伯爵様はブラック企業の社畜でした
幼いイーヴァを連れて邸宅に戻ったヴィートリヒに、使用人達は騒然となった。
「お館様! 奥様をお迎えにならずにお子を連れ帰るとは何事ですか!」
執事のアランが血相を変えて二人の元へと駆けつけて、大量の汗をハンカチで拭った。
アランは執事としてはガタイが良く、がっちりとした体形の持ち主だ。傭兵だったアランを館の守備兵にも丁度いいからと、ヴィートリヒが雇用したのである。
「アラン、すまぬが彼女に寝床の用意をしてくれ。暫く共に邸宅で過ごす事になるのでな」
「しかし、お館様。この少女は一体……?」
「うむ……彼女はその……」
どう説明したものかと難しい顔をしたヴィートリヒに、アランは眉を寄せた。
「お館様のお子様ですか?」
「そんなワケが無かろう!」
「そうですよね? お館様に全く似てませんし。本当にお可愛らしいお嬢様ですね」
ニコニコと笑みを浮かべながらアランは失礼な事を言ったが、彼には全く以て悪気が無い。ヴィートリヒも気にした素振りも見せず、イーヴァの頭を優しく撫でた。
「彼女の名はイーヴァだ。訳あって預かる事になったのだ」
「承知致しました。細かい事まで聞く様な野暮な真似は致しません。イーヴァ様、私は当クライバー家の執事、アラン・フリートベルクと申します。お見知りおきを」
アランが畏まってお辞儀をしたが、身体の小さいイーヴァにはアランの巨体が山の様で恐ろしく、サッとヴィートリヒの後ろに隠れた。
「巨人だわ!」
きゅっと小さな手でヴィートリヒのマントを掴む手が、なんとも愛くるしい。
「イーヴァ、恐れる事は無い。アランはこう見えて幼子にも優しいから案ずるな」
「嫌よ! こっちに来ないでっ!」
ヴィートリヒの後ろで震えるイーヴァに、アランは困った様に眉を下げた。
「申し訳ございません。私が居ては怖がらせてしまうようです。ご寝所の用意をしてまいりますね」
アランは軽く会釈をすると、メイド達に指示を出し、自らも準備の為に邸宅の奥へと引っ込んで行った。
アランの様子を見送りながら、ヴィートリヒはやれやれと肩を竦めた。
——アランの奴、俺のマントを受け取りもしないで。よっぽどイーヴァに嫌われたのが堪えた様だな。
「イーヴァ、心まで幼子になったのか?」
「ふ、ふん! そんなわけないでしょう!? ただ、背が低くなると周りが巨大化して見えるんだから仕方ないじゃない。怖いものは怖いのよ」
ぷっと頬を膨らませるイーヴァをひょいと抱き上げると、ヴィートリヒは邸宅内を案内する事にした。本当はアランに頼もうと思っていたのだが、ああも怖がられたのでは仕方が無い。
クライバー家の邸宅は王都から離れた自然豊かな地にあった。イーヴァの住んでいた古城もクライバー家の領地内に在り、実の所ヴィートリヒ自身はイーヴァの件については忙しさも相成って長らく放置していたというのが実情だった。イーヴァが魔力を吸い尽くした相手は、一時気絶こそするものの翌日にはすっかり元気になっているのだ。
人が死ぬという訳でも無し、大した被害も無いのであれば緊急性もない。それであれば優先順位は最下位に等しいというものだった。
そこへ来て、偶々領地訪問に来ていた王族の親類がイーヴァの被害者となり、更にイーヴァにすっかり惚れこんでしまった為、王が面倒そうに命令を下したというのが『古城のサキュバス討伐』の発端だったのだ。
クライバー家は代々魔術師の血筋で、その中でもヴィートリヒはずば抜けた魔力を誇る為、様々な依頼が殺到する。自分の領地内で起きた些細な出来事になど、正直構っていられないのだが、王命ともなれば話は別だ。
優先順位を最優先事項へと繰り上げて、忙しい合間に無理やりに依頼をねじ込んで古城へと向かったというわけだった。
広いが質素な邸宅の案内を一通りイーヴァを抱き上げたままし終えると、ヴィートリヒは執務室に行き、うんざりするほどの山となった依頼書を前にして、一瞬現実逃避の為か窓の外へと目を向けた。
『しんどい。もうやだ』と、ヴィートリヒの顔に書いてあるようだとイーヴァは思った。
「ねえ、えーと……ヴィートリヒさん」
イーヴァがおずおずと小さな手でヴィートリヒのマントの裾を引っ張った。
「私、手伝おうか?」
「……何をだ?」
「その依頼よ」
こんな小さな子供が何を無茶な事を……と、一瞬考えたものの、ヴィートリヒはじっとイーヴァを見つめた。
——俺が魔力のキャパオーバーする程の力を持った者だ。縮んだとはいえ使えるかもしれない。
冷静沈着なヴィートリヒがそんな風に考える事など通常ありえない事だった。つまりは、それほどに彼は疲弊していたのだ。
「うむ」
小さく頷くと、ヴィートリヒはイーヴァを抱き上げて椅子へと掛け、彼女を膝の上に乗せた。
「そなた、字は読めるのか?」
「私が何百年生きてると思ってるのかしら。この辺りの言語なら全てわかるわよ」
「なんと! では翻訳も不要ということか!」
これは便利なアイテム……ではなく人材を手に入れたかもしれない、と、ヴィートリヒはゴクリと息を呑んだ。
イーヴァが小さな手で依頼書を数枚取ると、ペラペラと捲りながら読み進める。その様子が何やら妙に可愛らしく見えて、ヴィートリヒはつい、イーヴァの頭を優しく撫でた。
——この人、どうして私の頭をこうも撫でてくれるのかしら。
イーヴァはヴィートリヒの行動を不思議に思ったが、嫌な気持ちどころか好感を持った。たった一人で古城に閉じこもり、忌み嫌われて寂しく生きていたイーヴァにとって、人の温もりというものに幸福を感じるのは当然の事だった。
「読めるか?」
ヴィートリヒの優しい声色にハッとして、イーヴァは慌てて頷いた。
「妖魔討伐が多いのね」
「そうだな。ここ最近妖魔達が活性化し始めているのでな。俺はこの辺りの貴族にとって便利な守備兵というわけだ」
赤毛の頭をかりかりと掻くと、ヴィートリヒは琥珀色の瞳でイーヴァが持つ書類を覗き込んだ。今更ながらに、ヴィートリヒはなかなかに男前だとイーヴァは思い、きょろきょろと辺りを見回した。
「ヴィートリヒさんの奥さんはどこに居るの?」
「忙しくてそれどころではない」
「相手をしてあげられないってことかしら?」
「いや。出会う時間がない。パーティーに出席するより依頼を片づけねばならぬ」
きっぱりと言い放ったヴィートリヒが不憫に思えた。よく見ると目の下には隈も出来ている。考えてもみれば、イーヴァが子供になるほどに魔力を吸われたというのだから、ヴィートリヒの魔力はよっぽど枯渇していたのではなかろうか。
「ねえ、古城に来た時って、何件目の依頼だったの?」
「前日から移動しながら依頼を捌いていたのでな、丁度二十件目だ」
「そんな働き方してたら死んじゃうわよ!? とりあえず寝たら!?」
「そなたから魔力を奪ってそれなりに回復したのでな、この後もう五件くらいはいけるぞ」
「いやいやいやいや! 居酒屋をはしごするのとはわけが違うのよ!?」
どうりでやたら質素な邸宅だと思った、とイーヴァは苦笑いを浮かべた。依頼を捌いて金を山ほど稼ごうとも、使っている暇すら彼には無いのだ。身なりも高価な装いだが、よく見ると古びており、随分前に仕立てたものであることが容易に想像できた。
「少しは休んだら?」
「その暇で依頼を捌かねばならぬ」
「ちょっと待って? 休まず働くだなんてホントに死んじゃうわよ!?」
「俺一人死んだところで、誰も悲しむ者などいない。つまらぬ人生だ」
——このヒト、ひょっとして忙しくて大人気なのに孤独なわけ?
イーヴァは段々とヴィートリヒが不憫に思えてきた。自分は一人寂しく退屈な毎日を送って来たというのに、彼は忙殺される程の忙しさに身を置き、それでいて孤独という共通の傷を抱えているのだから。
「そんな状態でよく妖魔討伐なんかできるわね。妖魔と対峙した時、魔力が枯渇していたらどうするのよ。普段から私みたいに口づけで奪うわけじゃないんでしょ?」
イーヴァのルビーの様な瞳に見上げられて、ヴィートリヒは『なんて可愛らしい……』と、眉を下げた。
完全に仕事に疲れた男性が愛らしい物に癒しを求める状態である。
「うむ、企業秘密だが、そなたには教えよう……」
そう言って、ヴィートリヒは机の下のボタンを押した。ゴゴゴゴという音と共に、壁の本棚が開き、様々な銃や短剣がずらりと並んだケースが現れる。
「魔術師と言っても、クライバー家は少々特殊でな。魔力をこうした武器に込めて戦うのだ。その為、俺自身の魔力が枯渇したとしても、銃弾や短剣には予め魔力を込めてあるので、問題ないというわけだ」
「ホントにそんな企業秘密を私に話していいのかしら……」
「問題無い。どうせクライバー家の血筋以外魔力の込められた武器を扱う事などできん。誰に知られたとしても悪用することはおろか、触れる事すらできぬというわけだ」
ヴィートリヒの膝の上から降りると、イーヴァは美しいとさえ思える程に煌めく弾丸の一つに触れようと手を伸ばした。
「やめておけ、その弾丸にはすでに魔力が込められておる! 俺以外が触れると火傷してしまうぞ!」
イーヴァの白い小さな手が火傷でもしてしまったら大変だ、と、ヴィートリヒが慌てて声を上げ、イーヴァはその声に驚いてびくりとした。
「ごめんなさい……」
しょんぼりと俯くイーヴァの姿に、ヴィートリヒは虐めてしまった様な気分になり、慌てて首を左右に振った。
「怒ったわけではない。そなたが怪我をすると思ったのだ。触らぬ方がいい」
「武器の手入れもヴィートリヒさんがしてるの?」
「いや、魔力が込められていない武器本体ならばそなたでも触れるぞ。手入れは主にアランがやってくれている。あの男は元々傭兵でな、当家ではガンスミス(銃のチューニングをする専門家)として役立って貰っているのだ」
唇を尖らせて、イーヴァがいじけた様に弾丸に触れようとした人差し指を下ろした。その様子をヴィートリヒが怪訝に思って小首を傾げた。
「銃に興味があるのか?」
「そうじゃないわ。弾丸に魔力が込められてるなら、私の食事になるかと思ったのよ」
「食事?」
「私のご飯は魔力だもの。ねぇ、お腹が空いたら私、どうしたらいいの?」
イーヴァの言葉にヴィートリヒはハッとした。クライバー家の血筋による能力を使えば、魔力を弾丸に込めることも可能だが、自らの体内に取り込む事も可能なのだ。
魔力が枯渇すれば、邸宅の地下にある魔力の泉からいくらでも吸い上げる事ができる。
——つまり、イーヴァが腹を空かせた時、俺が口づけして分けてやればいい……?
「いや、待て。しかしそなたの今の姿は犯罪だ」
「……私の姿の何が犯罪なのよ」
ヴィートリヒの考えを知らないイーヴァはきょとんとして小首を傾げた。
「いや、何でもない! そなたの食事については別途考えるとしよう。人間の食事でも腹が満たされるかもしれんしな」
「まあ、まだ数日はお腹も空かないかもしれないわ。身体が小さくなったおかげで、キャパも小さくなったみたいだもの」
「そ、そうか。まずはとにかく仕事にとりかかろう。時間が惜しい!」
ヴィートリヒはわざとらしくゴホゴホと咳払いをし、依頼書の束を手に取った。
「今日のところはそなたも疲れただろうから、休んでいた方が良いだろう。アランが部屋を用意してくれていると思うから、後程案内させるとしよう」
イーヴァはパタパタと駆けると、ヴィートリヒの膝の上によじ登り、依頼書を手に取った。
「全然平気よ。翻訳でもなんでも任せて!」
「……頼もしい限りだな」
ヴィートリヒはイーヴァの頭を優しく撫でると、二人で依頼書を読みながら依頼区域ごとに分類し始めた。多忙なヴィートリヒにとってはそれだけでも有難いことだった。
執事のアランは傭兵出であったため、主要文字の解読は問題無いが、多様な言語の依頼書を捌くまでの技能は持ち合わせていない。主が邸宅を不在にすることが多い為、アランは邸宅の守備としては申し分無いものの、ヴィートリヒの補佐としては有能とは言えなかった。
とはいえ、それを任せるにも余程優秀な人材でなければ難しい事だったし、そういう人材は王都で仕えているのでヴィートリヒの元に来る事は無い。そのくせひっきりなしに依頼だけは舞い込むのだから、忙しさの悪循環という最悪なパターンが出来上がっていて、依頼書の山は高くなる一方だった。
ヴィートリヒの挿絵ですが、銃は持たせたいけれども紳士的に……と思いながらポーズを決めました。
意図せずどっかの中尉のようなポーズに……!!