5.至純な懸想
ロナウド教授は時々古ぼけたベンチに座り、空をぼーっと見ている。
学内の有名人が生徒の前に姿を現すことは多くない中、彼が生徒の目に触れることができる稀なタイミングとして学内ではよく知られている話だ。ロナウドが受け持つ講義は少なく、研究室の人数枠も多くはないので彼に会いたい学生はよくこのベンチで待ち伏せする。運よく出くわすことができた生徒は一瞬は大喜びするが、次の瞬間には足が竦む感覚に襲われるものも少なくはない。
教授自身は特に意識はしてないようだが、彼に憧れを持つ学生は畏怖に押しつぶされる感覚に襲われるようだ。たいていは遠巻きに見守り、教授に話しかけて貰えるのをひたすら待っていたりする。その中の1人にアズサはいたのだが、風が巻き起こした奇跡のおかげでロナウドと親しくなることができた。あの風が彼女の手持ちのレポートを吹き飛ばさなければ、ロナウドは彼女に気づくことはなかったかもしれなかった。
というのも、それまでのロナウドはこのベンチに座ると、空を見上げた先‥‥遥か遠くに意識がむかっていて。自分に向けられる無数の目には無頓着で、むしろ全く周りに関心を向けることもなかったのだ。
【空の先に何かあるのかな?何か研究のことを考えているのかしら?】
アズサは運よく教授を見つけ、見守るときは見つめる先を予想してみたが、その答えを知ることは難しかった。その表情はとても優しげで、時より切なかった。それが何かがわかり始めたのは、ごく最近かもしれない。アズサがロナウドに恋心を抱いてからだ……。
「ロナウド教授!」
アズサに声を掛けられ、ロナウドは我に返った。
「アズサさん……こんにちわ」
木で作られた古いベンチに腰を掛けていたロナウドは、優しく微笑むと自分の隣をアズサに推める。それに応え、彼女は腰をゆっくりと下ろした。
「休憩中ですか?最近はよくこちらでお会いしますね」
「え?あぁ、そうだね。最近はここでよく休憩をしているよ」
ロナウドはアズサを見つめるとニッコリと笑う。なんとなくこの子に会える気がして、ふらりと足がここに向く機会が多くなった。
フワリ
風にのって、優しいハーブの香りがロナウドの鼻をかすめる。ロナウドはその香りを嗅ぐと、心がとても落ち着いた。その優しい香りは、横に座る彼女からあふれてくるように思える。
「……実は、私、教授にここで会えそうな気がして、やってきちゃいました」
アズサは恥ずかしそうに顔を赤らめると、ドキドキしながらロナウドの顔をのぞき見する。その仕草がとても可愛いく、教授の心をドキドキさせた。
「そう、それなら私がここに来たのは良かった」
そう答えるのが精いっぱいに思えた。
「……教授はお忙しいから、なかなかお話できないので……ラッキーでした。嬉しいです」
「聞きたいこととかあったら、研究室に来るといいよ」
「え?いいんですか!?」
「いいよ。警備の人に言っておくし」
「ありがとうございます!!」
「そんな大したことじゃないよ。私も君と話をするのが楽しいんだ」
「私もです!!……あの……もし、良かったら。街のお祭りに一緒に行きませんか?」
街のお祭りとは、首都で1年に1度行われる穀物の収穫を祝う祭りのことだ。沢山の出店が出て、パレードや催し物が行われる。野外コンサートや演劇などもある。老若男女が楽しむ祭りだが、若い年代にとっては、代表的なデートスポットになっている。ロナウドとレオナルドも幼い頃はよく行っていた。青年期になってからは、レオナルドはその時々の彼女と行き、ロナウドは研究室で過ごすようになったが……。
「私と?友達とは行かないのか?」
ロナウドは思わぬ誘いにドギマギしてしまう。鈍感な兄であるが、さすがにここまで熱い視線を投げかけられ、その好意に気づかないほど愚かではなかった。
「教授と2人で行きたいんです」
ロナウドは嬉しくなり、思わず「いいよ」と返事しようとする………が、その言葉を慌てて飲み込んだ。ベンチの冷たさが、一瞬、背筋を伝い、冷静な思考へと引き戻した。
「……それは難しいと思う」
「私じゃダメですか?生徒だから?」
それはYESでもあるし、NOでもあるかもしれない。これから先があるこの子に、軽々しく手を伸ばすことは無責任だし、身勝手に思うのはその通りだ。気持ちだけで衝動的に動けなくなるほど、大人になってしまったのかもしれない。だけど、もっと手前なところで踏みとどまる。
「誘ってくれたのは正直な気持ち、嬉しいよ」
「そうなら、行きましょうよ!」
「それはダメなんだ。君のせいじゃない、私の問題なんだ」
アズサはその答えに納得できそうもない。教授は自分に対して好意を感じていると思う。それを何かが阻んでいるようだ。
「教授には迷惑はかけません。2人がダメなら、リュウくんたちを誘って……」
ロナウドは大きく頭を振った。失ったものが大きかった者はその恐ろしさを身に刻んでいるものだ。
「学外では会うことは避けたいと思っている」
「私が学生だからなんですね……」
「違うよ、君がダメだとかではないし、学生だからというわけではないんだよ」
「よくわかりません……嫌ならはっきり言ってください」
ロナウドは唇を噛みしめる。
「アズサさん、私は命を狙われているんです」
「え?」
「この大学外では私の周りはとても危険なんですよ」
「そんな……なぜ?」
「因果というものかもしれません……。ともかく、学外ではダメです」
何度も誘拐されそうになったというのは、噂で聞いたことがあった。しかし、命まで狙われているとは知らなかった。大学内は確かに警備が厳しいとは思っていたが、その理由がロナウド教授だというなら納得できるような気もした。
ロナウドは耐えきれなくなったのか、アズサから視線を逸らし空を見上げた。
その見上げた空は、あの時と同じ色をしている。その時も2人で見上げた空だった。その人は今はもうこの世には居ない人だが、ロナウドには命と同じくらい大切な人だった。逝ってしまった愛しい人が鮮明に脳裏に浮かんだ。
キリア……。
ロナウドは心の中で小さく呟いた。
その名は名残惜しい愛しさと引き出すと同時に、苦々しい罪悪感も引き起こす。純粋に自分に想いを伝えるアズサに対し、不誠実な向き合い方をしているし、身勝手な自分の彼女に対する想いには反吐が出る。しかし、キリアへの捧げてしまった心は、簡単に取り戻せるものでもない。
アガサへの自分の言葉は、真実であり嘘はない。今の自分の周りには危険が多いのは事実で、クロスがいつ仕掛けてくるかわからない状況なのだ。周りの人に危険を及ばせるわけにはいかない。
と並行して走る感情、過去と同じ過ちをしたくない……。
アズサは、ロナウドの様子を注意深く観察していた。何かを深く悩んでいる様子、遥か遠くの何かに想いを傾けている瞬間もあるような気もした。それなりに長い期間、ロナウドを観察してきたアズサはそれが自分には到底及ばない人への想いではないか、と最近わかってきていた。
ロナウドの苦しそうな表情に、アズサは手を伸ばしたく自分を抑えた。少なくとも自分の我儘が、今のロナウドを苦しめているのは間違いない。
「わかりました……学外は諦めます!でも、校内ならいいですよね?」
その自分を気遣う女性の声の方へと、ロナウドは顔を向けた。そして、いつもの笑顔が浮かんでくる。
「はい、それなら大丈夫だと思います。学内で会いましょう」
ロナウドの穏やかで落ち着いた声に、アズサは小さく頷いた。今はこれで十分だ。
レオナルドは2人から見えない位置から、そのやり取りを見守っていた。話し声は聞こえないが、2人の口の動きから会話の内容は理解している。
兄の不器用な想いは、弟としては不憫に感じる。しかし、その出した答えに安堵を覚えたのも事実だ。レオナルドにとって、ロナウドを守ることが最優先でたり、余計な保護対象者を増やしたくはない。
リュウと百合友は学外でもロナウドと一緒に活動しているが、彼らは別格だ。まだ幼くてもリュウは恐ろしく強い。百合友に至っては、人でもない。レオナルドはロナウドに集中しても問題ないのだ。しかし、あの娘はダメだ。一般人というのもあるが……あの娘はロナウドに深い傷を与える存在になりかねない。
ロナウドとアズサが笑い、挨拶をして別れると。それと同時に、レオナルドも動き始めてロナウドへと向かう。最近は、片時も兄のそばを離れていない。
クロスからメッセージが届いてから、ロナウドは学外で何度も命を狙われている。いくつかの誘拐まがいなこともあった。しかし、例外もあった。
クロスは、スノウ大学では手を出さない。