第9話 堕生 城之崎光哉の場合
毎日、毎日。
来る日も来る日も、俺はその対応に追われていた。
例の女子生徒のことだ。
彼女の保護者や、教育委員会との折衝。
なぜクラス担任でもない俺がここまでやらなければならないのか甚だ疑問ではあった。
だが発端が俺の家の前であった以上、無関係とは言えないと言われれば仕方ないと受け入れるしかなかった。
さらに俺に粘着質に向けられる『赤ん坊の父親ではないか』という、根も葉もない疑惑。
彼女と個人的に会っていた証拠など、あるはずもない。
そう言うと、
「巧妙に隠していたのだろう。」
と返される。
生徒本人が涙ながらに、
「先生は関係ありません。」
と否定している。
そう訴えると、
「ならばなぜ、本当の父親の名前を頑なに言わないのか。」
と問い詰められる。
完全に堂々巡りだった。
本人に直接聞いても彼女は、
「ごめんなさい。」
と謝るばかり。
だが不思議と、彼女を責める気にはなれなかった。
……俺も、随分と甘いものだ。
これらに加え、山積みの通常業務。
そして学校で空手部の顧問をしていた先生が、体調不良で長期休暇に入ることになった。
過去に空手の経験があることが知られていた俺に、白羽の矢が立ったのだ。
これがとどめの一撃だった。
もう考えることをやめたかった。
まずい、午後の授業に遅れる。
そう思って職員室の自分の席を立った、その瞬間。
ぐにゃりと、視界が大きく歪んだ。
ひたすら。
ただひたすら、俺は探していた。
いない。
どこを探してもいないのだ。
あいつがいなくなってから、もう半年が経つ。
最初の1週間ほどは、ショックで家から一歩も出られなかった。
大学もこのまま、休学してしまおうかと考えた。
だがそんな俺を、周囲の人間は見捨てなかった。
母さんや咲良、敷島そして能田が代わる代わる俺の部屋を訪れ声を掛け続けてくれた。
ある時、能田が恐る恐るといった様子で切り出した。
「あの……城之崎君。もし良かったら、気分転換に……小説を書いてみては、いかがでしょうか?」
「小説……?」
そういえば、能田は昔から小説を書いていたな。
どんな話だったか、少し気になった。
「一度、お前の小説を読ませて欲しい。」
俺がそう言うと能田は、
「えっ!?」
とひどく狼狽えた。
「わ、私のですか!? そ、そんな人様にお見せできるような代物では!何より城之崎君に見せるのは少し気まずいと言うか……。」
「頼む」
俺が真剣な顔で頭を下げると彼女はひどく困った顔をしたが、やがて諦めたように一冊の手帳を差し出した。
高校の頃に見た時よりも、ずっと古びてくたびれた手帳だった。
『本当に大事なものは』
そう題されたその物語は『コウヤ』と『ヤマテ』という二人の男子高校生の、不器用な恋愛を描いた物語だった。
どこかで見たような、どこかで聞いたような。
そんなありふれたストーリー。
温かいはずの話なのになぜか読めば読むほど胸の奥からどうしようもない淋しさや悲しさ、そして寂寥感がこみ上げてくる。
まるで俺が決して手に入れられなかった、眩しい世界の物語を読んでいるようだった。
それから俺は大学に通う傍ら、無心で一冊の本を書き上げた。
『いまだなくならないもの』
そうタイトルを付けたその話は当初、恋人が突然『失踪した』女性の話だった。
だが書き終える直前、俺はそれを婚約者を事故で『亡くした』女性の話に全て書き換えた。
……もしかしたら。
もしかしたらどこかで生きているあいつが、ひょっこり戻ってきて、
『勝手に殺すな!』
なんて怒ってくれるかもしれない。
そんな馬鹿げた希望に、俺はまだ縋っていた。
山手のご両親には本当に申し訳ないことをしたと、今でも思っている。
そうして俺は、山手のいないこの世界でただ息だけをする『堕生』の日々を過ごしている。
……気が付くと、俺は椅子に座っていた。
何だろう、懐かしい匂いがする。
ここは、どこだ?
ゆっくりと辺りを見回し、そしてそこが良く知る場所であることに気が付く。
放課後の埃っぽい匂い。
西日に照らされた、古い長机。
ここは俺が通っていた高校の、文芸部の部室だ。
「……気が付いたか?」
不意にかけられた声に、はっとする。
いつの間にか目の前にもう一人、男が座っていた。
老人、だろうか。
いや、それにしては声が若い気がする。
中年、という方が近いか。
その両目は白く、濁っていた。
白内障だろうか。
焦点の合わない瞳が、静かにこちらを見ている。
じっくりと、その顔を見る。
ひどく痩せて深く皺が刻まれているが、その顔の造形にはとても見覚えがあった。
それは俺が毎朝、鏡越しに見ている顔。
いつもはもう少し肉付きが良く、若々しいはずの……。
「……あなたは、俺ですね?」
俺の問いに、目の前の男は何も答えなかった。
ただその乾いた唇の端をゆっくりと持ち上げる。
そして寂しそうに、本当に寂しそうに微笑んだ。