大切な人が亡くなったとき、私達は後悔しかできない(前編)
「お先に失礼します」
定時になり、はやる気持ちを悟らせないよう落ち着いて帰り支度を整え、退社する。
事なかれ主義の私が普段から心がけているルーティーンだ。
同僚の中にはそんなことを全く気にせず、5分前には帰る準備を整えチャイムと同時にダッシュで帰る人もいる。
その気持ちは大いにわかるのだけど、一応終業5分前でも業務時間中なのだから、そこまであからさまな態度だと流石に印象が悪い。
そういうタイプは飲み会などにもあまり参加しないため、水面下でどんどん評判を落としていくことになる。
私も飲みにケーションなどの業務時間外の付き合いは否定派だけど、それを表に出すことはない。
思っていても口に出さないことが、社会で上手く立ち回るための秘訣だと思っているからだ。
ただ、昨今はそういった人の目を気にしないでいられる人が増えてきているし、その方が結果的に良いことも増えてきている。
コンプライアンスやハラスメント対策により口出ししにく状況になっているのは、彼ら彼女らにとっては間違いなく良い環境になっていると言えるだろう。
私もそんな風になれたら幸せなのだろうか? と思うものの、そうなりたいとまでは思わない。
人に悪く思われるのも、人を悪く思うのも、ただ心が疲弊するだけだ。
私はただ、凪のように穏やかに生きられればいい。
◇
「ただいま~」
「美凪!」
家に帰ると、慌てた様子でお母さんが駆け寄ってくる。
お母さんは普段あまり大きな声を出さない人なので、こんなに焦っているのはかなり珍しい。
「ど、どうしたの?」
「どうしたのじゃないわよ! 何度も電話したのに!」
「っ!?」
そう言われスマホを確認すると、確かに通知が何件も表示されていた。
「ごめん、運転中だったから……」
「そ、そうよね、私こそ運転中に何度も連絡して、ごめんなさい……」
私はバイクの運転中、スマホはマナーモードにして触れないようにしているので、電話があっても基本的に反応することはない。
お母さんもそれは知っているため普段はこの時間に電話をかけてくることはないのだけど、どうやらそこまで頭が回らないくらいに動揺しているようだ。
「……何があったの?」
「穏和が、倒れたって……」
「っ!?」
穏和とは、6つ歳の離れた兄の名だ。
5年ほど前に家を飛び出し、それ以来一度も実家に帰っていないため、久しく会っていなかった。
その兄が、昼頃に心臓発作で倒れ、病院に運ばれたのだそうだ。
お母さんの様子から危険な状況であることを予想したが、一応手術自体は無事成功したそうである。
ただ、意識はまだ戻っていないらしく、話したりできる状態ではないらしい。
「それで、どうするの? 病院は?」
「それがね――」
兄は県外に出ているため、運ばれた病院も当然ながら県外にある。
お見舞いに向かうのであれば、今からだとタクシー使ったとしても深夜になってしまうだろう。
もし私も行くことになるのであれば、明日は有給を取ることも考えなければいけない。
そう思っての確認だったのだが、どうやらその必要はないらしい。
厳密に言うのであれば、必要がないというより向かっても意味がないのだそうだ。
理由は単純で、行っても病棟に入れないからである。
今年の5月より、新型コロナウイルスの感染症法上の位置づけが季節性インフルエンザなどと同じ「5類」に移行した。
それに伴いコロナは終息したという見方をする人もいるが、現実には感染リスクは減っておらず、むしろ感染者数は増加傾向にあるのだという。
そんな状況下であるため、病院はたとえ親族であっても見舞いを受け付けていないのだそうだ。
親族すら入れないなんて間違っていると憤る人も多いようだが、その結果他の患者さんが亡くなるようなことになれば大問題となる。
会えなくて不安な気持ちはわからなくもないが、自分の親族もそのリスクに含まれることを考えれば納得せざるを得ないだろう。
ただ、危篤などの危険な状況であればその限りではないらしく、親族が病棟に入ることも許可されるらしい。
つまりポジティブに考えれば、兄はそこまで危険な状況ではないということだ。
不安な気持ちは晴れないが、今は前向きに無事を祈るしかない。
――翌日、私はいつも通り会社に出勤した。
正直休みたい気持ちもあったが、有給の日数は限られているし、ここで迂闊に使ってしまうと後々の調整が難しくなってくる可能性もある。
我が家で働いているのは現状私だけなので、安定した収入源を持つ私が乱れるワケにはいかないのだ。
私が仕事をしているあいだ、お母さん達は病院に電話をするなどして改めて状況確認をしてくれることになっている。
意識は戻っていないものの、電話で声をかけることは許可されているらしい。
たとえ意識が戻っておらずとも、耳は聞こえているため声をかけること自体は意味があるのだそうだ。
仕事を終え帰宅すると、お父さんとお母さんから今の兄の詳細な状況を知らされた。
兄は仕事中に発作で倒れたのだが、どうもそれ以前から体調を崩しがちだったらしい。
その日も朝から様子がおかしかったようで、職場の同僚からは休んだほうがいいと説得されていたようだ。
しかし兄はその説得に応じず、最終的に倒れることになった。
なんとも人の話を聞こうとしない兄らしいな――と思い、過去の苦い記憶が頭を過ぎる。
……兄は本当に、人の言うことを聞かないタイプの人間だった。
注意をしても返事だけしてやろうとはしない――、世間的に見ればクソ野郎と表現して差し支えないだろう。
昔はシートベルトもしようとしなかったし、コロナが世界に広まるまではウィルスが流行ってもマスクもしなかった。
世の中それが当たり前のような状況になって、仕方なくそれに従う自分勝手な人間――それが私の兄に対する印象だ。
だから、兄が心臓発作で倒れたと聞いた瞬間も、他の家族ほど動揺はしなかったと思う。
それに、心臓発作の原因については――、正直心当たりがあった。
私も以前心臓の痛みを感じたことがあり、心配になって調べたことがあったからだ。
心臓発作の原因は様々だが、代表的なのは高血圧、糖尿病、運動不足、高コレステロール、血統、そして喫煙である。
……残念ながら、兄はこのほとんどに該当しているハズだ。
兄は元々健康だったが、求人詐欺にあい仕事を辞めてからは心身ともに病んでいった。
私はそれを心配して何度も説得を試みたが、やはり兄は私の言うことを聞いてくれず、私達の溝はどんどん広がっていった。
「今日電話越しに声をかけたらね、少し反応があったの」
「っ! そ、そう……、じゃあ、回復に向かってるのかな?」
「そうだといいんだけどねぇ」
反応があったということは、やっぱり耳は聞こえているということだ。
半信半疑ではあったが、声かけにはちゃんと意味があるということなのだろう。
その翌日、私も電話で声をかけさせてもらえることになった。
正直何と声をかけたらいいのかわからなかったため、無難なことしか言えなかった気がする。
残念ながらこの日は兄が私達の声に反応することはなかったが、しっかりと呼吸音が聞こえたので少しだけ安心できた。
ただ――
「脳梗塞?」
「ええ、どうも心臓発作の影響で併発したらしくて……」
どうやら兄は、心臓発作だけでなく脳梗塞も患ったらしい。
心臓の影響が脳に出るというのがあまりピンとこなかったが、そう珍しいケースでもないのだそうだ。
昨今は有名人が脳梗塞を患うことも多く、その名を耳にすることも多い。
それが原因で亡くなる人もいるが、それと同じくらい回復して今も活躍しているという話もよく聞く気がする。
私達は……、きっと兄もそうだと信じて、前向きに考えるしかなかった。
それから、私達は兄の面倒を見る環境について話し合った。
脳梗塞から回復したあとも、数年は介護が必要になるからだ。
仕事は辞めることになるだろうし、兄は実家に戻ることになる。
半ば拒絶するように出て行った兄としては複雑だろうが、そこは我慢してもらうしかないだろう。
正直私としても複雑な心境だったが、恐らく兄とまともに会話できるのは当分先になるハズ……
そのあいだに、可能な限り心の整理をしたいところだ。
――そしてその数日後、病院から、兄の危篤を知らせる連絡が入った。