第3話 知らぬが華 城之崎光哉の場合
PINEのトーク画面に表示された母さんからの短い返信を、俺はしばらく眺めていた。
『来週の土曜日ね、楽しみにしています。』
簡潔で丁寧、だからこそ感情が読めないいつも通りの母さんの文章だ。
「山手、母さん来週の土曜なら大丈夫だって。」
ソファで俺の肩に頭を乗せていた山手が顔を上げる。
「そっか!じゃあ日曜はうちの実家に行こうよ、うちの家族も会いたがってたし。」
「そうだな、来週は実家行脚か。」
「だねー。」
軽い調子で頷く山手。
こう言っては何だが、山手の実家はあまり心配していない。
お母様もああいう方だしマイノリティにも理解のあるご家庭だと聞いている、きっと温かく迎えてくれるだろう。
問題は、うちの母さんだ。
何を考えているのか分かりにくい。
あの穏やかな笑みの下では、中々本心を見せない人だから。
『好きになさい』
母さんが山手と食事した後のPINEの文面が思い出される。
……まあ、考えても仕方ない。
やるべきことを、やるだけだ。
俺が覚悟を決め直した、その時だった。
山手の手元で、軽快な通知音が響いた。
『PINE』
スマホに視線を落とした山手の表情が、ふっと固まったのが分かった。
「どうした?」
「……鷲那から、なんだけど。」
煮え切らない様子の山手に、俺は眉をひそめる。
鷲那から?
退去相談の日取りだろ?
「鷲那は何と言っているんだ?早く言え。」
先を促すと、山手は気まずそうにスマホの画面をこちらに向けた。
そこには、あまりにも予想外のメッセージが表示されていた。
『お話とは何でしょう? もしよろしければ、この後すぐなら時間がありますが』
「……心の準備くらいは、したかったな。」
思わず漏れた俺の呟きは、部屋の空気に虚しく溶けていった。
随分と久しぶりに来た気がする。
鷲那が住む、このマンションのペントハウス。
俺の部屋と比るとやはり別格、豪華過ぎる仕様だ。
俺と山手とそして鷲那は、大きなガラスのテーブルを挟んで向かい合っていた。
沈黙を破ったのは、俺だった。
単刀直入に切り出す。
「鷲那、俺と山手は付き合うことにした。」
俺の言葉に鷲那は、少しだけ目を見開いた後ふわりと微笑んだ。
その表情からは、何の感情も読み取れない。
「……そうですか、おめでとうございます先輩方。」
心の底から祝福しているようにも、ただの社交辞令にも聞こえる声だった。
「それと今住んでる部屋は近いうちに出るつもりだ、世話になったな。」
「引っ越されるんですね、具体的な日取りが決まったら教えてください」
事務的な会話が、やけに虚しく響く。
俺は長年燻らせてきた想いの残骸を、一つひとつ燃やしていくような気持ちで言葉を続けた。
「お前は今後、どうするんだ?」
聞けば鷲那は許嫁と間もなく入籍、そして彼女は鷲那の大学卒業まで彼女の実家で暮らすことになったらしい。
鷲那の実家側は、大学を中退してすぐにでも京都で若旦那として暮らすよう強く言ったそうだ。
しかし奥さんの実家が、大学中退というのは世間的な聞こえが良くないと猛反対。
卒業までは関東で卒業後に京都で同居、という形で話がまとまったのだという。
その時だった。
隣に座っていた山手が、静かに口を開いた。
「なあ、鷲那。」
「はい、何ですか? 芝浦先輩。」
「お前はさ、結局どういうつもりだったんだ?」
空気が、凍った。
山手の声は静かだが、抑えきれない怒りが滲んでいる。
鷲那は何も答えずに黙っている。
その能面のような無表情が、山手の怒りをさらに煽っているのが分かった。
「山手、どうしたんだよ。」
俺が小声で制すると山手は、
「でも光哉が!」
と食い下がる。
「俺の話は今は関係無いだろう。」
俺は少し強い口調で、山手の言葉を遮った。
「何をそんなに怒っているんだ? 鷲那に何かされたのか?」
「…………。」
今度は山手が黙り込んだ。
……そう。
もういいんだ。
長かった片想いは、確かに終わったのだから。
山手も鷲那も、ただ黙って唇を噤んだままだ。
この重い空気を終わらせたくて、俺は努めて明るい声を出した。
「鷲那、子供が生まれたら連絡くれ。あ、その前に今度一緒に飲みにでも行こう。」
俺の言葉に、鷲那が驚いたように顔を上げた。
「……いいんですか?」
「ああもちろん、まあ彼氏の許可が出ればだが。」
そう言って俺が隣の山手に視線を送ると、彼はまだ少し不満そうだった。
だがやがて、小さく息を吐いて言った。
「……僕と三人でなら、いいよ。」
部屋に戻った途端山手は、
「あー、充電切れたー。」
と棒読みで言いながら、ソファに座る俺の背中に凭れかかってきた。
「俺に充電機能は無い。」
「そうだっけ? でも光哉にこうしてると、なんかMP回復するんだよね。」
ふざけたことを言う山手の頭を、俺は軽く撫でた。
さっきまでの緊張が、少しずつ解けていく。
しばらくそうしていたが、やがて山手がぽつりと言った。
「……なあ光哉、本当に良かったの?」
「何がだ?」
「鷲那のこと、あんな簡単に流しちゃって……。」
その声には俺を気遣う響きがあった。
「鷲那はそもそも俺が鷲那の事が好きだったなんて知らないんだから、仕方ないだろう?」
俺の長年の片想いは結局、俺一人だけの胸の内にあった物語だ。
誰にも知られず誰を責めることもなく、静かに終わった。
それでいい。
「それは……。」
山手は、まだ何か言いたげだ。
俺が長年、どれだけ苦しんできたかを知っているからだろう。
その優しさが、今は少しだけもどかしい。
俺は彼の言葉が続かなくなるように、その唇を自分の唇で塞いだ。
驚いて目を見開く山手。
やがて唇を離すと、その潤んだ瞳が俺を映していた。
「次は、来週だな。」
俺がそう言うと、山手は何も言わず、こくりと頷いた。