画面に「うんこ」という文字を羅列させ、画面を閉じた。これからまた請求書の山が自宅のポストに届くのだ、と彼は考えた。そしてそう考えると気が沈むばかりであった。金はない。なにしろ彼はまだ齢十六なのだ。
学校いかなきゃ、と彼は思った。学校に行って女子トイレに設置した小型カメラを回収しに行かねばならない。
しかし立ち上がる気にはなれなかった。窓の外では飛行機雲が見える。
俺も田代さんみたいになれたらなあ。彼は切なげに目を細め、羨望の眼差しで遠くの空を眺めていた。
と、その時、彼は部屋に何かの気配を感じた。
これは人の気配ではない! 彼は直感的にこう感じ、起き上がってさっと身構えた。
しかし部屋にあったのは丸い円筒形のペットボトルであった。中には黒い液体が半分ほどにまで入っている。
醤油? 醤油じゃないか!
そう、部屋の中心に置かれていたのは醤油だった。
一体いつの間に醤油が俺の部屋に忍び込んできたのだ!
彼は恐ろしくなった。醤油が部屋にあるはずもない。今朝の食事はパンだったのだ。
じゃあ俺はパンに醤油をかけて食ったんだろうか? と三太郎は顎に手をあてて考え込んだ。
いや、やはりそんなはずはない、と彼は思った。なぜならパンに醤油などかけないからだ。なぜならパンに醤油などかけないからだ。
彼は二度頭の中で繰り返し、醤油をどけて、床のカーペットに寝転んだ。
三太郎はこのような変哲のない日々を繰り返していた。わかってはいるがどうにもやめられないぬるま湯のような生活。
俺はいつからこんな人間になってしまったのだろう。彼はこう考え、過去の輝いていた自分を思い出していた。
そして色々思い出した後で彼は一階にジュースを取りに行った。暑くて喉が渇いてしまったのだ。
母は一階でテレビを見ていた。三太郎は昼ドラの何がおもしろいのかまるでわからなかった。
しかし母にまた何か小言を言われたらたまったものではないので、彼はそろりそろりと台所に入り、冷蔵庫を開けた。
「あっ、あんた何やってんの!」母は三太郎に気づき、思わず叫んだ。「ピルクルは駄目よ! ピルクルは駄目なんだから!」
三太郎の母は便秘気味であった。
「うるせぇ!」三太郎は叫んだ。「ピルクルなんかいらねぇよ!」
あれ? と三太郎は思った。じゃあ何で叫んだんだろう。ピルクルを飲む気がないんだったら叫ぶ必要もなかったじゃないか。
俺の馬鹿野郎! 彼は心の内でいきり立った。叫んだりすることは体に良かったりするけど人がいる前でやると迷惑になるから車の中でドアを閉めきって人気のないところで叫ぶといいよって笑瓶さんのラジオで言っていたじゃないか! 俺の馬鹿野郎!
まあいいや、と彼は思った。ラジオの言ってることって聞いてる人少ないと思ってけっこうでたらめ多いんだよね。
彼は憤りをなんとか抑え、冷蔵庫からピルクルを取り出した。
部屋に戻ると空気が一変しているのが彼にはわかった。一階に飲み物を取りに行く間にこの部屋で何かが起こったのだ。
彼はそのことを敏感に感じ取り、恐ろしくなった。手が震え、冷や汗が背中をつたった。
俺はクーラーをつけたのだ! 彼はとうとうそのことに気づいた。俺はクーラーをつけたのだああああ!
目覚めたとき、彼は全身にびっしょりと汗を掻いていた。
夢? 今までのは全て夢だったのか?
彼は部屋を見渡し、何も変わっていないことを確認してから肩を撫で下ろした。
おいおい、どうしたっていうんだ俺は。こんな悪夢を見るなんて。
彼は自嘲気味にそう考え、立ち上がって窓を開けて新鮮な空気を吸い込んだ。
海のような青空に、飛行機雲が螺旋を描いて飛んでいた。
俺もいつかパイロットになってやる。三太郎は空を見上げながら思った。それが無理ならこのまま引きこもってやろうじゃないか。
その時、ふと部屋に妙な気配を彼は感じた。
何かがこの部屋にいる。
その気配はあまりに禍々しく、彼の背中を波のような寒気が襲った。三太郎は窓の傍から身じろぎ一つできなかった。
動けば殺される! 彼は狂人のような目を床に這わせ、ゆっくりと背後に首をねじった。心臓はまるで今しがた動き出したかのように飛び跳ね、途端にぐっと息が詰まった。鼓動はあたかも警鐘のように体の中を反響し、彼の血はすぐさまどろりとした熱を持ち始めた。
しかし背後にあったのは丸い円筒形のペットボトルであった。中には黒い液体が半分ほどにまで入っている。
醤油? 醤油じゃないか!
そう、部屋の中心に置かれていたのは醤油だった。
一体いつの間に醤油が俺の部屋に忍び込んできたのだ!
彼は恐ろしくなった。醤油が部屋にあるはずもない。今朝の食事はご飯とホウレン草のおひたしだったのだ。
じゃあ俺はホウレン草に醤油をかけたとでもいうのか! 三太郎は恐怖のあまり壁際に張りつきながらこう考えた。
ずばりその通りじゃないか! 俺はホウレン草のおひたしに醤油をたっぷりかけたのだ!
彼は納得すると醤油をどけて、床のカーペットに寝転んだ。それから天井を見上げ、笑瓶さんのラジオを思い出していた。
醤油ってその家庭によって熟成の度合いが違うからそれぞれの家庭によってそれぞれの味があるんだってさ!
すぐさま眠りはやってきた。彼はクーラーの心地いい風の中でゆっくりと闇に落ちていくのがわかった。今度は悪夢を見たくない。
彼は薄れゆく意識の中で思った。
キッコーマンさん、俺のこと訴えないでねお金ないから……。
あとラジオも。