第2話 2つの壁 芝浦山手の場合
『生きてる』
その実感は、時として暴力的なまでに鮮烈だ。
無事に退院してからというもの、僕はここぞとばかりに光哉にベタベタとくっついていた。
隣を歩けば肩を寄せて、ソファに座れば背中から抱きつく。
体温を感じていないと、今この瞬間が夢で本当はまだあの冷たい水の中にいるんじゃないかと馬鹿みたいな不安に襲われるからだ。
光哉の温もりは、僕が此処にいる何よりの証明だった。
「山手、頼むから人前ではやめてくれ」
駅前のカフェで向かい合わせに座った時。
ついに光哉はテーブルの下で光哉の足に自分の足を絡ませている僕に、とうとう根を上げたように言った。
その声にはいつもの刺々しさがない。
呆れと照れが半分ずつ混じった、彼にしては驚くほどソフトな響きだった。
きっと僕がこんな風になった理由を、彼なりに理解してくれているのだろう。
家に帰るなり僕は、玄関のドアが閉まる音と同時に待ってましたとばかりに光哉の背中に飛びついた。
「家ならいいんだよね?」
「……お前なあ。」
呆れた声で振り返る光哉の唇を僕は、
「おかえり。」
の代わりに塞いだ。
しばらくして唇が離れると、光哉はどこか真剣な目で僕を見つめていた。
「山手、ちょっと話があるんだ。」
その真面目な声色に、ドキッとする。
僕は彼の背中に腕を回したまま、こてんと首を傾げた。
「ん? なあに?」
「……その状態だと話しにくいから、一旦落ち着け。」
光哉に宥められ、僕たちはリビングのテーブルに向かい合って座った。
改まった空気に、嫌な汗が背中を伝う。
まさか、あんなことがあった後で別れ話なんてことは……。
「で、話って?」
緊張で震える声を、なんとか押し出す。
すると光哉はまるで、天気の話でもするようにサラッと言った。
「引っ越さないか?」
「……へ?」
予想の斜め上を行く提案に、僕は間の抜けた声を出した。
今住んでいるこのマンションは光哉のお母さんが契約しているもので、家賃も彼女が払っている。
「いつまでも親のスネをかじるわけにはいかない、ちゃんと自分の力で借りたいんだ。」
「それじゃあ、バイトでもするの?」
「ああ、実は今までも単発で家庭教師のバイトを何回かやってたんだ」
そう言って、彼は少し照れくさそうに視線を逸らした。
「先日贈ったスマートリングも、その金で買った。」
「……え、そうなの!?」
知らなかった。
てっきり、裕福なご家庭のお小遣いか何かだとばかり。
自分の力で稼いだお金で、僕へのプレゼントを……。
ジンと胸が熱くなる。
「引っ越し費用は今まで貯めてた小遣いやお年玉を使おうと思ってる、近くに2LDKの木造戸建てが安く賃貸に出てるんだ。二人で住むには十分な広さだと思う。」
そう言って彼が見せてくれたスマホの画面には日当たりの良さそうな、小さな庭付きの家の写真が写っていた。
「……行こう! 今すぐ内見に行こう!」
僕はまるで叫ぶみたいにそう言った。
「うわスゴい!良い物件じゃないか!」
実際に見てみると、写真で見るよりずっと素敵な建物だった。
古民家というほど古くはないが、木の匂いがする落ち着いた空間。
南向きの窓から差し込む光が、畳の部屋を明るく照らしている。
「なのに、この家賃は安すぎる……。もしかして、事故物件とか?」
僕が恐る恐る尋ねる。
すると案内してくれた不動産会社の人は、
「まさか!違いますよ!」
そう人の良さそうな笑顔で手を振った。
「見た目はリフォームして綺麗なんですが築年数が結構経っているのと、木造の戸建てはマンションに比べて意外とこのお安いんですよ。」
なるほど、そういうことか。
僕たちが納得したのを見て、不動産会社の人はにこやかに尋ねてきた。
「ご友人同士で、ルームシェアをされるご予定ですか?」
その質問に僕は、
「えーっと、その……。」
と言葉を濁す。
なんて答えるのが正解なんだろう。
咄嗟に光哉の顔を見ると、彼は落ち着いた様子で物件のチラシを手に取った。
そして隅の方に小さく書かれた一文を、指でとんと叩いて僕に見せる。
そこには『LGBTQ+フレンドリー物件』**と書かれていた。
僕は光哉にだけ見えるように口パクで、
『いいの?』
と尋ねる。
僕は普段からバイセクシャルであることを隠していないけど、光哉はそうじゃない。
すると光哉は不動産会社の人に向き直りはっきりと、そして穏やかな声でこう告げた。
「いえ友人じゃありません、恋人です。」
その瞬間、世界から音が消えた気がした。
不動産会社の人が、
「そうなんですか、お似合いですね。」
と言ってくれた。
僕は光哉の横顔を見つめる。
『恋人』
この言葉が光哉の口から、こんな風に誰かに告げられる日が来るなんて。
「……ここに決めようと思う。色々準備もあるのでまた後日、契約に伺います。」
光哉がそう話を進めるのを、僕はまだ夢見心地のまま聞いていた。
帰り道。
二人並んで歩きながら、僕はまだ胸の高鳴りを抑えきれずにいた。
「なあ、光哉。」
「なんだ?」
「さっきの……すげー、嬉しかった。」
僕がそう言うと光哉は、
「そうか。」
とだけ短く答えた。
でもその耳が夕日に照らされて、真っ赤に染まっているのを僕は見逃さなかった。
しばらく歩いて、光哉がぽつりと言った。
「ちゃんと、話をしないとな。」
「……うん。」
「母さんと……それから、鷲那にも。」
「親と……大家に、だね。」
光哉が隣でプッと吹き出したのを見て、今のがダジャレみたいになっていた事に気がついた。
「あ……いや、今のはわざとじゃなくて。」
「何の話だ?」
光哉のイジワルな笑顔に、僕は心が温かくなるのを感じた。