分かれ道 城之崎光哉の場合
「……なんだよ、それ。」
俺が拭った涙の跡が、まだ山手の頬にうっすらと残っている。
「ああ。」
なんて説明したものか。
俺はソファに座り直して、少し考えながら話し始めた。
「高1のときに咲良と映画に行ってな、そのときの映画のキャッチコピーが『最も綺麗な涙』だったんだよ。」
山手の頭の上に、大きなクエスチョンマークが浮かんでいるのが見て取れる。
「……それがなんで今、出てくるの?」
そうだよな、そこから話さないと伝わらないな。
「その日に見たんだよ、お前が涙を流しているのを。俺はそれを見て、『綺麗な涙』だと思った。……小澤先生のご主人が、お前の元からいなくなった日だったらしい。」
山手が、息を呑んだ。
そして少しの間を置いて、
「大津さんて言うんだその人、大津博満先生って言うお医者さん。」
そう遠い昔の記憶を紐解くような、懐かしげな表情でそう言った。
「……好きだったんだな?」
その問いに山手は静かに、
「うん。」
とだけ答える。
別に構わない、俺だってずっと鷲那が好きだったんだから。
「思えば……お前の『綺麗な涙』を見たあの日から、俺はお前に心を動かされていたんだな。」
そう思うと、なんだか感慨深い物があった。
山手がそっと、俺の頬に両手を添える。
その不意の接触に、思わず体が強張った。
そして山手は俺の唇に、そっと自分の唇を重ねた。
「……やっと光哉の唇の感触を、ちゃんと味わえたよ。」
こいつは良くもまあ、こんな歯の浮く様な台詞をすらすらと言えるもんだ。
俺は内心で感心する。
動揺していると察せられるのは癪なので、
「そうか。」
と、努めて平静に答えた。
すると山手はいたずらが成功した子供のように笑い、俺の腰にそっと手を回した。
やられてばかりでは終われない。
俺は山手の唇を、今度は俺の方から強く塞いだ。
びくりと目を見開く山手に、一度だけ唇を離して言ってやる。
「……今回のキスは、酒の味がしないな。」
「え!?」
山手が完全に固まっているのが見て取れる。
俺はそんな山手を見て、少し満足した。
「今日はここまでだ、お前こそ覚悟するといい。」
そう言い残すと俺は、山手の腕から抜け出して自分の部屋に戻った。
これであいつは、今のが初めてのキスではないと気がつくだろう。
酔って覚えていない一度目と合わせて、二回目のキスだと思うに違いない。
……まあ本当はあいつが眠っている間にしたキスも含めて三回目だというのは、俺しか知らない。
自分だけの秘密だと思うと、少しだけ嬉しくなる。
俺はその夜、久しぶりに穏やかな眠りに就いた。
さて。
翌日の講義が終わった今、俺は何故かサイセリアにいる。
「さて、聞かせてもらいましょうか? 城之崎君。」
能田がテーブルに両肘をついて、至極真面目な顔で切り出す。
隣ではにやにやしている敷島と咲良が、
「そーだそーだ!」
と騒いでいる。
女三人寄れば姦しいとは、まさにこの事か。
きっかけは大学から家に帰ろうとしたところ敷島と、彼女に会いに来た能田に遭遇したことだった。
能田に、
「これはお話を聞く必要がありますね。」と言われた。
完全に勘付かれている。
そしてあれよあれよという間に、最寄りのサイセリアに連行されたのだ。
更に敷島が、
「こうなったらサクラも呼ぼーぜ!」
と連絡し、この混沌とした状況が完成した。
山手は前から、今日は同僚と飲みに行ってから帰ると言っていた。
時間はある。
俺は観念して、三人の尋問に答えることにした。
昨日何があったのかを、掻い摘んで軽く伝える。
案の定能田と敷島は大興奮で、テーブルをバンバンと叩いている。
それに対して咲良は、ただ静かに微笑んでいた。
「良かったね、光哉。」
……何と答えたものか。
祝福の言葉に謝るのも変だと思い、
「……ありがとう。」
と素直に俺は答えた。
すると咲良は本当に嬉しそうに、花が咲くように笑った。
自宅に帰って一人、昨日の出来事をじっくりと噛み締める。
夕飯の準備をしながら、あいつが帰ってくるのを待つ。
テーブルに二人分の食器を並べ、出来上がった料理を皿に盛る。
これから、幸せな毎日が待っている。
疑う余地など無い。
そう、信じていた。
だが山手はその日、帰ってこなかった。
最初は飲み会が長引いているだけだと思った。
日付が変わる頃には、少し苛立ちを覚えた。
午前二時を過ぎて、苛立ちは不安に変わった。
何度PINEを送っても、既読さえつかない。
翌朝。
大学に行く気にもなれなかった俺は、何度も山手に電話を掛け続けた。
だが聞こえてくるのは無機質な呼び出し音、やがて電源が入っていないと言うアナウンスだけだった。
昼を過ぎた頃だった。
スマホが震えて表示されたのは、山手のお母様の名前だった。
嫌な予感が、背筋を凍らせる。
電話に出るとお母様の、のんびりとした声が聞こえた。
山手が今日、職場に行っていないらしいので起こして欲しいとの事だった。
俺は山手は帰ってきておらず、連絡も付かない事を伝えた。
お母様の声色が変わった、また連絡させて貰うわねと電話を切られる。
暫くして再度電話が掛かってくる。
お母様が職場の人に確認した話では、昨日同僚と飲んだ後二人でタクシーに乗って帰っていた。
しかし同僚が寝ている間に、山手は途中でタクシーを降りたらしい。
急いで、山手が降りたという場所に向かう。
電車に揺られながら窓の外の景色が、都心から次第に寂しいものに変わっていくのをただぼんやりと眺めていた。
そこは潮の香りがする、海沿いの駅だった。
駅前で待っていると俺の連絡を受けて咲良や能田、敷島も駆けつけてくれた。
「大丈夫光哉、絶対見つかるから。」
咲良が俺の肩を叩く。
俺たちは手分けをして、駅周辺で聞き込みと捜索を始めた。
俺は近くのコンビニに入り、店員に頭を下げる。
「すみません、昨日の夜にこの男を見かけませんでしたか?」
スマホの写真を見せる。
だが若い店員は面倒くさそうに、
「さあ、覚えてないっスね。」
と首を振るだけだった。
すれ違う人々に必死に頭を下げて写真を見せるが、誰も山手の行方を知らなかった。
時間が経つにつれ、焦りが全身を蝕んでいく。
夕方になり傾いた陽が空と海をオレンジ色に染め始めた頃、山手のお母様も到着した。
その顔は、憔悴しきっていた。
いよいよ警察に捜索願いを出すべきか。
重い空気の中、誰もが口を開けずにいる。
すると不意に、視界が開け海が見えた。
俺は言葉にできない嫌な予感が、ついに現実の形となって目の前に現れたのを感じた。
それに突き動かされるように、砂浜へと走る。
そして、見つけてしまった。
満ち引きを繰り返す波の、その境界線上。
そこにぽつんと取り残された、山手のスマホを。
画面は真っ暗で、濡れた砂がこびりついている。
それを拾い上げ電源ボタンを押すが反応が無い。
それを見た瞬間、涙が溢れてきた。
そして俺は、ぐらりと足元が揺らぐのを感じる。
耳元で響く波の音を最後に、意識を失った。