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4.ペニシリンで淡い夜を。


『十六時五十分発、普通、西明石行きは、一番乗り場から発車します。電車は七両で到着します。』


無機質な案内が、天井のスピーカーから淡々と流れる。


すると、一番乗り場の空気が、わずかに張りつめる。

改札を抜けてきた人々が、示し合わせたわけでもないのに、黄色い点字ブロックの内側へと自然に並び直す。


やがて、七両編成の影がカーブの先に現れる。

ヘッドライトが夕闇に差し込み、ホームにいる人々の顔を一人ずつ照らしていく。


やがて電車は、いつもの位置でぴたりと止まった。


夕凪とテレウァンは、パンパンに張り詰めた満員の車内に踏み込んでいく。


「で、どこに行こうとしてんの?」


夕凪は、まだ赤く腫れた目を下に向け、テレウァンに訊いた。


「知り合いのバーだ。」


「知り合いおったん?ってか、バーって…、あたし未成年なんですけど?」


「そこは大丈夫だ。心配するな。この世界の礼節は弁えておる。酒は一滴も呑まさん。」


「いや、そういうことじゃなくて…。」


電車に揺られて、やってきたのは北新地。

大阪を代表する高級歓楽街だ。

クラブ、ラウンジ、バーが密集していて、接待や商談、裏の話まで自然に交わされる場所である。


その一角にある、『マリン・メロウ』という会員制のバーに、テレウァンは夕凪を連れ、躊躇いもなく入っていく。


バーの中は、低い天井に淡く灯る琥珀色の照明が、空間を静かに包み込み、カウンターの木目やグラスの曲線が、艶っぽく光っていた。

カウンターの奥には、その低い天井では少し窮屈そうな、背の高いバーテンダーが立っている。

男のようで、女性のような立ち振る舞いをしていて、どこか柔らかい印象を醸し出していた。


夕凪とテレウァンに気づくと、軽く手を振って迎えてくれた。


「サナトという人から紹介された、と言えばわかるか?」


「あ、サナちゃんの!聞いてるわ!さ、入って。」


テレウァンは迷うことなく、カウンターの端に座った。


「おい、夕凪。ここ座れ。」


「え、あ…、うん…。」


夕凪は、テレウァンがポンポンと叩いた隣の席に腰掛けた。


「何飲むんだ?」


「な、何があるの?」


「たこわさジュースとかオススメだな。」


「は?マジで!?そんなんあんの!?」


「嘘だよ、ばーか。」


「…あたし、帰る。」


「うわ、冗談ってやつだ!貴様の方が冗談が通じないではないか!」


「タイミングがあるやんか!」


「知らん!もうジンジャエールにするぞ!」


「うふふ。癒やされる兄妹ね。」


バーテンダーは口元に手を抑え、クスクスと二人の言い合いを見て微笑んだ。


「どこがだ。パワルマ、ペニシリンだ。」


「あら、私の名前知ってるの?」


「ああ……。サナトから聞いたんだ。頼む。」


「かしこまりー。」


パワルマと呼ばれたバーテンダーは、カウンターの内側へと体の向きを変える。

ラベルの向きを綺麗に整えられていたボトル達から一本取り出し、カウンターにそっと置く。

そして、ボトルの口に親指を添え、キャップを外した。

グラスを手に取り、縁に指を掛けて角度を確かめる。

次に、氷のケースを開けると、冷気が溢れ出す。

トングで掴み上げた透き通る氷は、カランと気持ちいい音を立てて、グラスの中へ落とされた。

注がれた酒は、他の液体と重なり合いながら、底で色を変えていく。

続けて、蜂蜜色の液体が加えられ、最後に柑橘の香りが一瞬ふわりと香る。

シェイカーは閉じられ、短く、無駄のない動きで振られる。

そして彼は一度だけグラスを回し、氷と液体を静かに馴染ませた。

最後に、グラスの縁を布でひと拭きして、パワルマは何も言わずにグラスをテレウァンへ滑らせた。


続いて、夕凪のジンジャエールも、目の前に滑らせる。


「どうぞ。」


夕凪は、その一連の所作から目を離せずにいた。


「おい!夕凪!聞いてるか!?」


「あ、ごめん。何?」


「ミナミディスコに近づける鍵を握っているのが、こいつだ。」


テレウァンはペラっと一枚のファイルを、カウンターの上に置き、夕凪に見せた。


頼則よりのりこずえ…?」


そのファイルには、一枚の頼則梢という人物の履歴書が挟まれていた。


それはどうやら、会社の面接に出す為に作られたらしく、ピシッと引き締まった黒いスーツを着て映る女性の証明写真が貼られていた。

黒髪のセミロングヘアー。

二十二歳にしては、少し幼気な顔。

まさに新社会人といえる、フレッシュで若々しい表情を見せていた。


「こいつ、知ってるか?」


「いや…、見たことないよ…。」


「そうか。まあ想定内だ。これからはこいつを探す事になる。この大阪府に住んでいることは間違いない。」


「どうやって探すの?」


「SNSだ。そいつはSNSでは随分と人気の奴らしい。」


「え!?有名人なん、この人!?でも見たことないけどなあー。」


「私は、この世界のSNSという文化にまだ慣れていない。夕凪、この女とSNSを介して接触しろ。」


「ええ!?できるかなあ…。」


「やり遂げるんだ。それが講じてミナミディスコを探し出せたら、兄とすぐ再会できる。」


「……わかった。やるよ。」


「よし。そいつは本名で活動していない。恐らく、顔も隠しているかもな。探すのに手こずるかもしれないが、SNSで情報を探るんだ。いいな?明日学校が終わったら、インターネットカフェという場所に行くぞ。」


「あー。明日、朝からでもええよ。」


「は?学校は?」


「行かない。」


「どうしたんだ?朝と全く言ってることが違うし、帰ってきたと思えば泣きついてくるし、この世界の学校はそんな辛い場所なのか?」


「行きたくないったら、行きたくないの!!」


「何だよ、急に声張り上げやがって…。私は癇癪かんしゃく起こす女がこの世で最も苦手なんだよなあ…。」


「良ければ、私に話してみないかしら?」


言い合いの途中、パワルマが間に入った。


「え…、あの…。」


「あなたから恋の悩み、の匂いがするわ。」


「夕凪…、貴様、恋をしているのか?」


「いやしてないしてない!!」


「女の子が二連続で否定するのは、本当っていう意味よ。」


「言っておくが、こいつの言う事は、朝のカマなんとかいう耳障りな声の奴の占いなんかより、よほど当たるぞ。不気味な程にな。」


「えっと…その…。」


「タバコを買ってくる。二人で話し合え。私に恋の悩みなんて解決できそうにないのでな。パワルマ、貴様も呑め。サナトのボトルからな。」


そう言ってテレウァンは、両手をポケットに突っ込みながら、バーのドアを開いて出ていった。


「気の利く良いお兄さんじゃない。あら、私のバーって自動ドアだったかしら?」


「あー!!風でも吹いて勝手に開いたんですよきっと!!」


「そうかしら。それで、何があったの?」


夕凪は、自然と口が開き、今日の苦い出来事をパワルマに向かって吐き出した。

口から出た言葉は、パワルマの相槌や、頷きに吸い込まれていく。


全て聴き終えたところで、パワルマはようやく口を開いた。


「いいことわざを教えてあげるわ。」


パワルマは、ゆっくりとペニシリンを喉で味わってから、再び口を開く。


「縁は異なもの味なもの。今は最悪に見える出来事ほど、あとで振り返ると意味があったりする。思い通りにならへん縁のほうが、結果的に人生を面白くしたり、救われたりするものって事よ。」


「……今は、これでいいって事…?あとから良い事が起きるって事?」


「そう。縁が、次の場所に動いただけよ。」


その言葉が夕凪の胸の奥に落ちた瞬間、強張っていた口元が緩んだ。

目の縁に溜まっていた涙は零れずに済み、代わりに俯いたままだった首が上がる。


「話、終わったか?」


帰ってきたテレウァンは、タバコを吹かしながら、席に戻ってきた。


「どうだ?解決しそうか?」


「……ううん。解決しなくていいみたい!」


「なんだそりゃ。」

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