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鮮烈な青と、滲んだ黒

 嫌というほど聞きなれた規則的な騒音が静かな車内で木霊していた。時計の針は頂点を少し過ぎたあたりだったが、最終列車ということもあってか、車内はそれなりに混み合っていた。


 眠りこける中年の男、疲れ切った顔でスマートフォンを眺めるOL、派手な髪色をした大学生と思しき青年、各々が退屈な帰路を粗雑に消費している。


 彼らをぼんやりと眺めながら自らの頬をゆっくりと撫でる。


 どうやら普段よりも熱を帯びているようだった。それは、指先が冷えているからか、酔いが回っているからか。あるいはその両方なのかはアルコールでふやけた思考では定かではない。


 手を下ろし、顔を上げた。窓の外で高速で流れる白と黒が入り乱れた幾筋もの線を無感動に見つめる。しばらくそのままでいると、眠気がじんわりと瞼にのしかかってきた。


(少し、寝るか)


 一眠りを試みるべく、ぼやけつつある視界でドアの上に取り付けられている液晶をちらりと見た。降りる駅まではまだ猶予があることを確認すると、ゆっくりと目を閉じる。意識が急速に眠りの底へと落ちていくのを感じた。


 覚醒の糸を手放す寸前、フラッシュバックのように、青い情景が浮かび上がった。


◇ ◇ ◇


 高校の屋上の片隅で小説を読んでいた。持参の座布団の上に寝っ転がりながらパラパラとページを捲る。桜が往生際悪く枝についている、四月の半ば。少し湿った、涼やかな風が肌を撫でる季節だ。この時期のこの場所は上手い具合に日陰が広がる絶好の読書スポットだ。


 活字に目が吸い込まれる心地よさに酔っていると、突然金属音が意識を遮った。


 ドアノブを捻る音。ああ、鬱陶しい。


 教師か、彼か。どちらにせよ厄介な相手には変わりない。


「やあ、副会長」


 開いたドアから、涼やかなテノールの声が聞こえた。予想はしていたが、いざ聞こえるとうんざりする。


「……なんでいんだよ。集会中だろ」


 不機嫌さをこれでもかというほど声音に込める。


「そうだね。つまり朝会を生徒会長と副会長がサボってる、ってことになる。これは由々しき事態といえるなあ」


 ちらりと一瞥すると、彼はいつものように微笑を湛えていた。弓形に細められている切れ長の瞳のすぐ前を、さらさらとした絹糸のような前髪が装飾のようにゆらめく。


「俺を副会長なんてのに仕立て上げたのはお前だろうが」


「生徒会に入れば全生徒の権力を握れる、なんて嘘を信じた君も悪いでしょ」


「黙れ」


「バカだねえ。たかが生徒会にそんな力があるわけないのに」


 彼はくすくすと笑った。どんなに毒付いても余裕を崩さないその態度が癪に障る。


「それで、朝会はどうしたんだよ。確か挨拶みてえのがあっただろ」


「先生に代役を頼んだよ。ちょっと体調が優れないですーってね」


「お前もサボりじゃねえか」


「まあ、全然疑ってなかったし良いんじゃない?心配そうにあたふたしてたのは笑えたけど」


 本から視線を外し、けらけらと笑う彼に侮蔑の視線を向けた。朝会の欠席に関してはお互い様だが、こちらはわざわざ教師を欺くような真似はしていない。あまつさえ、こいつは心配の目を向けた人間を陰で嘲笑っている。外道はどちらという話だ。


 目線に気づくと、彼はさらに口角を歪めた。


「君は変なところで正義感強いよねえ」


「お前は多分捕まるぞ。詐欺罪とかで」


「あのさあ」


「なんだよ」


「僕がそんなヘマするわけないでしょ」


 彼は呆れたように溜め息をついた。


「全く、フィクションの見過ぎで屋上に入り浸るようなバカじゃないんだからさ」


 彼はやれやれというように首を振りながら言った。


「俺のこと言ってんのか?」

 

「他に誰がいるのさ。わざわざ開放厳禁の場所に忍び込むためにドアの鍵まで壊す人間はそう多くないと思うね」


「お前が秘密基地っぽいの学校にあったらテンション上がるくね、みてえなこと言ったから壊したんだろ」


「でもその前からここによくいたでしょ」


「……なんで知ってんだよ」


 当然のように言い当てられ、不快が滲む。言葉に詰まり、せめてもの抵抗として睨みつけると、彼はやはりとでも言いたげな笑みを浮かべた。その表情を見て、あっ、と思う。


 どうやらカマをかけられたらしいということを悟った。


「ていうかさ、大体の授業に出席しないで必死に自主学習に励んでるのも漫画の影響でしょ?」


「……違えよ」


「じゃあ、なに?」


「人にはいろいろあんだよ」


「なにそれ」


 どうしてこいつに図星を突かれるとこんなにも腹立たしいんだろうか。鼻先を殴り飛ばして凹ませてやりたくなる。自らの表情が、募っていく苛立ちに呼応していくのを実感する。


 彼はさらに調子づいた様子で続けた。


「授業はサボるけど、実は賢い!っての憧れてるんでしょう?年甲斐もなく」


 皮肉を言うのが楽しくてしょうがない、というように彼はゆっくりとこちらに歩を進めてくる。


「とはいえ、くだらない憧れだけで学年トップに迫るその努力は認めるよ」

 

「死ね」


「まあ、流石に授業に出てる僕には勝てないみたいだけどね」


「死ね」


 本をポケットに突っ込み、彼に背を向けるように寝返りを打った。


 すると、こちらの反応が気に入ったらしく、彼の大笑いする声が聞こえてきた。


 つくづく、不愉快だ。


◇ ◇ ◇


 彼は外面だけでいえば、生徒会長に相応しい男だった。


 成績は優秀、抜群の運動神経。さらには端正な顔立ちというオマケまでついている。誰にでも愛想よく、教師からのウケも最高。漫画の中からそのまま飛び出てきたように出来過ぎた男だった。


 同時に、彼は辟易するほどの悪辣な性質を持っていた。


 彼には誰でも彼でも嘲笑の的にし、薄汚いユーモアで茶化すようなことを趣味があった。加えて彼はその趣味を最上の娯楽として捉えていた。トリカブトのように全身が毒で出来ているのではと疑ったことも一度や二度ではない。


 そして真に恐るべきは彼の猫の被り方の卓越さにあった。彼のその本性は二人きりの時にしか決して見せず、誰かが介入した途端にまるで別人のように変身する。彼の変わり身の早さには毎度舌を巻いていた。


 しかし、なぜそれほどまでに隠し通そうとする内面を自分にだけ打ち明けたのかは全く分からなかった。何度思い返しても引っかかる節が一切ないのだ。仲を深めていくにつれて徐々に正体を表したわけではなく、出会った瞬間からそうだったのだ。


 高校一年の秋頃、生徒会選挙の少し前に突然話しかけられたと思えば、開口一番に学校の掌握計画を話し始めたのだ。曰く、僕らは学年で一二を争う成績だから、僕たちのような賢い人間がこの学校を統率すべきだ、といった文言で。


 それを真に受けて生徒会副会長に立候補した自分も愚か極まりないが、フィクションの見過ぎだったことは否定できない。


 そういえば、彼に一度だけ理由を彼に聞いたことがあった。なぜお前はその本性を俺にだけ見せるのか、と。


 すると彼は胡散臭い笑みをこの瞬間だけひっこめ、考え込むような仕草をして黙り込んだ。口から生まれたような彼にしては珍しい反応だった。


 しばらくすると彼は、つい間違えてしまったのだ、というような旨のことを呟いて肩を竦めた。


 嘘をついているのは明白だったが、言葉の濁し方がどうも不自然で追及をやめたのを覚えている。優等生の仮面とも、その下のニヤケ面とも違う表情に違和感を覚えたのもあって、それ以上聞くことはなかった。


 だが、今となっては、その胸の内を無理矢理に抉ってでも覗いてみれば良かったと後悔している。


 彼を最後に見たのは高校三年生の冬、時雨の降る十二月末のことだった。


◇ ◇ ◇


 肌寒さを誤魔化すようにポケットに深く手を突っ込みながら廊下を歩いていた。大粒の雨が窓をせわしなく叩いている。上履きが湿気で濡れ、時折リノリウムと擦れて甲高い音を鳴らす。


 終業式からは既にかなりの時間が経過しており、下校時刻も迫ってきている。そのうえ人気のない校舎の端へと歩いていることもあり、他の生徒の姿は全く見当たらなかった。雨雲に覆われた空も相まって、まるで真夜中の学校に忍び込んだかのような心地だった。


 生徒会が解散し、一つ下の学年に引き継いでからでから早二ヶ月。受験勉強に励む中で、彼との会話の機会はめっきり減っていたが、昨晩突然メッセージが届いたのだ。


 下校時刻の前に生徒会室に来い、と。相変わらずの命令口調だったが、彼からの呼び出しは今に始まった事ではない。むしろ久々の会話の話題すら考えるほどだった。


 薄暗い校舎をゆったりとした歩調で進みながら、高校生活をなんとなしに回想する。


 入学当初は読んだ漫画に当てられて不良めいたことをしていたが、大学受験が迫るにつれフィクションに浮かされた熱は冷め、サボりは減っていった。


 疎ましがっていた生徒会活動もなんだかんだで幕を引き、いざ終わってみれば教師陣からの心象も上がり、会長以外の役員とも交流を深めることができた。


 つまり、めでたしめでたしといった次第なのだが、役員に入った経緯が経緯なのでなんとなく腑に落ちないものもあった。とはいえ、彼が誘うことがなければ生徒会副会長にはならなかったわけで。ほんの少しだけ、感謝の念はあるかもしれない。一ミリくらいは。


 そんなことを考えていると、ようやく生徒会室に辿り着いた。三年の教室は学校の西端にあり、生徒会室は東端にある。校舎の中だけとはいえ、それなりの距離だ。ふう、と一息つくと、引き戸に指をかけた。


 鍵は開いているようだったが、ドアに備えつけられている曇りガラスからは光は見えない。どうやらこちらが先に着いたらしい。


「おーす」


 軽快な音を立ててドアを開け、捻り慣れた照明のスイッチに手を伸ばそうとした。


 その途端、人影が目に入った。


 ギョッとして思わず硬直する。


 部屋の奥の窓際に彼は佇んでいた。外の様子を伺っているようだったが、日も傾き始めた土砂降りの夕方では、薄ぼんやりとしたシルエットでしか分からない。


 古ぼけたノートパソコンや乱雑に置かれたプリント、わずかに香るインクの匂い。既に懐古の念が絡みついているそれらはほとんど暗闇の輪郭に支配されている。にも関わらず照明はついていない。


 怪訝な状況に口を開けられずにいると、やや掠れた彼の声がした。


「十四秒の遅刻だよ、副会長」


「……それは遅刻じゃねえ。時間通りに来たって言うんだよ」


「そうかもね」


 彼はゆっくりと振り向いた。その表情は窺い知れなかったが、何故か、いつもの微笑は浮かべていないような気がした。胸のうちに僅かな緊張が走る。


「つうか、なんで電気……」


 再度スイッチを手探りで捻ろうとした瞬間だった。


「点けないで」


「……あ?」


 またも面食らう。彼から一度も聞いたことのない声音だったからだ。こちらを強く咎めるような、そんな声だった。普段の飄々としていて、余裕を崩さない彼とは似ても似つかない。


 二年以上になる彼との付き合いの中で初めての展開が続くあまり、何を言い出すか迷っていると、彼は小さく謝った。


「ごめん。あんまりさ。なんていうか、その、人に見せたい顔をしてないから」


 口籠る彼の様子を見て、いよいよ閉口してしまう。


 この男の口から謝罪の言葉が聞こえたことに動揺が収まらない。その上、自分の容姿をも含めた全ての能力にに絶対的な自信を滲ませる彼が、自分の顔を見せたくない?


 なにがなんだか分からなくなってしまった。これが現実なのか、そうでないのかすら怪しく思えてくる。


「……どうしたんだよ」


 やっとの思いで絞り出した言葉は月並みで、この空間に足るとは思えなかった。


「人には、いろいろあるんだよ」


 彼の面持ちは暗闇に紛れて見えることはない。ただ、やはり、彼の様子が尋常でないことだけは確実だった。見たことのない彼の姿に、正体のわからない焦燥のような感情が胸に流し込まれていく。


 二人とも口をつぐんだまま重い沈黙が流れる。ざあざあと降りしきる雨音だけが生徒会室にやけに響いていた。まるで別人のような彼にかける言葉が見つからない。


 一秒か、一分か。時間の感覚が引き延ばされて曖昧になっていく。ぐるぐると回る思考はとめどなく、答えを出すことはない。


 息が詰まる。


 ここだけ酸素の濃度が著しく薄いのではないかと錯覚するほどだ。脳裡が明滅するようにチリついていき、目眩がする。


 今、自分が立っているのか横になっているのかすら分からない。呼吸すら満足にできていないような気がした。


 永遠に続くかのように思えた歯がゆい沈黙は、彼によって破られた。


「あのさ、逃げない?」


 縋るように震えた音色が、鼓膜を揺らした。


 急激に意識が現実に引き戻され、視界が脳髄を鷲掴みにする。


 いつのまにか彼の顔が鼻先が触れ合うほど近づいていたことに気づいた。驚倒のあまり喉から声にならない空気が漏れた。


 光のない部屋に慣れ始めた瞳孔は、ここにきて彼の顔を鮮明に捉える。彼の濡れた瞳は、この部屋で最も黒く澱んでいるように見えた。


 異様なほど鋭利な視線に気圧され、思わず後退る。しかし、もつれた足ではそれすら叶わず、へたりこむように尻餅をついた。


 どこへ。なにから。なぜ。


 無数の言葉の螺旋が渦巻き、塵と化していく。指先すら満足に動かせないほどに全身が強張る。じっとこちらを見下ろす彼の顔から目が離せない。その深淵のような虹彩から、目が離せない。


 彼は能面のように無表情だったが、徐々に軋む音が聞こえるほどに面様を歪めていく。それはまるで、ガラス細工に罅が入っていくようだった。


「どこか、電車とか、乗って……」


 その声は薄く、細い糸を手繰り寄せるような繊細な祈りに聞こえた。彼の静かな懇願には、今までに見てきた明朗さ、明敏さはどこにもなかった。


 彼はゆっくりとこちらに覆い被さると、唇をそっと重ねた。乾き、ざらつきながらも柔らかな肉の感触がした。


 実に理解し難いことだが、今の彼はこの世で最も美しいもののように思えた。呆然とした思考の中で、奇妙なほど冷静に彼の魅力を品評することだけが意識を占めていた。


 ただ一つ、この光景を生涯忘れることはないだろうという確信だけがあった。


 粉々になった鏡が照らされるような鈍い輝きが、目に焼きついていた。


◇ ◇ ◇


 ふと目を覚ますと最寄駅に到着した旨のアナウンスが流れていた。慌てて立ち上がり、転がるように電車から降りた。


 独特な空気音を吐き出すと、電車は次の駅へと走り去っていった。がらりとした夜の空気が広がるホームには自分しかいない。快速が通り過ぎるような駅の終電の降車客は少ないようだった。


 未だ意識が覚めきらないまま、フラつきながら階段に足をかける。


 かつての、熟した果実のように甘ったるく、腐肉のように忌まわしい記憶が瞼の裏にへばりついていた。


 あの後、彼は何も言わずに足早に去り、二度と姿を現すことはなかった。教師や級友に聞いても、誰も彼の動向を知る者はいなかった。全てが幻のように忽然と消え失せたことに、得もいわれぬ落胆を感じたのを覚えている。


 彼の家を訪ねようと思い立った時に初めて、自分が彼の最寄駅すら知らなかったことに気づいた。後に、彼は自らの生い立ちや家族を始めとしたプライベートな情報の一切を級友の誰にも告げていなかったことを知った。


 彼の担任すら彼の深い部分を知らないようだった。三者面談のような機会においても彼は一人で臨んでいたらしかった。家が特殊だから、の一点張りで事情すら話すことはなかったとのことだ。それは担任としてどうなんだ、とは思わないでもないが、彼の超然とした態度で言い包められてしまうことはいやというほど理解できた。


 生徒の個人情報を漏らすことを渋っていた担任だったが、彼と自分の関係(もちろんあの冬の一件は伏せたが)を説いてようやく住所だけは聞き出すことができた。しかし、やっとの思いで辿り着いたアパートには覚えのない表札がぶら下がり、見知らぬ住人がさも初めからそうだったかのように鎮座していた。


 時が経ち、霧散していく。彼と過ごした日々も、あの趣味の悪いジョークも、現実と追憶の狭間に溶けていく。


 瘡蓋だけが癒えずに心の奥底で表象し続けていた。


 改札を出ると、生温い空気に迎えられる。湿った匂いが鼻腔を支配する。空は夜であっても分かるほどにどんよりと濁り、一雨来そうな予感が漂っていた。


 彼の抱えていた事情はわからない。何か重い病気だったのか、家の事情があったのか、それとも別の何かなのか。全ての真相は闇の中だ。


 あの日の、あのキスが現実であるということを除いては、何もわからないままだった。


 自らの唇を指先でなぞる。


 雨が来る前に帰らねばならない、と俺は早足で家へと向かった。

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