【第1話】
――世界は、どうしてこうも理不尽で、不確定なのだろうか。
原因に対する結果が、イコールで結ばれない。
どれほど強固な石垣を積もうとも、どれほど慎重に歩を進めようとも、たった一つの「不運」という名の乱数が、すべてを無に帰すことがある。
――それに、理由など無いのだろうか。
かつて、何の落ち度もない家族が一瞬で奪われたあの日から、凪瀬蓮の心には、常にこの世界への根源的な問いと、静かな怒りが澱のように沈殿していた。
――知りたい。
この世界がどのような法則で動き、何を望んでいるのか。
その構造さえ理解できれば、理不尽な確率に怯えることなく、確かな「解」を手繰り寄せられるはずだ。
そんな、世界そのものを解き明かしたいという渇望が、浅い微睡みの中で繰り返されていた。
休日特有の気だるさを伴って、蓮はゆっくりと重いまぶたを持ち上げた。
「んん……」
肌を刺す空気が、冬の名残を伝えている。季節は冬も終わりかけ、春を待つ少し肌寒い時期だ。
八王子市郊外、開発から取り残されたような人の少ない地区にある、古びたアパート。その二階にある自室。
カーテンの隙間から差し込む光が、埃の粒子を照らし出している。
窓の向こうには、視界を遮るように裏山の緑が迫っていた。あの尾根を一つ越えれば、そこは日野や多摩の市街地だ。
だが、山に阻まれたこの場所には、都市の喧騒は一切届かない。聞こえるのは、風が畑を渡る音と、鳥のさえずりだけだ。
元々は実家暮らしだった蓮だが、天涯孤独となってしまった際、家族との思い出が詰まったあの家で一人過ごし続けるのは辛かった。そのため、都心を離れてこの静かな場所へ移り住んだのだ。
枕元のスマートフォンを手繰り寄せ、画面をタップする。時刻は昼前を表示していた。
予定のない休日。社会人としては少し堕落した時間の使い方だが、誰に咎められることもない。
蓮は上半身を起こし、凝り固まった背筋を伸ばすように大きく伸びをした。
Tシャツの袖から覗く腕は、肉体労働と普段からの筋トレにより培われたしなやかな筋肉で引き締まっている。
無造作にかき上げた髪は、かつて染めたアッシュグレー(灰白色)が退色し、根元が黒く伸びたプリン状態。襟足が少し長めのマッシュウルフだ。
洗面台の鏡に映る蓮の姿は、手入れをサボった髪型だったが、目元にある泣きぼくろと、どこか冷めたような表情……それも顔立ちのいい彼には不思議と馴染んでいた。
ふと、今日の身体の調子を気にした――その瞬間だった。
自身の肉体から返ってくるフィードバックに、奇妙な違和感を覚えたのは。
通常、人間が感じる体調の良し悪しとは、極めて曖昧な感覚値だ。「なんとなく体が軽い」「どことなく重い」といった、言語化しにくいアナログな信号に過ぎない。
だが、今の感覚は違った。
明確だった。
今の自分の筋肉の張り、血液の循環、残存する体力。それらが「解」として脳内に弾き出されるような、異常なまでの解像度。
まるで、ぼやけていた視界のピントが、極限まで合わせられたかのような鮮明さ。
蓮がその感覚の意味を理解しようと意識を凝らした、次の瞬間。
何もない虚空に、電子的な光が走った。
半透明のウィンドウが、視界の中央に展開される。
それはARグラス越しに見るような浮遊感とは異質だった。
そこには、現実と映像の間に生じるはずのわずかなズレも、焦点が合わない不快感も、一切存在しない。
まるで最初からそこにあった景色の一部であるかのように、恐ろしいほど自然に、視界と完全に融合していた。
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Name:凪瀬蓮
Age :24
Job :一般人
HP :30 / 30
MP :40 / 40
STR:8
VIT:7
DEX:9
AGI:8
INT:12
MND:10
LUK:3
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「なんだ、これは……」
蓮の口から、乾いた言葉が漏れる。
それは、ゲームも趣味の一つである彼には見慣れた、しかし現実にあってはならない「ステータス画面」そのものだった。
「俺の名前……俺のステータス……? レベルは……? ……じゃない!」
幻覚かと思い、目をこする。消えない。
顔を背ける。ウィンドウは視線に追従してくる。
だが、「邪魔だ」と思ったその瞬間――スッと端へ移動し、ウィンドウは小さく簡易的なものへと変化する。ちょうど蓮が、邪魔と感じない状態となった。
詳細を知りたいと意識すれば、必要な項目だけが拡大された。
あまりにもUIとして完成されすぎていた。
蓮は無意識に目元へ手をやった。
当然ながら、愛用しているAR(拡張現実)グラスなどかけていない。
スマホに怪しいアプリをインストールした覚えもなければ、脳にチップを埋め込んだ記憶もない。
しかし、目の前の数値は、確かにそこに在り続けている。
まだ寝ぼけているのか。それとも、あまりに世界のことばかり考えていたせいで、夢の続きを見ているのだろうか。
蓮はぼんやりとした頭のまま、ただ不思議そうにその数値を眺めていた。
蓮は頭を強く振り、残っていた眠気を無理やり追い払った。
意識が覚醒するにつれ、目の前の現象に対する冷静な分析よりも、生理的な嫌悪感が競り上がってくる。
(……気味が悪い)
蓮は日頃からゲームに親しんでおり、こうしたUIへの理解も深い。
もしこれが、最新のVRMMOや自分が待ち望んでインストールしたゲームであれば、この没入感に心を躍らせ、楽しんでいただろう。
だが、これは違う。同意もなければ、終了するためのログアウトボタンもない。
土足で精神の聖域を踏み荒らされたような、得体の知れないモノが、自分の視界、いや脳内に居座っている感覚。
蓮が強い拒絶の意思を持って「消えろ」と念じると、ウィンドウは抵抗することなく、ふっと霧散した。
視界がクリアになる。だが、違和感の残滓は消えない。
蓮は、机の上に置いてある愛用のARグラスと、スマートフォンを手に取った。
もしこれが、新手のウイルスやハッキングによる悪質なイタズラだとしたら、必ず物理的なデバイスを経由しているはずだ。
スマホの画面をタップし、インストールされているアプリ一覧をスクロールする。バックグラウンドで動いているプロセスも確認する。
ARグラスも起動し、ファームウェアのログをチェックする。
「……それらしきものは、見当たらないな」
怪しいアプリも、不正なアクセスの痕跡も見当たらない。
そもそも、デバイスを身につけていない裸眼の状態で見えていたのだ。網膜に直接映像を焼き付けるような技術など、この2035年に至っても聞いたことがなかった。
(だとしたら、脳への直接干渉か?)
蓮はプログラミングやガジェットにはそこそこ詳しいが、神経科学や未知のテクノロジーに関しては専門外だ。推測の域を出ない。
まだ寝ぼけているだけかもしれない。
そう自分に言い聞かせ、蓮はもう一度、意識を集中してみた。
確かめるのが怖い。だが、確かめないままではいられない。
「ステータス」
それを口にせずとも、先ほどは意識しただけでステータスが表示された。だが、確実な実験のため、その単語を紡いでいた。
――フォン。
電子音が鼓膜ではなく脳内で鳴る。
先ほどの簡易ウィンドウだけではない。今度はより詳細な情報を含む「メインメニュー」までもが、視界いっぱいにフルオープンされた。
【ステータス】タブの横に並ぶ、【装備】【スキル】【ショップ】【システムログ】といった見慣れた、しかし現実にはありえない項目たち。
装備欄には『パジャマ』、スキル欄には《解析眼Lv.1》という文字が無機質に並んでいる。
「うわっ……!」
蓮は反射的にのけぞり、慌てて「閉じろ!」と強く念じた。
ウィンドウが瞬時に格納される。
心臓が早鐘を打っていた。
見てはいけないものを見てしまったような、世界の裏側に触れてしまったような恐怖。
(俺だけか? 何かの病気か……あるいは特定個人を狙ったサイバーテロか……? いやいや……)
焦りから、心の中で早口に呟く。自分が何かに侵されているような、根源的な恐怖を感じていた。
椅子に滑り込むと、デスク上のPCを乱暴に起動した。
モニターの光がつくまでの数秒が、永遠のように長く感じる。
パスワードを打ち込み、ブラウザを立ち上げ、検索窓に文字を打ち込もうとして――その手前で、指が止まった。
検索するまでもなかった。
ニュースサイトのトップページ、SNSのトレンド、動画サイトのサムネイル。
ネット上のあらゆる場所が、同じ話題で埋め尽くされていたからだ。
『視界に謎のウィンドウ出現』
『同時多発的な通報相次ぐ』
『異世界転生!?してない!!』
『大規模ARハッキングか』
画面をスクロールする蓮の瞳に、錯綜する情報が飛び込んでくる。
何が起こっているのか誰も把握できていない。ウイルス説、陰謀論、果てはオカルトまで。
『政府が視界ハックの実験を勝手に行っている』
『ついに世界政府の人類家畜化計画がはじまったか……』
『予防接種にナノマシンをいれられていたのが起動したんだ』
根拠のない憶測と恐怖が拡散されているだけで、政府や公的機関からの公式見解はまだ何一つ出ていないようだった。
ただ一つ確かなことは、世界中が原因不明の事態にざわつき始めているということだけだ。




