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第10話 さようなら 芝浦山手の場合

タクシーの窓を、景色が流れていく。


光哉が、倒れた。


その事実だけが現実味のないまま、頭の中をぐるぐると回っていた。


「運転手さん、もっと速く!」


焦りだけが、空回りする。


たどり着いた救急外来の受付は白い蛍光灯に照らされて、ひどく冷たく見えた。


駆け寄った僕に受付の女性はマニュアル通りの、感情のない視線を向ける。


「城之崎光哉さんのご家族ですか?」


「っ……いいえ。」


「申し訳ございません、現在ご家族以外の方へのご案内は……。」


その言葉が、鉄の扉のように僕の前に立ちはだかった。


『法律は、お前たちを『他人』としてしか扱ってくれないんだぞ』


いつか父さんが言った警告。


それが今、こんなにも冷たく絶対的な『壁』となって僕を拒絶する。


食い下がることさえできない僕は、


「……そうですか。」


と呟いて、その場を離れるしかなかった。


待合室の硬いプラスチックの椅子に座り、震える指でスマホを操作する。


画面に表示された『光哉ママ』という名前に、息を呑んだ。


心臓を鷲掴みにされるような緊張感の中、コールボタンを押す。


数回の呼び出し音の後、彼女は電話に出た。


僕が事情を話すと、


「……わかったわ。」


とだけ短く答えて、電話を切った。


雨の降りしきる中を僕は、為す術もなくトボトボと家に帰った。


光哉のいない、がらんとした部屋。


静けさが、耳を圧迫する。


ソファに座ってテーブルの上の2人分のマグカップをぼんやりと眺めているうちに、腹の底から黒くて熱い何かがせり上がってくるのを感じた。


無力感が、どうしようもない怒りへと変わっていく。


なんで、あいつが。


あんなに優しくて、真面目な光哉が。


気づけば僕は、衝動のままに家を飛び出していた。


雨上がりのアスファルトの匂いがする校門を抜け、職員室のドアを乱暴に開ける。


中にいた数人の教師を無視して、対応してきた教頭らしき男に僕はありったけの言葉を叩きつけた。


「なんで担任でもない光哉……城之崎先生に全部押し付けたんですか!そのせいで城之崎先生は倒れたんじゃないですか!? あんたたちの管理体制はどうなってるんだ!」


「赤ん坊の父親疑惑だって、そんなわけないだろ! あいつがそんなことするはずない!」


僕の怒りに相手は怯むどころか、色眼鏡の奥の冷たい目で僕を見返してきた。


「なぜあなたがそんなことを断言できるのですか! そもそも、あなたはいったい誰です!」


「僕は……っ、僕は……!」


言葉に詰まる。


そうだ、僕はただの部外者だ。


その事実が喉に突き刺さったナイフのように、僕から言葉を奪った。


その時だった。


「――下がりなさい。」


凛とした静かな声、職員室の入り口に綾子さんが立っていた。


コワいほど隙のないスーツに身を包んでいた。


カツカツと硬いヒールの音を響かせて、彼女は僕の前に立つ。


「はじめまして、城之崎光哉の母の綾子と申します。」


深い角度で頭を下げた彼女は顔を上げると、教頭に芸術品のような笑みを向けた。


「息子がこちらで倒れたと伺いました、ご説明いただけますでしょう?」


「いえ、それは……。」


「光哉も成人しておりますし、本来であれば親である私が出るのは筋違いかと存じます。ですが労働環境が原因で息子の命に危険が及ぶ可能性があるとなれば、話は別です。」


「労働環境のせいとは、一概には……。」


教頭が言い淀むと綾子さんは、


「まあ、安心いたしました。」


と言って、さらにほほ笑んだ。


「学校側では既にご確認をお済ませくださっていらっしゃるんですね?根拠の無いことおっしゃらないですものね?それであればつまびらかにご説明いただくことに、なんら問題はないということでしょうから。詳しくお聞かせいただけますね?」


その完璧な理論武装と圧力に学校側は、


「べ、別室にご案内します。」


と折れるしかなかった。


案内されかけた綾子さんは、


「ちょっと失礼。」


と言ってその場でスマホを取り出して、電話をかけ始めた。


「……高津弁護士事務所でお間違いないでしょうか? 高津先生をお願いできますか?……ああ先生ご無沙汰しております、城之崎です。いえいえ、今回はただのご挨拶ですの。もし何かありましたら、その際はよろしくお願いいたします。」


電話を切ると学校側の関係者の顔から、完全に血の気が引いていた。


……こえぇ。


この人、マジでこえぇ。


僕が完全に圧倒されていると、綾子さんは僕の方を振り返って柔らかく言った。


「病院には話を通してあるから、光哉のことお願いね。」


そう言って彼女は一人、戦場へと向かっていった。




病院の白い廊下を、足早に進む。


「芝浦山手様ですね? 城之崎綾子様が保証人になられるとのことですので、ご面会いただけます。」


案内された個室で眠る光哉は、ただ静かに眠っているように見えた。


でも医師から告げられた診断は『心因性昏迷』。


ストレスによる、深い深い眠り。


通常はそれ程長くないけど、いつ目が覚めるかは分からないらしい。


それから、僕の見舞いの生活が始まった。


仕事が終わるとスーパーで簡単な惣菜を買って、家に寄ってシャワーだけを浴びて病院へ向かう。


光哉のベッドの脇の硬い椅子に座って、ただその寝顔を見つめる。


呼びかけると、ぴくりと指が動くこともあった。


それがその日一日の、僕にとっての唯一の救いだった。


さらに数日が過ぎた。


その日僕は疲れ切って、ベッドの光哉にもたれかかるようにして眠ってしまった。




「……芝浦君、お久しぶりですね。」


気が付くと、僕は高校の廊下に立っていた。


目の前には、能田ちゃんが立っている。


「え、能田ちゃん? なんでここに……。」


ていうか、久しぶりってほどだっけ?


能田ちゃんは曖昧に微笑むと、僕の手を引いて歩き出す。


着いたのは、懐かしい文芸部の部室の前だった。


「城之崎君は、ここにいますよ。」


「え?入らないの?」


「『こちら側』では、私はここに入れないんです。」


よく分からないことを言う彼女に礼を言って、僕は部室のドアを開けた。


そこにいたのは2人だった。


1人は光哉。


そしてもう一人は……いや。


もう一人も。


「……光哉……。」


思わず、声が漏れた。


そこには僕が知ってる光哉よりずっと痩せて、年老いた光哉がいた。


「……そこにいるのか?」


年老いた光哉が、僕の方を向く。


その目は、白く濁っていた。


きっと、はっきりとは見えていないのだろう。


彼はカバンからコンタクトレンズのケースのようなものを取り出したけど、その動きをぴたりと止めた。


「……付けないのか?」


僕の光哉が、静かに尋ねる。


するともう一人の光哉は、寂しそうに笑った。


「やめておくよ、彼は俺の会いたい山手じゃないからな。」


そう言って、彼は立ち上がった。


「どこへ行くんだ?」


「あの海に、山手を迎えに行くよ。……もっと早くに、こうするべきだった。」


彼はそう言って僕たちに背を向けると、部屋から出ていった。


そこでようやく僕は気が付いた。


もう1人の光哉の世界では、『僕』はあの海で……。


もう1人の光哉の背中を見送りながら、僕の光哉が呟くように言った。


「さようなら、未練先生。……いや。」


光哉はひと息ついてから、


「光山未練。」


確かにそう言った。




はっと顔を上げると、凝り固まった首筋に痛みが走った。


そこは病院のベッドの脇だった。


夢……?


顔を上げるとベッドの上で、光哉がぱっちりと目を開けてこちらを見ていた。


「……おはよう。」


僕が、震える声でそう言うと。


光哉は少しだけ掠れた声で、でもはっきりと。


「ああ、おはよう。」


そう言って、ふわりと笑い返してくれた。

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