第一話「戦えるかな?」
シンとした静寂、ひんやりした風。
異様な空気を感じ取ってバッと起き上がった。
「ここは…ッ!?」
手で口を抑える。声がおかしい。自分の声じゃない。
成人男性の低い声。
頭に触れるとふわふわの大きな耳、お尻を触るとフッサフサの大きな尻尾。
立ち上がるといつもより遠い地面。
間違いないーーーーハルだ。
うそ。どうなってるの?
辺りは天まで届きそうな木々に囲まれている。その隙間から覗く空は漆黒で、月のかけらも見えやしなかった。
耳を立てて神経を研ぎ澄ますと小さな呻き声と剣の音、鼻には血の臭いと…なんだろう、腐った臭い。
自分がハルになっているということは、まさか異世界転生ってやつ?MMOに入り込むのはどれもVRだと思ってた。
腰にはいつも使っている片手剣、背中には盾。背中のカバンにはポーション類がいくつかと食料。
現状の確認はこんなもんか。しかし…。
「戦えるかな…」
不安はそこだ。ゲームでいくら戦っていても現実では当然剣など振り回したことない。いくら男の体になっても、魔物と対等に渡り合えるとは思えない。
剣を鞘から抜いて振ってみる。思っていたより重くなかった。が、やはりこれを振りながら魔物に向かっていくのは想像つかない。
そういえば、血の臭いと剣の音が聞こえたということは、今まさに戦っている人がいるのだろうか。
幸いハルの体は耳と鼻が良く効く。その方向に敵の気配があると気付ければ避けることも可能だろう。
そうも考えたが、助けられるものなら助けたい。それに1人は不安だ。もしこの世界のことを知ってる人ならば協力してもらいたい、なんて下心もあった。
戦闘地点は少し離れてる。1kmほど東の方だろうか、少し急足で向かうことにした。
血の匂いがいっそう強くなってきた。かなり近くまできた。
うっ、と吐きそうになりながら木の陰に隠れつつ様子を見る。暗くてよく見えないが、人のシルエットだけが見えた。
よかった、勝ったのかな?怪我はしてないだろうか?
「すみません、あの」
木陰から身を出して声をかけたのを後悔した。
振り向いた人間は、人間じゃなかった。
腐り切って溶けた肉、剥き出した骨、眼球は片方なくなっており穴だけがぽっかりと空いている。
ゾンビ、だ。
先ほどまで対峙していただろう人間の腕を胴体から切り離し、ひたすら肉に齧りつき、血を啜っている。
「ひっ………」
剣を抜こうとするも手が動かない。頭が真っ白になり、血の気が引く。全身が冷たく、まるで血が通ってないんじゃないかと思えるほどだった。
ゾンビはこちらをジッと見つめ、そして、こちらが恐怖のあまり後退したのを確認した瞬間、地面を蹴った。
「うっ、わぁぁぁぁぁッ!!」
敵に背を向けて走り出す。元来た道を戻るかのように。
だけど実際はただがむしゃらに走っているだけで、この道がどこに向かう道なのかさっぱり分かっていなかった。
ハルの体は速かった。風を切る、という感覚がピッタリだった。
それでもゾンビとの距離はあまり広げられなかった。
正確には少しずつ広がっている感じはする。しかし、あちらが体力の消耗をしないとしたら、このままでは追いつかれる。追いつかれないとしても、ずっと追いかけっこをしているわけにはいかない。
どこかで戦う必要がある。夜の張り詰めた空気が頭も冷やす。
震える手をぐっと握りしめる。冷たくて血の通ってない手。体温戻ってこい!
何度かグーパーを繰り返して感覚の戻りを確認すると、まずは背中の盾を掴んで勢いよく振り返った。
「シールドバッシュ!」
盾を構えたままゾンビに思い切り体当たりした。
もしここが異世界なら、デイサバの世界なら、盾にも攻撃力がある。シールドバッシュは盾を構えてそのまま敵に突っ込んでいくスキルだ。
盾の攻撃力は低いが、運が良ければ敵は転びスタン《気絶》する。
ゾンビは走ってきた勢いそのまま盾とぶつかったので、派手に転んだ。しかしゾンビということは脳がないか機能していないのだろう、スタンすることはなかった。
転んだだけで上等!その隙に剣を構え気を練り上げる。
剣先にマナが集まる。刀身が煌めく。
「フェザーストライクッ!」
剣がまるで羽根のようにふわりと舞い、ゾンビの体を斬った。
首のあたりを狙ったつもりだったが、ズレて胸の位置に傷がついた。
腐り切った体とはいえ、真っ二つになるほど柔らかくはないようだ。
「狙うならここだよ」
子どもの声とともに、おかっぱ頭の少年が上から落ちてきた。
逆さまの状態で止まり、一瞬で短剣を頭に突き刺すとゾンビは動かなくなった。
よく見ると少年の片足首からワイヤーが伸びている。足首の先はどうやら天にも届きそうな高さの木の枝に引っ掛けているようだ。
「えっ…と、ありがとう」
剣を鞘にしまって頭を下げた。
少年はクルッと回り片足で着地し、ワイヤーが出ている方の足先を木の枝ごと外す。
落ちてきた木の枝からぐるっと巻き付けてある足をほどき、ワイヤーを収納するとパッと見はもう普通の人間だ。
「急いでここを離れよう」
少年は剣を手の中にしまって走り出す。
わけもわからずついていくことにした。
森を抜け、草原のような場所に出た。
しかし草原を進むわけではなく、森と草原の境目を東に沿って歩く。
少しすると他の木々よりはるかに低い木が立ち並ぶエリアに出た。
「あそこ。僕の拠点」
木々の上にテントがあった。テントといってもすごく簡易的なもので、子どもが作る秘密基地のようなレベルだ。
数本の木をロープで繋ぎ、床になるように木の板を置いている。頭の上には布で雨避けをしてあるが、強風が吹いたら一発で飛んでいくだろう適当な作りだ。
ん、とだけ発して指差したのは木の溝。どうやらここに足を引っ掛けて登れという意味らしい。
「ゾンビは高いところに来ないから」
なるほど、だから高いところに拠点を作り、高いところを移動していたのか。
ガタガタと動く板の上で、少しでも安定した場所を探す。お尻を数回もぞもぞと動かした後、諦めて大人しく座った。
「まずは手短に説明する」
質問をする余地も与えられないまま少年は座ってこちらをジッと見た。
青い瞳がハルを映し出す。
「ここはドリトリ、ーーDream Tripの世界」
…ドリトリ?デイサバではなく?
そんな疑問を持つが、少年は話を続けた。
「そして死者、ゾンビたちはかつてのドリトリプレイヤーたち」
「え」
頭が働かなくなってきた。ドリトリプレイヤーがなぜゾンビに?
「とは言っても実体はないみたいでね。中身がいなくなったドリトリのキャラが、取り残されたこの世界でゾンビとして彷徨ってる…という感じかな」
ゲームのサービスが終わり、プレイヤーたちはみんなこの世界から消えた。なのにゲームキャラだけがゾンビとして生きている?
…さっぱりわからなかった。
「彼らは消えることも死ぬこともない。頭を破壊すれば停止するけど、次にはまたゾンビとして生き返ってる」
「次?」
「またこの世界にきたとき」
また?どういうことだろう?
「ん…僕あまり説明上手じゃないから、話せることを話しておく。覚えてないと思うけど。現実世界には戻れるけど、こっちの世界で生き延びることを第一に考えて。ここで死んだらどうなるか分からない」
???要領を得ない。この世界から戻れるのか?
とりあえず聞くことにした。
「ゾンビは噛まれると感染する他に、唾液や血液が体内に入ると感染する。
…君、ビオニム種だよね。何系?」
「狼」
「狼族か。絶対に変身して噛み付いたり引っ掻いたりの攻撃はしちゃいけない。体液を取り込むことになる」
言われなくても、ゾンビに噛み付くことを想像しただけで鳥肌が立つくらい不快な気分になった。
だけど爪や牙の攻撃は強力だし、話を聞いていなかったら使っていたかもしれない。危なかった。
「それとゾンビの他に普通にモンスターもいる。そっちはゲームと同じで普通に倒せばいい。モンスターはゾンビ化しないけど、元々いるグールから感染するかとかは分からない。」
げ、モンスターもいるのか。厄介だ。
どちらにしろ剣と盾で戦うしかないけれど、気をつけるポイントが違ってくるといつかミスを犯しそうで怖い。
「今のところ分かってるのはこの程度。何か質問ある?」
正直何もかもわからないことだらけだけど、まずは…そうだな。
「あなたの名前は?」
「ごめん。名乗ってなかったね。僕はファル。種族はヴォイド」
「ヴォイド…ヴォイドって、あの?」
聞いたことがある。ヴォイドはいわゆるアンドロイドのような種族だ。
平和で穏やかなデイサバに、唯一人間とPVP(プレイヤー同士の戦闘)ができる種族として実装された。
MMORPGにおいてプレイヤーは、あまりPVPを好まない。プレイヤーと戦うよりモンスターと戦いたい人が圧倒的に多い。
それに、ヴォイドは重課金キャラクターだ。他のキャラクターがダンジョンやクエストで装備品を入手するところを、ヴォイドは課金で入手する。ダンジョンで装備品が見つかることもあるが、レアといっても過言ではない。
獣人や妖精、巨人も小人もいる中で、わざわざそんな癖のある種族を選ぶ人はあまりいないだろう。
「この後、街に案内する。そこにいる人と協力しながら生き延びてほしい。…僕は入れないから」
…ヴォイドは人間と敵対しているという設定の種族だ。街にも入れない。だからこんな拠点を作って暮らしていたのか。
「街か…」
「街も安全ではないけど、ここよりは断然マシ。すぐそこのはじまりの街、ルエール」
ルエールはゲームを始めたプレイヤーが最初に訪れる街だ。さまざまなチュートリアルもそこで行われる。
はじまりの街と表記されているが、雰囲気は村だ。NPCも店も多くなく、始めたてのプレイヤーがホッと一息つく作りになっている。
「………」
「どうかした?」
「あの、ファルと一緒にいちゃダメかな?」
街に行って知らない人と過ごせる自信がなかった。
ファルと最初に出会ったからかもしれないが、離れるのが不安で仕方ない。
「僕もまだここにきて1ヶ月程度だから分からないことだらけだし、何より街の方が安全だよ」
「でも、ファルは危険なここにいるわけでしょう?」
「僕はアンドロイドだから、ゾンビに噛まれても感染しないんだ」
あっ、と吐息のような小さい声が出た。
なるほど、体液が流れていないからゾンビになりようがないのか。
「だけどプレイヤーには変わりない。ゾンビだろうがモンスターだろうが攻撃されてHPが尽きれば死ぬと思う」
死んだことないから分からないけど、と付け加えた。
なるほど、この世界には二つの脅威がある。ゾンビになるか死ぬかだ。
「だけどもし街に馴染めなかったら、いつでも戻っておいで。僕はしばらくここにいるつもりだから」
「…ありがとう」
ファルが立ち上がったのを合図に、街に向かうことになった。
「この辺はそんなに多くないんだけどね、街付近は少し増える」
歩きながらポツリと呟いた。
夜風になびくファルの髪は絹糸のようで、つい見惚れてしまう。
「たぶん元のプレイヤーが最後にログアウトしたところなんじゃないかと言われてる」
「じゃあ冒険者が集う街・ミスリムサなんかは…」
「相当ヤバいかもね」
ルエールは冒険者が最初に訪れる最初の街で、主にチュートリアルを行う場所だ。最初の買い物、装備品の種類、クエストの受け方、生産(薬草から薬を作る方法とか)などを教えてくれるが、そのためだけの街で広くない。
ほとんどのプレイヤーが用事を終えたら次の街へ進む。
しかしミスリムサは違う。ギルドやオークション広場、アバターを変更できるスタイルショップなど、あらゆる商店が集まっている。
たくさんのユーザーがそこで装備品を売買したり、余ったガチャアバターをオークションで売り出したり、仲間同士で集まってお喋りなんかをしてる。
ダンジョンに行ってる人やクエスト中の人以外はほとんど集まっているような街。
「これからどうしたらいいんだろう…」
ずっとここで暮らすのだろうか。生きるか死ぬかの世界に。薄暗く、ゾンビに囲まれながら。
「まずは情報を集めてから判断するといい。…着いたよ」
見覚えのある小さな街。だけど、違うところは屋根の上に拠点があるところだった。
ファルの拠点よりはかなりしっかりした、たくさんの人が普通に住めるような床や屋根が出来ている。
家というほどではないが、簡易的なテントもある。風が吹いても大丈夫なように壁も。
…これはすごい。
「街にクラフターがいるんだって」
クラフター。剣や鎧を製作することのできる生産職だ。もちろん木材を加工してアクセサリーや特定ジョブの便利アイテムも作れる。
ハウジングにおいては家具なんかも作れるらしい。その代わり戦闘スキルはほぼないらしく、サブキャラでやる人はいてもメインキャラでやる人は少ないだろう。
「すご…」
「でしょう。とりあえずここで過ごしてから、どう動くか考えることを勧めるよ」
ファルが手を伸ばし拠点の床をノックすると、赤い髪の男性が現れた。
ファルを一目見て理解したようで、無言で梯子を降ろしてくれた。
「またね」
「…ありがとう」
うまく言葉が出ないまま、梯子を登った。