【第9話】
二人との会合を終え、自宅アパートへ帰宅した蓮がまず行ったのは、会社の勤怠管理システムへのアクセスだった。
明日は月曜日。本来なら出勤日だが、蓮は迷うことなく「有給休暇申請」のフォームを開く。
理由は「体調不良」。期間は明日から一週間。
(……申し訳ないとは思うが、今は仕事どころじゃない)
蓮は送信ボタンをクリックした。
突然一週間も穴を開けるとなれば、現場には多大な迷惑がかかるだろう。だが、蓮にとって自分自身と、なにより悠真と結の生存以上に優先すべき事項など、この世界には存在しない。
(もし杞憂であれば、それはそれでいい……どうせ余っている有給を消化するだけだ)
この一週間は、蓮が定めた「観測期間」だ。
魔物の出現ペースはこのまま「継続」するのか、自衛隊などの武力介入によって「収束」するのか、それとも加速度的に「増加」していくのか。
その傾向を見極めるための猶予である。
それに、今のペースのまま低頻度で推移するのであれば、魔物との遭遇は極めて稀な「事故」として処理されるだろう。
交通事故や突発的な病気で、理不尽に命を落とす人間は、元からこの世界にたくさん居る。
魔物がその死因の一つに追加されるだけなら、社会はそれを「不幸な事故」として飲み込み、日常を続けていくかもしれない。
家族を事故で失った蓮は、社会がいかに個人の死に対してドライで、健忘症的であるかを誰よりも知っていた。
だが、もし「増加」するなら――それは文明の終わりを意味するかもしれない。
どちらに転ぶにせよ、働きながら片手間で対処できる状況ではない。
◇
二人への注意喚起を終えた日曜日は終わり、有給初日の月曜日。
蓮は朝からテレビとネットで情報を収集しつつ、大規模な買い出しへと繰り出していた。
テレビのワイドショーは、連日絶えない魔物の目撃情報で持ちきりだった。
しかし、その扱いはまだエンターテインメントの域を出ていない。「UMA専門家」という胡散臭い肩書のコメンテーターが得意げに持論を展開し、スタジオが驚いたり笑ったりする。そこに生存に関わる有用な情報は皆無だった。
一方で、報道番組ではキャスターが険しい顔で政府の対応の遅れを指摘していた。
存在が確認できない「魔物」はともかく、全人類に出現した「ウィンドウ」については、何らかの発表があってしかるべきだと訴えているのだ。
「政府からの正式発表はまだないのか」「事態を把握しているのか」と、マスコミが苛立ち始めているのが画面越しにも伝わってくる。
おそらく政府も混乱しているか、パニックを防ぐために情報を秘匿しているのだろう。
(……だが、時間の問題だ)
蓮は確信していた。
政府が「魔物は実在する脅威である」と正式に認めた瞬間、世界は変わる。
恐怖した人々がスーパーやホームセンターに殺到し、水、食料、燃料といった物資は瞬く間に姿を消すだろう。
だからこそ、昨日あのタイミングで二人に警告し、自分も今日動いているのだ。
蓮が運転しているのは、昨日予約して今朝借り受けたレンタカーの軽トラだ。
期間はニ週間。
さらに、自宅アパートの大家に頼み込み、空いていたガレージの一つを追加で借りる契約も済ませてある。
ホームセンターと業務用スーパーを回り、軽トラの荷台には段ボール箱が積み上げられていく。
カセットコンロ、大量のガス缶、保存水、缶詰、乾麺、衛生用品。
そして、借りていたバールよりもリーチの長い、武器の代わりになりそうな物――柄の長さ90cmの薪割り斧も数本購入していた。
一般的な独身男性の買い物量ではないが、今の蓮にはそれを可能にするだけの潤沢な資金があった。
ここまでなら、普段からの貯金を崩してなんとかできる範疇だったが。それ以外にも、数年前に家族全員を失った際、彼の手元には遺産と多額の死亡保険金が残されていたのだ。
それは家族の命の対価であり、蓮にとっては使うに使えないものとなっていた。
だが今、自分と、家族同然の二人を守るために使うのであれば――亡き両親や妹も、きっと許してくれるはずだ。
「……積めるだけ積むぞ」
蓮はハンドルを握り直し、次の目的地へと軽トラを走らせた。
買い出しを終え、自宅に戻った蓮は、息つく間もなく次の行動へと移行した。
パソコンのモニターでニュースサイトとSNSのタイムラインを自動更新させ、常に最新情報を視界の隅に入れながら、狭い室内で黙々と体を動かし始める。
行ったのは、自重による筋力トレーニングと、反復横跳びやバーピーなどの瞬発力向上トレーニングだ。
世界での魔物報告件数は、次第に、しかし確実に増加している。
これが一時的なピークなのか、それとも指数関数的な増加の予兆なのかは、まだ判断がつかない。
だが、蓮には明確なトレーニングの目標ができていた。
(まずは、STR(筋力)だ。あの時、俺のバールは通じなかったが、五十嵐さんの金槌はゴブリンにダメージを与えていた……)
蓮の脳裏に、あの時のステータス数値が蘇る。
五十嵐のSTRは「13」。対して当時の蓮は「8」。
この「5」の差が、生物としての格、ダメージが通るか否かの境界線だったのかもしれない。
ならば、早急にSTRを13以上に引き上げなければ、次に遭遇した時も決定打を持てないことになる。
(もう一つは、AGI(敏捷性))
蓮は自身の《解析眼》を発動させながら、飛んでくる埃の動きや、時計の秒針の動きを追う。
1秒先の未来が視えていても、今の蓮の肉体スペックでは、その予知に反応しきれない。
「あ、殴られる」と視えてから体を動かしても、筋肉の収縮速度が遅ければ結局は被弾する。
宝の持ち腐れにならないためには、視えた未来に即座に反応できるだけのAGIが不可欠だった。
(本当なら……この眼があれば、俺は二人のサポートに回るべく、遠距離の立ち位置を取るのが理想的だと思うが……)
未来が視えるスナイパー。それが最も安全で、最も凶悪な役割だということは論理的に導き出せる。
だが、蓮はその選択肢を思考から切り捨てた。
理由は単純だ。ここが日本だからである。
銃社会のアメリカならともかく、この日本で強力な遠隔攻撃武器――銃器を入手するルートは皆無に等しい。弓やクロスボウでさえ、どこでも置いてあるものではない。
故に、DEX(器用さ・遠隔物理)へのリソース配分は後回し。
そして、INT(知力・おそらく魔法の威力?スキルかもしれない?)についても同様だった。
(ファンタジーなら魔法があるかもしれない。だが、現状「魔法」という現象は一度も観測されていない)
もしかしたら、INTを上げれば火が出るようになるのかもしれない。だが、それは「不確定な希望」でしかない。蓮は不確実な博打は打たない。五十嵐の物理攻撃が通じたという「事実」だけを信じた。
殴れば死ぬ。物理でなら殺せる。
その確定した解だけを頼りに、蓮は汗だくになりながら腕立て伏せを繰り返した。
視界の隅で、STRの熟練度バーが、ミリ単位でじりじりと上昇していくのを噛み締めながら。
◇
そして、有給2日目の火曜日。
ついに、事態は急変を迎えていくのだった。




