村上家について・その4
まずい現場を見てしまったのかもしれない。
僕はこれからどうなるのだろう。
車の中で弥勒がタバコに火を付ける。
副流煙が鼻の奥に入っていく。
あの白い粉は、――――――
――――何故。
何故、彼の部屋にあったのだろう。
誰が、彼の部屋に置いたのだろう。
そもそもあれは、何方だったのだろう。
僕にしか壊せない招き猫を、何処で調達したのだろう。
それを、彼の弟に渡して、どうしろというのだ。
証拠隠滅だろうか。
朔也くんなら確実に処分してくれると踏んだのかもしれない。
僕にそこまでの信頼がなかった話だ。
そして弥勒に見つかった。
そうだとするなら、もう手遅れだ。
僕は失敗している。村上くんの信頼に答えることができない。
理由はどうあれ、僕はもう、村上くんを信用できない。
連れて行かれた先は事務所ではなく喫茶店だった。
てっきり証拠隠滅で僕も消されるのでは……と怯えたが、どうやらまだそのつもりはないらしい。
客席が4つとカウンターのこじんまりした店で奥の4人がけの座席に通される。
僕らを下ろすと車は何処かへ去ってしまった。残った部下が二人店の前でタバコを吹かしていた。
「お疲れさん。好きなもん食っていいぞ。」
メニューを手渡された、コーヒーとチーズケーキセットを頼んだ。
本当は腹など空かせていなかったが、ここで恐らく食べ物を頼まなければ、彼のプライドに泥を塗る気がした。
弥勒はアイスティーのストレートとサンドイッチのセットを頼んだ。
ウェイトレスがメニューと注文を受け取り少々お待ちくださいとカウンターに戻っていく姿を眺めていると、弥勒さんはタバコに火をつけて一服深く吸う。それまでずっとつけていたサングラスを外した。
透き通る翡翠の瞳。目鼻立ちが整った顔立ち。彫りが深くもしかしたら異国の血が混じっているのかもしれないと思った。
何か、話さねばならない。
あの粉のこと、招き猫のこと、村上くんのこと。
今日は、汗ばかりかいている。
沈黙を破ったのは弥勒だった。
「――――ありえないんだよ。」
タバコの吸い殻を灰皿に押し付けながら弥勒は独り言のように呟いた。
「村上の事件。あれは、ありえないんだ。」
「何故……」
弥勒は運ばれてきたサンドイッチを二個鷲掴みにすると豪快に口を開け放り込む。
僕はコーヒーには手を付けず、チーズケーキのフォークを手に取り続きを待った。
「俺の部下の部下……そのさらに下のやつがヤクを取り締まってんだが、――――そいつが変な客がいるって言っていた。その客は気前が良くてな、週末に必ずやってくる。純度が高いやつだけを、どれだけ値段釣り上げても嫌な顔も文句持たれず笑顔で買っていくだとよ。その癖このスパンで買いに来るにしては妙に小綺麗で中毒症状が出ている様子もなかった。」
咀嚼しながら肘をつき翡翠の目が窓の外を眺める。
「――――これは流してやがるなって――売人が部下の部下に相談した。――そいつのこと調べ上げたらビンゴでよ。丘の上にカルトがいるだろ?ほら駅前で良くビラ配ってる薄いピンク色の作業着きてよ……――――――懺悔こそ救いだったかな。覚えてねえや。」
丘の上のカルト……――――大学の裏に広がる住宅街を進んだ先にある新興宗教団体の建物の事だ。
この喫茶店の窓の外からでも見える、四角いブロックが積み重なったような奇妙な形の建物。
信者たちが何十人も共同生活をしており、よく駅前でビラを配って布教活動をしている。
「ま、そこの熱心な信者の一人ともう一人…………ああ、クソ。……ま、流してたわけだよ。金は取ってなかったそうだ。信者との密会を収めやビデオには、ごめんなさいごめんなさいって謝る女と若い男に大丈夫ですよって声かけて自分が買った薬を金も受け取らずそのまま渡していた。――――――良くねえよな?」
――――わかるだろ?と2本目のタバコを取り出し、ふと気がついたようにタバコケースから残りの本数を「吸うか?」と僕に差し出した。
丁寧に断ると深々椅子に持たれ深く煙を吐き出す。僕は冷めたコーヒーにようやく口をつけた。
「んで、部下の部下とで拉致ってわからせたのが、事件の前日だ。」
コーヒーがむせ上がりそうになった。そうかと納得もした。
「事務所の地下で数人でボコった。頭をバットで打ち、爪を剥がし、右足を砕いて、耳に爆竹も入れた。ケツも掘ったな。――――――暇だから俺も何度か殴らせてもらった。気に食わねえ、そうだろう?ヤクを流していたことより、そっちがどうしても許せなかった。時間をかけて甚振った。その間、あの畜生は泣きもしねえ叫びもしねえ。呻き声をぐっとこらえてこっちを憐れむような、気味の悪い目でじっと見つめ返すんだ。そして言うんだよ。」
物騒なことをペラペラと並べる弥勒はすっと背筋を伸ばし、村上くんそっくりの不気味なほほ笑みを浮かべて囁く。
――――謝りましょう。謝れば、許されます。
一瞬間をおいて、弥勒は大きく息を吐き出すとウェーブがかった柔らかそうな髪をくしゃりとかきあげる。
「今、罪を犯し断罪されてるのはテメーなのにな。――――最後はスタンガンで気絶した。俺は若頭が呼び出されて、一人、ガタイの良い新入りを見張りにつけて他のやつ引き連れてその場を後にした。――――――その時、帰ってきたら死んでると思ったんだよ。そのくらい、徹底的にやった。その日は若頭と飯食って、隣の部屋で女とヤッて寝た。」
弥勒は村上くんを殴ったその指でアイスティーのストローを撫でる。
グラスの中の氷がカランと音を立てて転がった。
「翌日、下処理面倒くせえなあって思いながら事務所に行ったら、部屋住みが血相変えて「あいつが居ない」って言うんだよ。んな馬鹿なって地下に降りると、部屋中が血溜まりで真っ赤に染まっていた。――――真ん中に昨日見張りを命じた新入りが顎から上だけ残して落ちていた。」
口内炎に八重歯があたり口の中に含んだコーヒーが、一瞬だけ鉄の味がした。
下顎から鈍い痛みがジワジワと広がる。
「他の遺体はない。やつの姿は何処にもない。事務所中、家具ひっくり返して探したが、新入りの顎から下と奴の姿が何処にも居ない。手形も指紋も、足跡すら何もなかった。事務所から外に出た形跡がないんだ。監視カメラは俺等が出ていって直後から、部下が様子を見にいった間だけ、ごっそり切れていた。」
「それは……その……」
「いっそサツにでも頼りてえ気分だったぜ。そうこう探して血溜まりの地下室を若衆に掃除させて上の事務所に戻ったんだ。事務所を探してるはずの部下が、スマホでニュースを呆然として眺めていた。サボってんじゃねえって怒鳴ると、兄貴、コレってスマホをこっちに向けてよ。」
弥勒はそこまで言うと大きな口を開けて残りのサンドイッチを平らげる。
口の中に残るそれをアイスティーで流し込むように飲み込むと後ろに凭れかかって足を組み直した。
「――――あー、下手なホラーより怖かったね。昨日、俺らが散々ボコボコにした野郎が、殺人事件で捕まってんだよ。被害者が俺の部下ならまだ……まだ納得できた。妹の同級生、しかも殺して――――内臓まで食ってやがった。」
えげつない話をしながらも弥勒はサンドイッチだけでは足らなかったらしくウェイターを捕まえてパスタを頼む。僕はチーズケーキの半分で気分が悪くなりフォークを握る手を机の上におろしていた。
「ありえないんだよ。あの怪我で、ハヤトを、新入りをぶっ殺して、足跡つけずに事務所抜け出して更に中学校に監視カメラに映らず侵入し、弟の同級生の女子を殺して食う。無理なんだよ、あの状態で、出来るはずがないんだ。」
「――――じゃあ、犯人は……」
「共犯がいる。」
僕が村上くんじゃない、と言い返そうとして、見透かしたように弥勒は遮る。
じっと翡翠が僕を睨む。最初に会った時のような空気が凍るのを感じる。
美しい人だ。だからこそ、余計に迫力があった。
「――――違いますよ?」
「さぁどうだろうな。」
弥勒はナプキンで口の端を拭う。
「でもそれじゃ、村上くんが犯人やなんて、無理やないですか。ありえへんって……」
「村上で犯人で間違えねえよ。それだけは真実だ、ただトリックがわからないだけだ。」
「そ、それは……そこまで言い張るんやったら……そ、そその共犯とやらは、一体誰で何人ぐらい……?」
「さあな。ボロボロのやつを担いで歩いて、証拠隠滅する。3人はいるんじゃないか?怪しいよな、特にあの丘の上の、」
弥勒はピッと窓の外を指さした。
村上くんが出入りしていたという、例の教団の施設。
「あそこにいる連中にも話聞いたんだ。口は軽い。信憑性はかなり低いがな。そいつらが言うんだ。そうしたら最近入信した家族が逃げてきたっていうんだ。――――――身内が、罪を犯したから、許されたい助けてくれ、と。村上家のことだ。ただなぁ…………」
「ただ?」
「話聞く限り一家の入信した時期は、事件の後なんだよ。でも村上がヤクを配っていたのは先だろ?元凶のような宗教に縋るかね……と。もう、考えれば考えるほどわけわかんなくなってさ。」
頭がこんがらがりそうだ。
今日だけで、村上くんの知らない顔が浮かび上がっては重なってぼやけていく。
「ハヤトの、仇をとってやりたい。」
弥勒は残りのアイスティーを一気飲みし、机に置いた。
「俺と一緒で親が早く死んだって言ってた。容量がいい、かわいいやつだった。顎から上を焼いて少ししか骨が残らなくてよ。親父が憐れんで無縁仏に入れるのは可哀想だって言って、別件で死んだやつらと一緒に祀ってやるために墓を注文した。まだ完成してなくて、遺骨はうちの事務所に置いてあるんだ。」
それまで威圧を持って話していた彼の声色が、少し震えている。
「誰に殺されたんだ?村上だけか?違う、なにか、いる。よくわからない。もやみてえな、なにか。そいつを調べて見つけて、この手でぶっ殺さねえと気がすまない。」
吸い殻を灰皿に押し付け、目頭を少し抑え俺の顔をじっと見た。
「お前は、本当に違うのか?」
ギクリ、となにかがバレたように驚いて弥勒山を見た。
あのときの、招き猫に退治した時のような、バツの悪い気分。
確かに、僕は何も知らない。
独り言のようなつぶやきに、安心を覚えなければならないのに何故だか、酷く、悔しかった。
――――――本当に僕は、何も知らない。
「僕は、何も知りません。」
チーズケーきの残りを手で掴み一気に口の中に入れて咀嚼する。コーヒーで流し込むと、今朝から何も食べていなかったことを思い出した。
「ああ、そうだよな。事件の時間にアリバイがある。俺が奴を殴っている最中も、奴が弟の同級生を殺している最中もだ。そして今日直接会って、あ、こいつに人殺しは無理だなってわかった。」
「それは……」
良かった。心から安心した。だが。
その様子を眺めながら弥勒はくくっと笑う。
「知りたくないか?」
悪魔のように絶妙なタイミングだと思った。
「村上が残したヤクが他にもあるかもしれないし、あの宗教施設に足がついたままなのも気分が悪い。俺は心配性でね、気になる事があると他に手がつかねえんだ。どうだ、お前も気になるだろう。家に引き籠もって暇そうにしてたもんな。」
なあ?
弥勒は続ける。
「違うっていう証をくれよ。」
最初から、この瞬間のために、弥勒は僕に接触をしたのではないか。
そう思えてしまうほど。
一瞬でも、悩む事を赦さなかった。
食べ終わってラインのアドレスを交換したあと店を出た。
家まで送ろうか?という弥勒の誘いを断った。
もうとっくに実家もバレているけど、生活圏にこの蛇のような男を入れたくなかった。
「サツに行って話してもいいぞ。」
別れ際に意外なことを口にされ驚いた。
「ああ、お前に信用がないってわけじゃないぞ。俺だってほんとにお前を疑ってるわけじゃねえよ。手口が手口だろ?それに知り合いがいるんだよ、広警上の方に。そいつに俺の名前出したら協力してくれる。多分、これはあいつの専門だ。似た話をいくつか知っている。心当たりは、ある。だが、俺が直接警察に行くわけにはいかないだろう?」
広島県警獣害対策課に山上伊吹という男がいると名刺をもう1枚渡された。広島まで行けということか。
サイクリングをしに行くはずだった、広島。
しまなみ海道を渡って愛媛の今治まで行こうと、話していた。
村上くんと多摩くんと氷見さんと吉川さん、もう一人、吉川さんが友達の女の子を連れてくると行っていた。名前は確か、
「西……」
「なに?」
「いえ、なんでもないです。わかりました。」
広島に行ったら、見えてくるのだろうか。何かが。
再び黒塗りの車に乗り込んで、弥勒は去っていった。
村上くんは。
普通の青年だったはずだ。
少なくとも、ヤクザにリンチを受ける事をしでかすような、そんな事をする人間ではなかったはずだ。
ましては薬物を――――――――
僕の中の村上くんが、どんどん塗りつぶされていく。
穏やかに、困ったように、微笑む彼の瞳が、黒く染まっていく。
赤い縦縞が入り、口と鼻を失い、代わりに大きな瞳がぱっくりと割れた顔からこちらを見ている。
村上くんが、人でなしになる――――――
それを黙って見ていた、だから僕は。
名刺を懐に入れ、家路につく。
最寄り駅で丘の上の宗教団体がビラを配っていた。
気になって1枚貰う。
ごめんなさいね、と渡された紙に書かれたのはよくある世界の終末や核戦争のことやテレビやメディアの陰謀論ではなく、ただ一文、
「悪いことをしたら謝りましょう」と
ごく当たり前の事が書かれていた。