おり
水面には夜が充ちていた。
草の揺る音も聞こえず、ただ鼓動を止めた夜が息衝いている。岸辺に浮かぶ桜の花弁は雨粒によりどこかへ流された。水面には夜が充ちていた。埋められているものも、揺蕩うものさえ夜であった。無明、漆黒、そこにあるものに値する呼称はいずれにも当て嵌まらぬ。夜。人々がこの景を眼にして口にする言葉は、この言葉以外に存在し得ないのである。
底の知れぬ夜であった。いや、底などありはしないのではないかと疑うほどに、深い夜であった。水鏡に映されているものと水鏡が映しているものの境界が、曖昧になっていた。いつから斯くあったのか、いつになれば斯くあらざるのか、問うことがすなわち愚問であった。見遣れば草花と畜生は生きていたことを忘れ、黒々とした月だけがただひとり括目しているではないか。――しかし、静謐は半刻も経たぬ内に遮られた。
がさり、と。沈丁花が揺れた。噎せ返るような春のにおいを引き連れて、蕾が軋んだ。次に、節々が煤けた葉が呻いた。やがて波紋は広がる。花の枯れた樹が枝を振り乱した。眠りから覚めた獣が吠え立てた。新月は一挙動もせずに眼を開けている。闖入者の顔に貼り付けられた笑顔は、歪む眦が、引き攣る唇が、這う皺が、あまりに不揃いであった。
彼は幽鬼の如く腹這ってゆく。一握一握、握り締められた土から湿ったものが吹き出す。それは吐息であり屍である。夜の残滓であり夜の断片である。足に触れる度に耳障りな音を産み出し、畷を造り出してゆく。足を進めながら彼は、脈動する血潮を潜めた。
畷は、夜に繋がっていた。今か今かと待ち侘びながらも、彼は足をこの地に踏み入れた時点から、死んだものとして生きなければならなかった。このまま彼らが喚いていれば、夜は形を変え、夜ではないものになってしまう。夜は変わってしまってはならない。彼らは、そして彼は、黙していなければならないのである。
胸には早くも草の芳香が染み付き始めている。緑が身体に入ってきてしまう。彼はそう思って、少しばかり急き始める。足取りは変わらず、伸ばす腕は速く。光の差し込まぬ中、手探りで夜を見付けようとする。ずるずると、焦燥は蛇の体を成す。――暫時の逡巡の後、湿った指先の感覚に従って、彼は己の手を抜き、吊り上った頬を更に引き上げた。
そこには夜があった。水面はもはや水面ですらなかった。望み続けていたものが眼前に広がっていることを認識した彼は、赤子のように、然れども寡黙たるままに歓喜した。既に生あるものは全て、先の有様に戻っていた。彼は夜を見た。なにも干渉するものなど、ありはしない。確信しながら、瞳孔を拡げた。
すると夜は薄らと形を変え始めた。恰も砂の城が崩れてゆくが如く。雲霞と化し、ふらふら揺れる。変化は夜にあってはならぬことであった。だが、ひとつだけ例外があった。彼はそれだけを求めていた。他の変化は忌み嫌いながら、彼のためだけに行われる変化を、彼はひたすらに求めていた。形を止めた形は、やがてまた別の形へと変貌を遂げる。
夜はなにかを描き始めていた。
最初に、カンバスには女の瞳がはっきりと描かれた。黒目勝ちの、猫のそれにも似た、淫靡でありながら貞淑な、深い藍を携えていた。瑪瑙の瞳であった。
次に、小さな丹が紡がれた。潤みを持った口唇は、訴えかけるように開閉を繰り返している。触れた途端に崩れてしまうと思わせんばかりに、わなわなと震えていた。
最後に、それらを抱く黒髪が産まれた。蜻蛉の雌の如くほっそりとした、しかしながら産まれ産むことへの嫌悪を孕んだ、髪の色であった。濡烏であった。
水面であったものは、いつの間にか巨大な女の面を創造していた。彼は全てが構築され整合性を含んだ途端に、先程まで浮かんでいた、笑みと呼ぶにはあまりに不自然な笑みを消した。ほうと口を開け、涎が夜露さながらに頤を滴るのも気にせずに、眺めていた。
「ふふふ」
沈黙に耐え切れなくなったかのように、あるいは誘うかのように、女の口元から微かな笑い声が零れた。彼はただ見詰めている。触れてはならない。触れた瞬間に夜は彼と番い、彼が悲願していたものではない、醜いものになってしまう。それを彼はなによりも懼れていた。憎悪していた、と言い換えてもよいだろう。忌み嫌うのではない、憎んでいたのだ。
だが、彼の思案など知る由もなく、女は尚も笑い続ける。段々と、彼が浮かべていた笑みに近付いてゆく。風が僅かに吹き始めていた。
「ふふふふふ」
嘲笑、であろうか。戸惑う彼の網膜では女が更に口を開けてゆく様がありありと見えた。ふふふふふ。声は大きさを増してゆく。抑揚の感じられぬ音であった、感情の覚えられぬ声であった。彼は堪らなくなって、女の顔を凝視した。女の目元には嘲りが、髪には軽蔑が埋没していた。――いや、もしかしたら、そもそもこれは笑みではないのかも知れない。彼が疑った刹那、女の声はけたたましく周囲に充ちていった。
「ふふふふ、ふ、ふふふふふ、ふふふふふふ」
――女は、最初から笑みなど浮かべてはいなかった。そこにあったのは謗る眼差しと、剥き出しの糸切り歯であった。女は口から止めどなく漏れるものを吐き捨てていた。吐き捨てられたものは僅かに草をふらつかせている。夜は息を吐くに連れて、女の面からまた姿を変えてゆく。煌いていたはずの瑪瑙は、血走った三白眼になってゆく。
「ああ、あ、あ、あ、ああああ」
そして、彼の嗚咽にも似た声と、女の憎しみが交わった。
夜はもう女の形を成そうとしなくなっていた。ごぉう、ごぉう、と。風が沸き立てるが如く吹き荒ぶ。春風は彼の双眸を塞ぎ、人か獣か知れぬ喚声を耳朶でひしと受け止めさせる。その後ろ側から嬌声染みた笑い声が輪唱されてゆく。彼は自らが見ていたものの真実を知った。求めていたものは、初めから空虚な憎しみでしかなかったと悟った。
「ああああああ、ああああああああ!」
叫び声が夜を凪がせた。春風は畷からまたどこかへと消え去った。
彼は指を真っ直ぐに、夜に突き立てた。
寂莫が帳を落とした。面は既にふやけていた。彼が突き立てた位置は夜の喉であった。吐息は溢れることを終えた。その次に毀れることを始めた。
最初に、色を失ったのは黒髪であった。浅黄を孕む白が侵食してゆく。彼はもはやなにも望んでなどいなかった。煤けてゆく髪には夜の中で繰り返される悲しみすらありはしなかった。残ったのは目視するのも厭う醜さだった。水漬く屍にも映せぬ悍しさであった。しかし彼はなぜか、憎憎しく悪態を吐くわけでもなく、同様に呆けたままであった。揺蕩うものは夜ではなかったがゆえに、である。
次に、瞳がぐずぐずと崩れていった。三白眼は黒血の流れるのに従い夜に溶け出した。その眼が涙を零すのを、ほんの前まで彼は望んでいた。それでも、表情は変わることがなかった。激昂に駆られた瞬間から、彼の魂は底に埋められてしまったのかと疑ってしまうほどであった。そう、埋められていたものは夜などではなかった。
最後に、丹が消えていった。ひとつひとつの糸が解けてゆく。彼はなにを望んでいたのかすらも忘れようとしていた。紡がれる前のそれらは紺碧であった。艶などありはしなかった。死人の唇に紅を差したような色だった。つと彼は忘れてしまった。なにを望んでいたのか、なにを求めていたのか、なにを捨て去ろうとしていたのか。口を開けて想い続けていた。掌に、桜花がひとひら舞い落ちる。
もはや夜は原初の夜に還っていた。女の面など、初めからなかったのだと嘲っているように思えた。だが嘲りの中には真理が隠されていた。彼は気付いた。この凄まじき錯誤に。土が爪の間に入っていることに気付きながら、また。指を舐める疱瘡を、変わらぬままの花弁を俯瞰し、彼は再び、別のもの――探さねばならぬもの――を探し始めた。
「――ああ」
溜息を吐くと、夜は雲散霧消した。新月は煌々たる満月と化した。沈丁花のにおいが辺り一面に敷き詰められた。そこに居た生あるものは、彼と沈丁花と枯れた桜のみであった。足元が薄く照らされている。水面には、月の光が満ちていた。そこで彼は、初めて自分の眼を見た。深い黒を湛えた団栗眼がふたつ、ぎらぎらと輝いていた。瑪瑙ではなかった。
その後、彼は足を前へと出した。草の根を掻き分けて、革靴は容易に進むことが出来た。ぬるりとした感覚が靴の裏から脊髄へと流れる。足取りは確かなものであった。水面の畔に立つ桜へと、一歩一歩踏み締めてゆく。
新たな畷には、なにひとつとして生きたものは居なかった。時折鼻を突くにおいだけを足掛かりにしていた。においには、時折ノイズのように挟まれる声があった。
――貴女は今、どこに居るのですか。
――桜が枯れた頃に、桜の木の下に。
――どうして、そこに居るのですか。
――決まってるじゃないの。それは、
ふと見てみると、彼の足元には小さな紙切れが転がっていた。拾ってみると、それはどうやら手紙のようだった。彼は誰に知らせるでもなく、読み上げていた。
「貴方は今も悩み続けているのでしょう、どうしたらいいのかわからないで迷い続けているのでしょう。でも、安心してください。神は迷えるものを救い給う尊き御方であります。歩を進める足を、葦を握り締める掌を忘れてはいけません。果てに見えるものには貴方がなによりも望んでいたものがあります。ずっと望んでいたものと共に生きることが出来ます。だから、怖がらないで。ただ進んでください、ただ進んでください」
手紙は幾年置かれていたのか、節々が破れ、茶色いものに塗れていた。彼はそれを自らへの声と思った。ならば足を進ませなければならないと確信した。後ろを振り返れば、水面は変わらず月を映し続けている。そこには、それ以外になにもなかった。
ざくり、ざくり、と。土は湿り気を帯びなくなったがゆえに乾いた音ばかりを発する。灰のように白い土であった。彼は自らの手の色と、土の清廉さを対比して、思わず逃げ出したくなった。ただ進んでください、ただ進んでください。声が聞こえた気がした。彼は再び歩き始めた。ざくり、ざくり、と。
ざくり、ざくり、と。土は湿り気を帯びなくなったがゆえに乾いた音ばかりを発する。血のように赤い土であった。彼は自らの血の色と、土の婀娜さを対比して、思わず逃げ出したくなった。ただ進んでください、ただ進んでください。声が聞こえた気がした。彼は再び歩き始めた。ざくり、ざくり、と。
一体いつまで歩いていたのだろう。ふと上を見遣れば、花の枯れた桜が、痩せ細った枝を張り上げていた。彼はそれを美しいと思った。桜には蕾すらなかった。それでも美しいと思わざるを得なかった。
一体どれほどまでに経てばこうなるのだろうか。彼にとってこの桜こそが望んでいたものと信じて疑わなかった。そう、これは試練であったのだ。この桜に出会うためには自らの求めていたものを捨て去らねばならないのだと、彼は信じて已まなかった。
「――ああ」
溜息を吐くと、全ては消え去った。
水面には夜が充ちていた。いや、全ては夜だった。彼は突然なにが起きたのか理解出来ないでいた。同時に理解することを恐れていた。掌の上でなにかが蠕動していた。彼はそれを見ることを止められずにいた。びくり、びくり、と。桜の花弁は紺碧に彩成してゆく。瞼を塞ごうとした、しかし手にはなにかがしがみ付いていた。瞑目しようとした、しかし瞼はぴっちりと動かない。首を逸らそうとした、しかし誰かの腕がそれを拒んだ。
然れども、肉厚の花弁が、なにに変わるかを彼は既に知っていた。それは、
「これが貴方の望み続けるものですよ」
水面には夜が充ちている。