【第3話】
坂の下、舗装された歩道を一組の親子が走っている。
その後ろから追いかけてくるのは、どう見ても日本という日常には存在し得ない、異形の怪物だった。
醜悪な緑色の肌。子供のような背丈でありながら、その表情には楽しんでいるような残忍な笑みが張り付いている。
あまりにリアルな質感と、生物としての生々しい動き。それがかえって、蓮に「これは現実だ」という強烈な実感を叩きつけた。
思考するよりも早く、体が動いていた。
蓮は斜面を駆け下りると、勢いのまま親子とゴブリンの間に割って入る。
「はやく! 逃げてくださいッ!!」
蓮の怒号に反応し、ゴブリンが驚いたように一歩後ろへ飛び退いた。
新たな「標的」の出現に、警戒心を露わにしている。
だが、背後の状況は最悪だった。
蓮が割って入ったのとほぼ同時に、限界を迎えていた母親が足をもつれさせ、激しく転倒してしまったのだ。
「お母さん! 大丈夫!?」
子供が泣き叫びながら必死に母親の手を引く。しかし、足を挫いたのか、母親は苦悶の表情で地面を這うことしかできない。逃走は不可能だ。
蓮は奥歯を噛み締めた。
蓮は特別、正義感が強い人間ではない。だが、目の前で幼い子供と母親が理不尽な暴力に晒されているのを見過ごせるほど、倫理観が欠如してもいない。
何より――蓮の脳裏に、かつて失った家族の記憶がフラッシュバックする。
家族の死。
その喪失の痛みと恐怖を誰よりも知っているからこそ、蓮は「見捨てる」という選択肢を無意識に排除していた。
相手は自分より体格が小さく、腕力も弱そうに見える。
ここは裏山の正面道路。人通りこそ少ないが、道路を挟んだ向こう側では古いアパートの解体工事が行われている。工事作業員たちが騒ぎに気づき始めていた。
さらに視界の奥、ゴブリンが走ってきた方向からは、二人組の警官らしき人影がこちらへ向かって全力疾走してくるのが見えた。
(少しだ……ほんの少し注意を引いて時間を稼げば、きっとなんとかなる……!)
やばくなっても、警官たちがすぐに到着する。
そう計算し、蓮は逃げずにその場に踏みとどまり、ゴブリンと対峙した。
ゴブリンは爬虫類のような瞳を細め、蓮を値踏みするようにじっと見つめる。そして、蓮が武器を持っていないこと、ただの人間であることを確認したのか――その口元が、三日月形に裂けた。
「ギィッ!!」
高い鳴き声と共に、ゴブリンが地面を蹴った。
(――速い!)
助走から、獲物に飛びつくような跳躍。右手の鋭く長い爪が、袈裟斬りの軌道で蓮に迫る。
(――ッ!?)
蓮は学生時代、殴り合いの喧嘩くらいは経験があった。だが、それはあくまで加減を知る人間同士の、泥臭い喧嘩だ。
これほど明確な「殺意」を向けられたのは初めてだった。
喉元に突きつけられた刃物のような恐怖に、体がすくむ。
(よく見ろ……! ゴブリンの動きをよく見ろ……! 躱す……躱すんだ……!)
死の恐怖をねじ伏せ、蓮は限界まで目を見開き、意識を研ぎ澄ませた。
その瞬間――世界が変質した。
ゴブリンの体から、何かが抜け出したように見えた。
(――残像!? いや、違う)
残像とは普通、動いた後に影のように追従するものだ。だが、これは逆だった。
実体に先行して、『電脳青』に輝く『輪郭線』が、目の前に描画されていく。
それはまるで、これからゴブリンが辿る軌跡をあらかじめ示すガイドラインのようだった。
次の瞬間、ゴブリンの実体がその青の枠へと吸い込まれるように動き、輪郭線と完全に重なった。
ワイヤーフレームが実体の色へとグラデーションで塗りつぶされ、現実の光景へと収束していく。
蓮は直感的に、その現象の意味を理解した。
(――これは……! ゴブリンの未来の動き……!? これも、もしかして!)
蓮が、視界の端に意識を向けると、やはり《解析眼》のスキルアイコンが緑色にうっすらと点灯していた。
青の先行輪郭線を参考に、蓮は回避を試みる。
後ろに飛びのき距離をとるのが一番安全だと思った。
(――後ろには親子が居る! それに、あまり遠くへ飛びすぎると、ゴブリンのターゲットが再びあの親子へ向くかもしれない……!)
後ろに下がるという選択肢は削らざるを得ない。左右へのぎりぎりの回避を狙うしか無い。
蓮の持ち合わせている計算の速さと、生来の冷静な側面が、一瞬のうちにそこまで思考を回転させた。
――しかし、現実は蓮の高速思考をも上回る。ゴブリンは、予想以上の素早さを見せつけた。
(――速すぎるッ!)
蓮はぎりぎり道路側へ、体を捻るように少し飛んで回避できた――そう思った。
(あ……れ……?)
気がつくと蓮は地面に手をついていた。
脇腹がとても熱い。
焼けるような熱さと、ビリビリとした痛みが一拍遅れて襲ってくる。
「ぐ……!! ぐぅぅっ……!」
ゴブリンのあまりの速さに、軌道が見えていたのにも関わらず、回避が間に合わなかったのだ。
そして、あまりに鋭いゴブリンの爪攻撃は、蓮のジャージも、皮膚も、肉も、まるで抵抗がまったく無いかのように、空を切るかのごとくすんなりと切り裂いた。
そのため、斬撃の瞬間には衝撃も抵抗も生まれず、「攻撃を受けた」という実感がまるで無かったのだ。
脇腹を押さえる指の隙間から、ポタポタと血が零れ落ちる。
そんなに深くは無いが、筋繊維に達しているかいないか、おそらく2cmに満たない深さだろう。
自分の状態が気になると、自然とHPが簡易表示される。
HP 28 / 30
(たったの2……? 痛い……痛すぎる……こんな……ゲームみたいな表示をするくせに……こんなにも痛いのかよ……!)
そう悪態をつく蓮に、この強烈な痛みが、これはゲームではないという冷厳な事実を突きつけてくるのだった。
その一連の攻防の間に、二人の警察官が現場に到着した。
「君! 大丈夫か!? 離れていなさいっ!!」
蓮は痛みをこらえながらもすぐにゴブリンから距離をとる。正確には親子の方へ飛び、親子の正面に立ってゴブリンから守る形だ。
蓮を標的に定めていたゴブリンはそのまま追いかけようとしたが、その足元で、乾いた破裂音が弾けた。
駆けつけた警察官による威嚇射撃だ。
ダァンッ!!
乾いた破裂音が鳴り響く。
今の警察官はボディカメラを標準装備している。拳銃を発砲するに足る正当な状況を録画しているのだ。
引きずるように逃げる親子、血を流して傷ついた蓮、そこに佇む得体の知れない怪物……。一部事例の無いものもあるが、発砲許可の判断には十分な状況かもしれなかった。
そこで蓮も思い出したかのように、ARグラスでの録画を開始する。
「ギィ゛ィ゛ィ゛!!!」
ゴブリンはまたもや邪魔が入り、怒りを露わに叫び声をあげる。
凶暴な威嚇行動を見せ、今にも警察官に牙を剥きそうだった。
それを見た警察官は、今度は威嚇ではなく、命中させるつもりで拳銃を連射した。
ダァンッ!! ダァンッ!!
蓮ははじめて実物の銃を見て、実際に発砲される所を見た。
音も大きく、硝煙の匂いが漂う。弾丸はゴブリンの頭部と腹あたりに当たったように見えた。
(やった……!)
そう思った蓮だったが、それは一瞬にして思い違いであった事を認識させられる。
着弾の瞬間、緑色の皮膚がゴムのように波打ち、衝撃をすべて飲み込んだのだ。傷一つ、ついていない。
鉛の弾丸は、まるで分厚い鉄板にでも阻まれたかのようにクシャリとひしゃげ、筋肉に食い込むことすらできずにポロリと地面に落ちた。
ゴブリンは「痛っ」とでも言うように頭を振っただけで、致命傷には程遠い。小石でもぶつけられたかのような、そんな軽いリアクションを見せただけだった。
(そんな……!?)
蓮だけでなく、見ていた者全員が息を呑んだ。
ゴブリンの怒りは増した様子で、標的を警察官に変えて襲い掛かる。
「ギャ゛ャ゛ャ゛ア゛!!!」
ダァンッダァンッダァンッダァンッ!!
二人の警察官は襲い来るゴブリンにリボルバーの残りの弾を全て撃ち尽くすが、効果は薄いようだ。
効かない以上、とにかく肉弾戦で取り押さえるしかない。
だが、子供のような体格のゴブリン相手に、警察官は二人がかりでも取り押さえるのが難しそうだった。
あの小柄な体のどこにそんな力があるのか。
凶器となっている手を、一人が片手ずつ地面に押さえつけるが、警察官の体が時々浮かされている。
ゴブリンの手が少し自由になるたびに、爪で警察官の丈夫そうな服でさえも何も抵抗が無いかの如く切り裂き、胴体や脚の肉にまで到達する。
押さえつける事さえ完全にできておらず、傷も深くなっていくばかりの警察官二人。
(くそっ……! このまま黙って見ていれば、いずれ……)
「見てたぜ、兄ちゃん、アンタ勇敢なんだな……! これを持ってな……!」
「……え? あ、ありがとうございます……」
道路向かい側の工事現場から、一人の作業員姿の男が走ってきていた。蓮から見て30代後半くらいに見える、服越しでも筋骨隆々で、他の作業員とも別格、日本人離れした体格だった。
彼は親子の正面で守ろうとする蓮に声をかけつつ、現場から持ってきたであろう、柄の長いバールを手渡してきた。
そして、自身は釘抜き付きの大きな金槌を片手に、警察官に加勢しに走る。
「なぁ! 警官さん! もう、ヤっちまってもいいんだよなァ!?」
加勢にいったガタイの良い作業服の男は、両手を押さえるので精一杯の警察官にそう声をかけつつ、凶暴な牙も持つゴブリンの顔……首元を踏みつけ、靴底でグリグリと押さえつけながら金槌を構える。
「正当防衛だ!! 私が証言する!! 頼むッ!!」
自分の命さえ危うい状況で、必死の形相となった警察官がそう叫んだ。
ゴブリン相手に正当防衛も何もあるのかわからないが、とにかくこのまま殺されるよりはマシに違いなかった。
それを聞いたガタイの良いお兄さんは、ゴブリンの脳天目掛けて金槌を全力で振り下ろした。
(うわ……あれは終わった……)
ゴシャッ、と鈍い音が響く。
蓮はそう思った……しかし、一瞬でその想像を消す。さっきの拳銃が効かなかった事を思い出したからだ。
ドムッ!!
鈍い音を立ててゴブリンの頭部に直撃したが、思い直した通り、ゴブリンの脳天は割れなかった。
「グギィ゛ィ゛ィ゛!!」
しかし、この一撃はゴブリンにとって無傷では無かった。あきらかに痛そうに絶叫し、頭部からは赤黒い血が垂れている。
「あいつは俺達が何とかします! だから、少しでも距離をとって、逃げてください!」
効いた様子を見て、蓮はもう一度加勢を決意する。背後の親子にそう言い残し、ゴブリンを取り押さえている現場へと走る。作業服のお兄さんに手渡された解体現場用の長いバールを強く握りしめて。
(警察官がやられたら、俺も作業員の人も……そしてあの親子をまた狙いにいくかもしれない……。ここでなんとかしないと……!)
三人がかりでゴブリンの両手と首を押さえにいっているが、警察官たちの傷はどんどん深くなっている。
蓮はゴブリンのジタバタしている足元に立ち、バールを大きく振りかぶった。
「うおおおおおーーーッ!!!」
成人男性である蓮が、こんな鉄でできた鋭いバールを本気で振り下ろせばどうなるか。
普通なら、一撃でゴブリンのこの細い足を、肉も骨も折り砕いて切断してしまいそうだ。
しかし、拳銃、そして金槌での攻撃がまったく致命打にならなかったのを見ている。
蓮は躊躇なく、全力の本気で振り下ろした。
バールの先端の曲がった方……あきらかに殺傷力の高い場所が、ゴブリンの脛あたりにヒットする。
ドンッ!!
――やはり、骨を折り砕く感触は返ってこなかった。
蓮の手元に残ったのは、まるで、あまりにも硬い粘土を叩いたかのような不思議な感覚だった。
跳ね返されるような金属の感触でもないが、柔らかい肉のそれとも違う。あまりに高密度で硬い粘土。
「グギィ゛!!」
あの作業員の金槌による攻撃ほどの効き目は無さそうだが、止めるわけにもいかない。
(警察官が身を挺して押さえつける事に徹して傷を負っていってるんだ! 俺とこの作業員の人がなんとか仕留めないといけない……!)
「「うわぁああああーーー!! うおぉぉおおおーーーー!!!」」
警察官が必死に押さえつける中、蓮と男は、それから実に30秒もの間、何度も何度もゴブリンを叩き続けなければならなかった。
大の大人が二人掛かりで、鉄のバールと金槌を全力で振るっているのだ。普通なら数発でミンチになっているはずだ。
だが、叩けども叩けども、ゴブリンは動きを止めない。叫び声と鈍い打撃音が混ざり合う、永遠にも感じる泥臭く凄惨な時間。
メキャッ……!!
男の金槌がゴブリンの頭蓋を陥没させ、グチャリと嫌な音を立てながら引き上げた。
ゴブリンはビクビクと激しく痙攣した後、ついに動かなくなった。
「はぁ……! はぁ……! はぁ……やった……のか……?」




