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八朔日の贄  作者: 絶山蝶子
六話・刑務所
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刑務所・その2




 七月に入って、男の体調が突如悪くなった。


 夕食後に突然ぼーっと恍惚にふけるようになり、それが落ち着くと今度は幻覚を見るようになった。


「見られている。」


 そう言って常時何者かの視線を感じて落ち着かなくなり、窓の外や天井、排気口の向こう側を恐れ、運動時間も外に出ることを恐れ、小さな音にも敏感に反応をし度々痙攣を起こした。

 目は充血し頭痛を訴え、焦燥感にかられ、夕食に出されるお茶を欲しがり、みるみるやつれていった。


 ――――――――薬物の中毒症状に似ていた。


 兄は心の底から男を軽蔑していたが、同じ釜の飯を食った仲としてほんの少し情も湧いたらしい。

 英語や覚えたての男の母国語で励まし看病してやったそうだ。


 兄は看守に何度も医者に見せるように言ったが、症状が現れてからは全く聞き入れてもらえず男は放置された。

 看守だけではなく、周囲も彼にその症状が現れてから男の存在を無視しはじめた。

 それまでしょうがないとハイハイと男のことを生暖かい目で見守っていたのに、突然、己の視界から排除し始めた。


 男がどれだけのどの渇きを訴えても男の声がまるで耳に入っていないように無視をした。

 点呼時にあえて男を飛ばしたり、どれだけ話しかけられても兄以外皆、そこに彼が存在しているが居ないものとして振る舞う様になっていった。


 突然の変わり身に気味悪く思っていると、休憩時間に長老が兄に「もう大丈夫だからあれと関わるのはやめなさい」と忠告をしてきた。

 兄は一体何のことかと問うと長老はこう続けた。


「あんたはあと数ヶ月でここを去るから、知らないほうが良い。ただ、あれはもう見つかってしまった。下手に関わると我々も見つかる。八月一日に持っていかれる。これは儂にも看守にもどうすることも出来ない。今まであんたはよくこらえた。もう大丈夫だ。」

「――――――薬を盛っている事と関係があるのか?」


 あえて直球に兄は長老に訪ねた。

 長老は目を見開いて兄を見つめ返したが、深く項垂れ目頭を手で抑えた。


「――――それは知らない。知らないことになっている。上が何を考えているか、考えてはいけない。」


 答えろ、と煮えきらない長老に兄は腹を立て低い声で脅した。大切な人が外にいるだろうと。どうなってもよいのか、と。

 長老はそれでも頭を横に振り「こらえてくれ。」と懇願した。


「儂からは何も言えない。言えないんだ。――――――八月一日の夜、お前さんもどうか、見て見ぬふりをしてくれ。そしてなにが聞こえても謝りなさい。祈りなさい。自分が犯した罪を、傷つけた全てに人に、心から謝罪なさい。――――――儂らはいつもあの男にも言っていた。何度も促した。何も出来ないがそれを説くことだけは許されている。それを聞かなかったのはアイツだ。何度もチャンスはあったはずなのに……―――もう儂らではどうしてやることも出来ない。」


 休憩時間が終了し、長老と兄はその場から離れた。

 そしてそれ以降、その話題に触れることはなかった。


「あの男が言うように、あの男の神が慈悲深い存在なら、きっとお救いくださるだろう。」


 男は唯一無視をしなかった兄に益々依存するように縋った。


「ミーさん、ミーさんは俺が見えているよな?」


 男は一日に何度も兄に確認するようになった。

 兄は他の連中に習うにはあまりにも意図が読み取れず、男のしつこい質問に対し毎回律儀に「見えているよ」と答えていた。


「良かった。ミーさんが見えているなら、俺は存在するんだ。周りのくそったれども、どいつもこいつも俺を散々馬鹿にした挙げ句無視しがって――――最近は俺はアイツにしか見えていないんじゃないかって……」


 アイツとは誰だ?と兄が問うと、男は周囲に怯えながら知らねえ、と答えた。


「じっと見てきやがる。窓の外から、天井から、床から、俺を見てやがる。なんなんだ、あれは?ミーさんにも見えてないのか?俺だけが感じているのか?なあ、今もいるじゃねえか、ほら、ずっとずっと上から俺のこと睨んで……ミーさん、俺は今まだここにいるよな?助けてくれよ、なあ、アイツをどっかやってくれよ。喉が渇くんだ。アンタに言われた通り、夕食の麦茶を飲んでないよ。アレが欲しくてたまらないんだ。でも我慢してるよ、なあ、アンタしか頼れねんだ。アイツをどうにかしてくれよ!」


 ――――――やつれた男に兄は正直、ざまあみろと思ったという。


 ただ弱り果て泣いて縋ってくる姿を煩いと蹴り飛ばすには周りの反応が妙に引っかかって、何も答えずただ男の背を優しくなでてやったそうだ。


 追い詰められ兄に対しては助けを求め始めた男だったが、やつれながらも己の罪や今までの傲慢な態度を改心する事は一切なかった。


 無視する周りの囚人に対して「くたばれ」と唾を吐きつけた。


 






 そして七月三一日の深夜。




 いつも通り作業を終え、夕食のあと休息時間を経て何事もなく一日を終えた。

 就寝し布団の中に入る。長老が言った事が本当なら今日、男の身になにかが起こる。

 眠れないまま、ぼんやり天井を眺めて、頭の中で別のことを考えながら時間を潰した。


 ようやくうつらうつら睡魔に身を任せ始めたころ、カチッと時計の音がやけに耳に入り兄は完全に目が冷めてしまった。

 時計の針は八月一日の午前0時をさしていた。

 あまりのタイミングの良さに、真夏だと言うのに、ひやりと冷たいものが背筋に流れた。



 ズルっと、這う音が部屋に響いた。


 最初は排気管の方から聞こえた。

 ズルズルと何かが引きずる音が、隣の、寝ている男の布団に向かって近づいてきている。

 音は、2つ3つ重なって、4つ目がすぐ足元まで近寄ると停まった。


 体が動かなかった。金縛りにあっていた。


 自分の心臓の音と息を潜めたような周りのか細い呼吸。

 全員、起きている。

 そして、伺っている。


 右からぐうっという呻き声が聞こえた。

 男の声だった。


 ギリギリという締め上げる音が呻き声に混じって聞こえる。

 男が身を歪ませ逃れようと布団の中で蠢くのを音だけ聞いていた。




 助けなければならない。


 男は、なにかに襲われている。


 兄は、男の横暴に辟易していた。


「死ねばいいと思ったが、それは自分が知らないところで勝手に死んでほしいのであって、寝ている真横で殺されて欲しいなど思ったこともない。俺はどうしようもないカスだが、ここで男を見捨てては本物の人でなしになってしまう。――――――それだけは、どうしても嫌だった。」


 兄はその時の事をこう語っている。

 なけなしの良心をまるで武勇のように語る。


 

「ごめんなさい。」


 金縛りと格闘していると、ポツリと男と反対側から囁く声が聞こえた。


「ごめんなさい。」


 今度は向かい側から。


「ごめんなさい、ごめん、ください。」


 そして扉の向こうから、ごめんなさい、ごめんなさいと謝る声が周囲一体を包みこんでいく。


「ごめんなさい。ごめんください、ごめんなさい。ごめんなさい。」


 あるものはお経を、あるものは聖書を、あるものは祝詞を唱えながら、ひたすらに、 

 なにかに謝っている。

 男に対して、ではない。

 自分がここに入れられるきっかけを、各々が懺悔している。


「お金を盗んでごめんなさい」

「女を騙してごめんなさい」

「子供が血を吐くまで殴りつけてごめんなさい」

「嫌がっても押さえつけて犯してごめんなさい」

「横領してごめんなさい」

「火をつけてごめんなさい」

「人を殺して、ごめんなさい」


 好き勝手なことを抜かしやがる。

 兄は酷く腹が立ったそうだ。


 今、まさに男が得体のしれないなにかに襲われているのに、どいつもこいつも考えるのは自分のことだけだった。


 本当は兄もそうしたかったそうだ。


 酷く、恐ろしくてたまらなかった。


 なけなしの良心が、ミーさんと慕う異国の男の顔が、折れそうになる兄の心を奮い立たせた。


 ――――私は、兄のそういうところが本当に大嫌いだ。

 

 兄は気味悪さに、胃の中のものが逆流するのを止めることが出来ず、仰向けのまま吐きあげた。金縛りが解けけるとゲロを拭い取って上げ起き上がり、そのまま男の布団を勢いよく剥がした。


「大丈夫か!?」


 薄暗い部屋の中で男は仰向けで大きく口を開け、足を広げた状態で折り曲げまるでおむつ替えをする赤子のような体制のまま固まっていた。


 口からはよだれがこぼれ落ちて瞳は見開いたまま、時折うぉおと低い呻きが喉の奥から漏れ出している。


 ミチっと言う締め付けられる音がして、胸の前で固定された両手を見るとなにかに締め付けられるように手首が赤く腫れ上がっていた。



 ――――――何かが、男の体を固定し巻き付いている。


 口が閉じられないのは、口の中にズルズルと侵入しているからだ。いっぱいに押し広げられて喉仏が上下に動く。


 一瞬慄いたが男の口元に手を伸ばすと、冷めたくつるりとして若干の弾力性がある管上の物を触る感触がして、兄は思わず手を離した。


 ――――鱗があった。

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