独白
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
とある、夢を見ていた。
臓腑の底を砕かれ、全てが無意味に見えた日の、夢。
腐り落ちた胸の奥、凍えるほどの愛と、独り善がりなキス。
なにもかもを洗い流したくて、雨に打たれた。
本当なら、溶けて無くなってしまいたかった。
だが身体は消えることなく、温度が奪われていく。
体温など、まるごとなくなってしまえばよかったのに。
この世のものではない何かを見つめるように震えた彼の瞼が、酸を浴びたかのように、確かな痛みを伴って、心を焦がしていた。
仮に、世界が終わる日があるなら、今日がいいと思った。
そう、思った。
◇
生まれてこの方、父の手に抱かれたことも撫でられたことがない。
物心ついた頃から、父から向けられる視線の因数に憎悪が込められていることを知っていた。ほの昏い瞳に僕はいつも射抜かれていた。
僕が語彙の正体に触れ出した頃くらいから、父は僕に罵倒を重ねるようになり、次第にそれは怒号へと変貌していった。その内容に耳を傾けたところ、怒りの正体はどうやら僕が生まれた日に母が亡くなったことが発端らしかった。
疑問が氷解すると同時に、理不尽も覚えたが、父にとっては母が全てだったのだろう。息子に向ける感情としては不正解かもしれない。しかし、夜が更ける度に嗚咽を漏らす父があまりにも哀れに見えたので、僕は号哭に似た憤怒を受け止めていた。震える背中は僕よりもずっと小さく見えた。
さらに時は流れ、父の“しつけ”に暴力が伴うようになっていった。しかし、その姿はまるで玩具を買ってもらえない幼児のようで、僕はより一層哀れみの念が強まった。もちろん痛みはある。どれもがのたうちまわり、泣き叫びたくなるようなものだったが、僕は淡々と癇癪を受け止め続けた。
何をされても平然を装う僕に余計腹が立ったようで、叩き込まれる罰の回数は日に日に増えていった。
だが、不思議なことに僕は父を愛していた。なんらかの心理的効果を当てはめてみても良いのだろうが、わざわざ愛情に名前をつける行為には興味も必要も感じない。
父だから、とは思えなかった。ただあまりに矮小で、壊れてしまいそうだったからだとは思う。
嵐のような暴虐が吹き荒れる日々、ある晩、何の気なしに僕は父に質問した。
「父さんは僕を殺したい?」
それはただの純粋な疑問だった。皮肉や腹いせではなく、そうすれば満足なのかな、と感じたから聞いただけだった。
「首、絞めたら?」
その大きな手にゆっくりと指を添える。僕の細い首筋を捻ることで途方もない喪失を癒せるのなら、それで構わなかった。
「父さん、手、大きいね」
僕は初めて触れた父の手を首にあてがい、そっと微笑んだ。
そして父は脱兎のように逃げ出した。
父は次の日から僕を殴ることはなくなったが、僕に向ける目線に宿っていた怒りが、薄気味悪いものを見るような目つきに置き換わっていた。
そうして酒に溺れるようになり、いつしか僕を見ることはなくなった。
僕は落胆と失望を隠せなかった。実の子を痛ぶるよりアルコールを選ぶとは!実につまらない人間だ。
僕は父に一切の興味を無くした。
十歳のことだった。
◇ ◇
僕の家はどうやら並外れた大金持ちのようで、古くからある名家らしい。
働く様子も見せずに飲んだくれている父の酒代が尽きない理由もそこにあったようだ。昔は召使いも多くいたそうだが、母が亡くなった際に父が一人を除いて全員解雇してしまったらしい。やけに家が広いとは思っていたが、誰かの家を訪問したことも、当時テレビもパソコンもなかった僕には比較のしようがなかった。
その事実は父が珍しく目を覚ましていた時に、突然告げられたのだ。呂律も怪しく、断片的にかつての栄光を涙ながらに語る様子は惨めでならなかった。酒気の帯びた口臭と赤らんだ顔に醜怪さを禁じ得ず、実に不快だった。
だからといって僕にはなんの関係のないことだった。血筋も資産も僕にとっては何かの足しにもならず、赤い絨毯も、ベロアのソファも、不気味に肥え太っただけの産物にしか見えなかった。
強いて言うなら、書斎に溢れかえる無数の蔵書だけは僕の好奇心を満たしてくれた。だだっ広い檻の中で、唯一僕を異なる世界へと導いてくれる切符のように見えた。その切符が往復であったことは残念極まりなかったが。
◇ ◇ ◇
学校に通い始めたのは中学の時だった。
それは延々と書物を読み耽る僕を見かねた執事の男の計らいだった。
彼は父の大量解雇にあたって唯一残した執事長の男であり、僕が生まれるよりずっと前からこの家に仕えていたとのことだ。屋敷の管理を一任され、以前は父の命令により僕に近づけなかったそうだが、父が酒に溺れて生ける屍となった時分にようやくコンタクトを取れたという経緯らしい。
僕への虐待を止めることが出来なかったことを涙を流しながら懺悔していたが、僕にとってはとんだお門違いの同情だった。
執事長には様々なことを教えられた。外の世界の常識や僕が読んでいた書物の補足、先代、つまり僕の祖父に当たる人物に拾ってもらったとの思い出話まで。最後の話にはさしたる関心を覚えなかったが、学校という概念に僕は強く関心を抱いた。
僕が見たことのある人間は父と執事長のみだったので、多くの人が集まる空間は僕にとって未知の世界だったのだ。予め執事長に作法と会話術について教わり、僕は校舎に乗り込んだ。
結果として、学校は実に有意義な場所だった。児戯のような授業には欠伸が止まらなかったが、他の生徒との交流は別だった。
これまで経験のなかった同級生との対話は拍子抜けするほど容易く終わり、僕は確かな手応えを感じた。能力を丁寧にひけらかすだけで無数の級友が群がることに気づいた。もとより空っぽな僕にとって、理想の同級生を演じることは朝飯前だった。
稚拙な思考回路には一切の共感を覚えなかったが、有象無象にとって僕はひどく魅力的に映ったようだった。メッキが施された仮面を本物の金のように持て囃し、敬虔な信者がごとく易々諾々と僕に従う彼らを見るのは滑稽で、笑うという行為の心地よさを知った。
生まれて初めて存在を肯定された気がした。潤ったことのない喉は渇きを知らない。僕はずっとこの感覚に飢えていたのだと初めて知った。愚かな人々に祭り上げられることは僕にとって途方もない快感だった。
僕は彼らを支配することにのめりこんだ。周囲から卓越するためにスポーツに励み、効率的なコミュニケーションを学び、あらゆる実践をこなした。ままならないと思うだけの現実は小さな箱庭では大きく景色を変えた。
幸福だった。
羨望、嫉妬、礼賛、彼らからの眼差しはどれも僕の心を充足させた。豪奢できらびやかな自宅よりも、薄汚れて年季の入った教室こそが僕の居場所だった。
僕にとって初めての学校を卒業すると、そのまま高校へと進学し、あの少年と出会った。
◇ ◇ ◇ ◇
執事長は慈悲深い人物で、一人暮らしをしたいという僕の我儘を叶えてくれた。大きな家は買うことができないと申し訳なさそうにしていたが、あの家で暮らすことに比べればなんの問題もなかった。書斎の本棚を制覇してしまった僕にとって、いよいよ居る意味のない場所だったからだ。
小ぢんまりとしたアパートの一室を与えられ、僕だけの家を手に入れた。
そうして、空虚な豪邸から遥か遠く離れた学校に意気揚々と足を踏み入れ、僕は入学式の壇上で新入生代表のスピーチを務めた。僕の立ち振る舞いに賞賛の表情をする新たな箱庭の住民に満足していると、欠伸をする一人の生徒が目に入った。
それが、彼だった。
僕の容姿と声に圧倒される人々の中で、退屈そうにスマートフォンを弄る姿は際立っていた。すぐに教師にバレると、嗜めるように叱られている姿に危うく笑いが漏れそうになった。
僕の芝居に惑わされない人種に好奇心を抱いた。僕は順調に自らの王国を築きながら、彼をひそかに目で追うようになった。
背格好と顔立ちは平凡そのもので、少し目を離せば周囲に溶け込むような特徴のない少年だった。電車の中、街の中、どこかですれ違ったならば決して記憶に残ることはない。雑踏の一員に過ぎず、誰の目にも止まらないような凡庸さを持っていた。
しかし僕は彼のことを知るにつれて、自分が惹かれていくのを強く実感した。
彼は平凡な見た目とは裏腹に周囲に惑わされない強さがあった。他人を嘲るでもなく、価値観を否定することもなく自らの在り方を定義づけられることができていた。僕の、ほんの表層に過ぎない仮面に反応を示さないことがなによりの証左だった。
ひたむきさ、愚直さ、彼が持つものはどれも僕が持たないものだった。大きな奔流に流されず、逆うこともせずに飄々と自らの理想を追い求める姿は輝かしい美しさを内包していた。ブリキの兵隊を積み上げて愉悦に浸る僕とは大違いだった。
どうにかして彼をもっと知りたかった。悶々とした感情に苛まれていた時、生徒会役員の募集のポスターを目にした。天啓のような掲示を目にして、これだ、と僕は決心した。
初めて彼に話しかけた日、僕は自分の胸が高鳴っていることに気づいた。大衆が求める完璧さを演出しきれないことは初めてだった。彼はそれに気づいているのか、そうでないのかは定かではなかったが、上擦る僕の声に彼は眉を軽く持ち上げるのみだった。
彼がフィクションの世界に憧れを持っていることは以前から知っていたので、生徒を統べるだの権力を握るだのといった、琴線に触れそうな嘘を適当に並べて生徒会へ誘った。
案の定彼は食いつき、学校の支配に腰を浮かせて飛びついた。小説から視線を離し、表情の起伏は薄いながらも目を輝かせる彼はやはり魅力的に見えた。
一年生が生徒会長選挙に立候補するのは異例のことだったそうだが、僕にとってなんの障害でもなかった。仮に落選したところで彼と同じ空間にいることが叶う別の手段を講じるだけだ。
言うまでもなく、この時既に僕は彼のことを好いていた。他人に好意を抱くのは初めてで、戸惑いも多かったが、不思議と不快さはなかった。むしろ僕の通学路の足取りは軽くなる一方だった。
僕は彼のためだけに新たな仮面を誂えた。表の顔は優秀な生徒、裏の顔は皮肉屋で、他者を嘲笑うことに喜びを覚える人物というものだ。それは見せかけの人格だったが、彼と僕だけの秘密を共有することは、僕にとって新鮮な喜びを生じさせた。
全てが猿真似と虚構でしかなかった僕に初めて体温があるように思えた。それほどまでに恋焦がれていた。
僕は永遠を信じたいと思った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
彼との日常は予想を超えるほどの歓喜があったが、彼が女子生徒と話すときだけは、渦巻くような嫉妬があった。
しかし彼は純然たる異性愛者で、僕はどうしようもないほどに同性愛者だった。
感情に蓋をする。僕は裏の顔を持つ優等生であり、そのさらに奥は見せてはならない。彼に拒絶される事だけはなによりも避けたかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
季節は巡り、彼と出会ってから三度目の冬。
突然、全ての終わりを告げる呼び鈴が鳴った。日もほとんどが傾いた、やけに冷える夕暮れ時のことだった。
ドアの先にいたのは執事長だった。普段の物静かで優しげな雰囲気は鳴りをひそめ、厳粛な表情をしていた。この三年間で便りは何度か届いていたが、この家に来たのは初めてだった。
ついに来たか、と僕は目を伏せる。
僕は努めて気楽に話しかけると、執事長は皺の畳まれた顔をゆっくりと頷かせた。
父が死んだ。
まあ正直、そこはどうでもいいのだが、問題なのはその後だ。当主がいなくなり、残る親類が息子のみということはつまり、僕が家を継ぐということだ。家督を相続することは父が何年もの間怠っていたあらゆる責務をこなすことになる。
僕の一人暮らしを認めること、遠く離れた地で過ごすこと、その全ての援助をすること。これらの願いに執事長が唯一出した条件が、父の死とともにかつての屋敷に戻ることだった。
覚悟はしていたし、そのカウントダウンが今日だったというだけの話だ。予期していたものが訪れただけに過ぎない。
僕は一日の猶予をもらって、この地へ別れを告げることを決めた。執事長は恭しく一礼すると、車で走り去っていった。
夜も更けていき、部屋は冷える一方だったが、暖房をつける気にはなれなかった。秒針の音が大きく刻まれる中、僕は一人で考えていた。
全てを擲つという選択肢はもとよりない。唯一の恩人である執事長のささやかな願いを踏みにじるほど、僕は薄情ではなかった。
僕の育ての親は執事長だ。父であるあの男の惨状を見てもなお僕の家から去らず、僕の願いを叶えてもらったのに、どうして彼の要望を無視できよう。
それに、どの選択を辿ったとしても、僕の隣に彼が立つことはない。痛切で、揺るぎないその事実は僕に僕に諦念の情を抱かせるには十分だった。
これからは目が回るほど忙しくなる。その上、あの家から高校までは県どころか地方すら跨がねばならず、ここらの大学に通うことは現実的ではない。彼と会うことは滅多になくなるだろう。
まあ、仕方がない。あまりに楽しかったもので、現実がままならないものだということを忘れていた。
いつかは必ず訪れる別れの時だ。それが一年後だろうと明日だろうと変わりはない。それに、まさか永遠の別れというわけではない。機会があれば何度だって会えるだろう。
僕は彼に最後に別れを伝えることに決めた。明日の十七時に生徒会室に来い、という簡潔な文面をメッセージアプリで送信する。
これで良い。どうせ叶うことはずのない恋だ。傷は浅いうちに済ませ、僕は僕の、彼は彼の道を歩めばいい。彼の足枷になるのは僕の望むところではない。
そう、仕方のないことだ。
「……あ」
指先に痺れるような痛みがあることに心付いた。いつのまにか僕はスマートフォンを指が白くなるほど握りしめていた。
「なァにやってんだか。こんなことしたって……」
独り言を呟きながら気づく。軽快な語り口がすっかり板についていた。彼にだけ見せていた、彼のためだけの僕。
そうだ、この口調もこれからは必要ない。見せる相手のない仮面はゴミ箱に放り込まなければならない。そう、全てを一新して、全部、なかったことに。
ああ。
突如として異音が鳴り響いた。
ほんの少しして、自らがスマートフォンを壁に投げつけた音だと気づいた。視線を落とすと、転がった端末を囲うように小さな破片が散らばっていた。
心臓の輪郭がどうしようもなく黒ずんだような心地だった。息を吸っているのか、吐いているのか、それを確かめることすら不快だった。
苛立ちとも焦燥ともつかぬ感情の細波を堪えながら、ゆっくりと息を整える。そして、ふと思い出した。父はこんな気持ちだったのだろうか。喪失の痛みとは、これだったのだろうか。
袖をまくり、左腕の薄らと残る傷跡を指先で撫でた。さんざっぱら痛めつけられたのにも関わらず、目に見えてわかる痕跡はこれだけだ。力任せに暴力を振るっていると思っていたが、存外に気を遣っていたのだろうか。今となっては確かめようもない。
一つだけ分かることは、血は争えないということくらいだ。もう使い物にならないであろうスマートフォンを眺めながら僕は自嘲した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あれから、数年の月日が流れた。今も、冬になるとあの日の夢を見る。彼が僕の手を取ってくれていたらどうなっていただろうか。唾棄すべき思考だと我ながら思う。それでも僕は虚構の幸福に手を伸ばすことをやめられなかった。
あの日、僕は彼との別離を前にして、どうしても愛を諦められなかった。煮え滾る欲望が僕の全てを焦がしていた。窓の外を眺めると、あの日のような厚い雲が空を覆っていて、それは夜が更ける頃には一雨来そうな表情をしていた。
僕の手がけた事業は順調に軌道に乗っていた。不幸中の幸いというべきか、父は資産を食い潰すような真似はしていなかったようで、かなりの遺産が僕の手に渡った。とはいえ僕は栄光の座には興味がない。執事長を雇えるほどに細々と、この家がゆっくりと存続できるよう過ごせれば良いだけだ。
それはかつての絶望が拍子抜けするほどに、淡々とした日常であり、世間との隔絶もなかった。多分、彼と会おうと思えば容易くそれは叶うのだろう。しかし同時に胸の奥底にしまった熱情が報われることもないという確信もあった。
その事実を今度こそ証明しようとするほどの気概も勇敢さも僕は持ち合わせていなかった。加えて、彼の中で僕が大きな破片となって刺さっていて欲しいという浅ましい考えの答え合わせもしたくはなかった。出来ることなら、かつての幻想として胸の片隅に置いたままであって欲しい。
執務室でキーボードを叩いていると、ノックの音が聞こえた。執事長だ。おそらくは縁談の進捗を伝えにやってきたのだ。
この家の血を絶やさないでほしい、という老人の願いを僕は叶えようとしている。何かを塗りつぶすように、何かを押し込めるように。
まあ、いい。僕はもとより空っぽなのだから。誰かに望まれるように生きるのは得意技だ。
自らの唇をそっと撫でる。
あのキスを僕は生涯忘れないだろう。彼もきっとそうであって欲しい。
悔恨も、慙愧も、僕は抱え続ける。
慇懃な態度で部屋に入る執事長を、僕は微笑みながら迎え入れた。