メフィストフェレスの誤算
イーヴァの目の前で、ヴィートリヒの背から漆黒の翼がバサリと伸びた。体中から光の玉が現れて、まるで解放されたかのようにパッと散る。
琥珀色だった瞳が銀色に変わり、冷たい光を放った。
その瞳を見て、ヴィートリヒの身体はメフィストフェレスを封印するに耐えられず、乗っ取られてしまったのだとイーヴァは悟った。
「嫌だ!! 私、ヴィートリヒさんが居ないなら人間になったって意味が無いのに!!」
イーヴァの瞳からポロポロと涙が零れ落ちた。
「メフィストフェレス。お願い、ヴィートリヒさんを返して!! 私、人間になれなくても構わないわ!!」
ヴィートリヒの身体を乗っ取ったメフィストフェレスがニヤリと笑みを浮かべた。すっと手を伸ばし、イーヴァの額に埋め込まれた真紅の宝玉に触れようとする。
「待って! ヴィートリヒさんを返してくれるのよね?」
メフィストフェレスは「無論だ」と答えようとして、ぐっと喉の奥から込み上げる熱を感じた。脳内に響く凄まじい耳鳴りに思わず額に手を当て、悶えた。
その様子を見て、(ああ、契約の魔術が健在なのね)とイーヴァは悟った。ヴィートリヒの身体をメフィストフェレスが乗っ取ろうとも、イーヴァとの間に結ばれた契約の魔術は断ち切れることなく、彼は嘘をつくことができないのだ。
「貴方は、私を騙したの? 私の願いを叶える気なんて、最初から無かったの?」
ツ……と、メフィストフェレスの口から鮮血が零れ落ちた。彼は堪らず膝をつくと、「そうだ!」と答えた。
「我の願いを叶える為、お前を利用したのだよ」
イーヴァはルビーの様な瞳に涙を溜めて、苦しみに悶えるメフィストフェレスを見つめた。
「どうすれば私は、私の願いを叶えられるの?」
「カーバンクルは自らの願いを叶える事はできない。お前が自分の願いを叶えるには、誰かに願って貰う必要があるということだよ」
メフィストフェレスは眉を寄せ、頭を押えながら唇についた鮮血を手の甲で拭い去った。
——ヴィートリヒ・クライバーが我を封印しようとする行動はある程度予測できた。しかしまさか『契約の魔術』などというものを結んでいるとは、誤算どころの騒ぎではなかった。
と、考えて舌打ちをした。
——これでは、カーバンクルに我の願いを叶えて貰おうと発した言葉が、ヴィートリヒ・クライバーの真意に背く為、この男諸共身を焦がし自滅してしまう……!
「……私以外の人に、願いを叶えて貰えばいいのね?」
イーヴァはポツリと呟いた。
ハッとして銀色の瞳でイーヴァを見つめるメフィストフェレスは、明らかに動揺していた。
——ナイトメアに、ヴィートリヒさんを返してと願って貰えば……!!
パッと踵を返して古城から出ようとしたイーヴァの手を、メフィストフェレスが掴んだ。
「逃すと思うか!! この瞬間の為に、我がどれほど待ちわびた事か!!」
「離してっ!!」
「お前を切り刻んででも我の願いを叶えさせてやる……!」
悲鳴を上げたイーヴァに反応するように、メフィストフェレスの脳内に声が響いた。
『させぬ!!』
ヴィートリヒはメフィストフェレスに完全に乗っ取られてはいなかったのだ。彼はイーヴァの手を離し、素早くホルスターからリボルバーを抜き、自らの額へと向けた。
『メフィストフェレス。そなたも俺も、この世界には不要だ』
ヴィートリヒの声は寂しげにメフィストフェレスの脳内に響いた。
「ヴィートリヒ・クライバー!! おのれっ!!」
メフィストフェレスの意に反して、リボルバーの撃鉄が起こされた。
リボルバーの中にはホローポイント弾が込められている。人体への殺傷能力が最も高い弾だ。ヴィートリヒは、いざとなれば自分ごとメフィストフェレスを消し去る覚悟を決めていたのだ。
放たれた弾丸は、容易に彼の頭部を粉々に砕くことだろう。
「やめろ!! 貴様は命が惜しくはないのか!!」
『惜しいと思うような人生ではなかった』
「カーバンクルがいれば、貴様の願いも叶うというのにか!?」
『とっくに諦めた生になんの意味がある?』
「……貴様……」
『さらばだ、メフィストフェレス』
「止めて、ヴィートリヒさんっ!!」
イーヴァが悲鳴を上げた。ヴィートリヒは一瞬チラリとイーヴァに視線を向けた。
彼女の美しい姿をその目に焼き付けて、僅かに笑みを浮かべた。
引き金が引かれ、撃鉄が下りる。弾倉に込められた弾が打ち出され、メフィストフェレスの額へと一直線に向かってきた。
ガン!!!!
額に凄まじい衝撃を受けたものの、頭部が吹き飛ぶことなく、メフィストフェレスは両膝を床につき、蹲った。
「い、た、たたた……!!」
イーヴァは何が起こったのか分からず、ポカンとしてメフィストフェレスを見つめた。
「あれ? 銃で撃ったのに、どうして痛いだけで済むのかしら? ヴィートリヒさんって、ひょっとしてすっごい石頭なの??」
涙目になりながらメフィストフェレスがリボルバーのシリンダーをスイングアウトし、弾倉を確認した。そこに入っていたのは、ホローポイント弾ではなく、ノン・リーサル・ブレッド。つまりは火薬が入っていない非致死性弾だった。
アランはヴィートリヒの覚悟を察し、わざと弾をすり替えていたのだ。
「ええい!! 忌々しい!!」
メフィストフェレスはそう叫ぶと、キッと銀色の瞳でイーヴァを睨みつけた。
「おでこ、大丈夫?」
心配そうにルビーの様な瞳で見上げるイーヴァに、「黙れ!!」と怒鳴りつけ、イーヴァはふるふると首を左右に振った。
「黙らないわ! その身体はヴィートリヒさんのものだもの! 返してよっ!! 大ウソつきの堕天使メフィストフェレスっ!! 貴方なんか神様に罰せられたらいいんだわっ!」
「ええい、黙れ黙れ黙れ!!」
メフィストフェレスは混乱する頭を押さえつけながら、必死に考えた。
——まずは一旦退くしかない。しかし、カーバンクルの宝玉をそのままにしてはおけない!
メフィストフェレスは腕を伸ばし、イーヴァの後頭部を強引に鷲掴みにすると、その唇にキスをした。
イーヴァの額に埋め込まれた宝玉が、赤々としていた真紅から薄紅色へと変わっていく。そしてみるみる身体が縮んでいき、イーヴァは眉を寄せてメフィストフェレスの頬を殴りつけた。
「何するのよ、下手くそ!!」
「へ……下手くそだと!?」
「そうよ!! ヴィートリヒさんのキスはそんなじゃないわっ!!」
すっかりと幼女の姿へと変わってしまったイーヴァが怒鳴ると、メフィストフェレスは銀色の瞳を細め、殴られた頬を手の甲で擦り、ぎりぎりと歯を食いしばった。
「くそ! 何故だか知らないが死ぬほど悔しいなっ!」
「出直してきなさいよね!!」
幼女姿のイーヴァはぷっと頬を膨らませ、メフィストフェレスに向かって小さな指をつきつけた。メフィストフェレスは忌々し気に眉を寄せると、銀色の瞳でイーヴァを見下ろした。
「なんにせよ、この男無しでは、お前の宝玉はそう簡単に赤く染まる事も無いだろう」
イーヴァはハッとして額に触れた。しかし、幼女の姿となった彼女の額には、宝玉は存在すらしなかった。
「酷いわ! これじゃあナイトメアに願って貰う事もできないじゃないの! 私の魔力を返しなさいよっ!」
バサリと漆黒の翼を開くと、メフィストフェレスは床を蹴り、舞い上がった。イーヴァは憤然としながら彼を見上げ、「逃げる気!?」と声を張り上げた。
「一旦退くとする。再考しなければ」
「待って! 待ってよ。お願いだからヴィートリヒさんを返して! 魔力を返さなくても構わないから、ヴィートリヒさんを!」
イーヴァはルビーの様な瞳からポロポロと涙を零した。
「お願い、メフィストフェレス。人間になんかなれなくてもいいわ。だからヴィートリヒさんを返して!!」
メフィストフェレスは苛立った様に眉を寄せ、イーヴァを見下ろした。
「我とて返したいのは山々だよ。けれどそう簡単にできないから困っている」
忌々し気にメフィストフェレスは言うと、自らのシャツを引き裂いてイーヴァへとその肉体を見せつけた。黒く醜い痣が、まるで身体を蝕むように纏わりついている。
「この男の身体を見ろ。我をこうして封印することに耐えきれず、もとより封印されていた妖魔達が逃げ出したのだよ」
ヴィートリヒの身体からパッと散った光の玉は、封印されていた妖魔達だったのかとイーヴァは思った。
「我の封印を解くには、解き放たれた妖魔達を再び集め直さなければならない」
メフィストフェレスの中でヴィートリヒが笑った。
『難儀だな、メフィストフェレス』
「ええい、忌々しい男め!! ヴィートリヒ・クライバー! 我が解き放たれた暁には、貴様を真っ先に呪い殺してくれる!!」
そう言い残すと、漆黒の翼をはためかせ、メフィストフェレスは飛び去って行った。
「待って!! 嫌、私を一人にしないで! ヴィートリヒさんを返して、お願いよっ!! メフィストフェレス!!」
イーヴァが叫び、どれほどに泣き喚こうとも、その声が届くことは無かった。




