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第三話

 くぐもったチャイムの音が、スピーカーを通して校内に響き渡る。

 私のいる三年二組の教室には、待ってましたとばかりに椅子を引く音がこだまし、先程まで静かだったクラス中がにわかに沸き立って一気に騒がしくなる。


 「じゃあまた二学期になー!めんどくさいから事件とか起こすなよー!ちゃんと勉強しろよお前らー!」

 

 担任の及川先生の叫び声も、生徒達の夏休みの高揚感には勝てずざわめきの中に埋もれて消えていく。

 中学最後の夏休み。と言っても、部活もない私にとっては本当に何もないただの一ヶ月の休みがくる。

 ドラマや漫画では特別な夏がどうのと言っていても現実の目立たない中学生にそんなものは訪れない。今年もきっとなんの予定もなく怠惰なだけの日々が続くのだろう。


 『一緒に勉強しようぜ』


 ふとあの日の悠の言葉が、耳の奥に甘く響く。私はそれをかき消すように目を閉じて小さく首を振った。

 あんなのは彼のちょっとした気まぐれだ。期待する方がどうかしている。

 頭ではちゃんとわかっている。それでもあんな言葉ひとつ、ポッケに入った連絡先ひとつ、そんな誰の目にも止まらないような小さな出来事の引力で私の心は容易に振れてしまう。どちらにも。


 悠はもう部活へ行ったのだろうか。そう思いちらりと彼の席の方を盗み見ると、そこには鈴原がいた。

 後ろ姿で顔は見えないが、席から立ち上がった悠の胸に触れそうな程の距離で何か話しかけている。しかしその様子にはいつものまとわりつくようなざらついた甘さは感じない。


 嫌な予感がした。


 まだ半数以上が残る教室の雑踏の隅で、あの二人の周りだけ空気が違う。その様子をニヤニヤと遠巻きに見つめる女子グループの姿が見えた。

 次の瞬間、鈴原が悠の右手を掴んで教室の外へと連れ出した。女子達が一気にいろめき立つ。悠の手首を引っ張って廊下を歩いていく鈴原へ向けて小さな声で「澪、がんばれー」などと声援を送っている。


 私は何も気づかないふりをしながら、思わないふりをしながら、教室を出て彼らとは反対方向へと廊下を歩いた。両足の繰り出しが段々と速く大きくなっていくのを止められない。私はいつの間にか両手を大きく振って駆け出していた。廊下を行き交う生徒たちの間を縫うようにして、何かから逃げるように。一人きりで。

 下駄箱で息を整え、靴を履き替えて外に出る。正午前の夏空は高く青く、世界が全てを肯定しているみたいに澄んでいた。


 太陽が熱かった。セミがうるさかった。お腹が空いていた。色んな刺激が私を襲ってくれる。それでも鋭い痛みは寄せる刺激の波の間隙を突いて私の心に届いてしまう。

 あの時、前髪の影に隠れて悠の表情は見えなかった。鈴原の様子に悠は気づいただろうか、だとしたらどんな顔を彼女に見せたのだろうか。それは、私の知っている顔だろうか。

 悠の手を掴んだ鈴原は彼をどこに連れて行ってしまうのだろうか。

 

 思えば心が歪む。心が歪むと視界も歪む。


 息が苦しく吸っても吸っても酸素が上手く取り込めない。私はフラフラとよろめくようにしてどこかの家の外壁に寄りかかる。考えたくないと考えるほどに頭には見たくもないはずのイメージが次々と浮かんできてしまう。

 重なる二人の肌が、柔らかな唇が、私の心を踏んでいく。遠い記憶の夏の夜。人波に揉まれ走った河川敷。空に咲いた花の光に照らされ浮かぶ彼の姿はなぜか遠く逞しく、その手を引いて走っているのは私ではなくて。


 ずるりと腰が落ちて灼熱のアスファルトへと座り込む。見上げた青空を一羽の鳥が横切っていく。私のいる地点の遥か上を自由に飛んでいくその姿に縋るように伸ばした右手は、どこにも届くことなく虚しく空気を掻いて垂れ落ちる。一緒に落とした視線の先に名前も知らないような小さな花が咲いていて、私はその花を見つめたままもう二度と空を見上げることはなかった。

 


 家に響いたチャイムの音で私は目を覚ました。部屋の中がいつの間にか真っ暗だった。帰るなりご飯も食べずにベッドに倒れ込んだことは覚えている。どうやらそのまま眠ってしまっていたみたいだ。

 眠たくはないけれど部屋を出る気力もないので無理矢理寝ようと再び閉じかけた瞼を強いノックの音がこじ開ける。


 「お客さんよ康太。早く降りてきなさい。寝てるの?」

 「起きてる起きてる。起きてるから待って」


 お母さんは私が寝ていると判断すると遠慮なく部屋へと入ってくるので私は慌てて声を上げてアピールする。


 「じゃあ早く出なさい。お友達待たせてるんだから」

 「はあい」


 「でも懐かしいわねー……すっかりお兄さんになっちゃって」となんだか嬉しそうに呟きながら遠ざかっていくお母さんの声。


 お客さん……?私はなにがなんだかわからないまま体を起こして部屋を出る。寝起きの頭は意識に靄がかかりあまり思考が巡らない。

 そんな調子だったので、玄関先で手持ち無沙汰に立っていた悠の姿を見て言葉がうまく出なかった。


 「ごめんな。こんな時間に。少しだけいいか?」


 歯切れ悪い調子で言う悠の顔は暗くてあまりよく見えない。こんな時間って、今は何時なんだろう。などと取るに足らない疑問が最初に頭を回って、えっ!?悠が?どうして?みたいな疑問はその後だった。


 制服を着たまま、薄暗い道を二人で並んで歩く。まだ少し呆けていた頭が夜の風に当たって徐々に冴え、目の周りがヒリヒリしていることに気づいた時、一瞬で眠気が飛んだ。

 慌てて下を向いて顔を隠す。しかし、悠は私の異変に気付いた様子もなく前を見据えたまま隣を歩いているのでほっと胸を撫で下ろす。この暗さで私の顔もよく見えていないのかもしれない。


 「いやーついに夏休み入ったな!」


 じめりとした暑さを伴った空気を吹き散らすように叫んだ悠の声色は明るいけれどどこか取り繕ったようなぎこちなさを帯びていて、どうにも彼らしくなかった。

 そんな悠に対して私は軽い相槌を打っただけで、ろくに会話を続けられないまま隣を歩く。瞼の裏に昼間の光景が焼き付いて離れてくれない。

 二人の間に、気まずい沈黙が流れた。こんな時間は知らない。毎日のように二人でいたあの日々にこんな時間はなかった。私たちを変えてしまったのは誰なのだろう。


 前から来た自転車が私たちの横を通り過ぎる。二人で少し道の端にずれてそれを避ける。空はいよいよ暗く落ちて、等間隔に並べられた街灯が私たちを弱く照らす。

 沈黙が続いた。何か声を出さなくては。

 今日はどうしたの?さっきまで部活だったの?夏休みは宿題が多いけどちゃんとできそう?

 無難な言葉を探していたら、薄闇の中で袖から伸びる彼の肘に血が滲んでいるのが目に入った。


 「悠くん、肘……どうしたの」 


 思わず声を出した。悠は、ああこれ。となんでもないようにその自らの傷ついた身体の一部をさすって笑う。


 「陸上やってたらよくやるんだよ。全然よゆー」


 私はなぜか急に息が苦しくなって何も言葉が返せなかった。好きな人の身体に傷ができることが苦しいのか、彼がそれを平然と笑っていることが苦しいのか、それとも他に理由があるのか、今の私には自分の心さえ理解ができない。

 こんな時に口から流れ出るべき言葉を私は沢山知っていたはずなのに、私自身の不安定な心がそれらを飲み込んでしまい上手く流れない。それでも無理に何か言おうと大きく吸い込んだ息は喉の奥でつまり、むせ返して感情の濁流となって溢れてしまった。


 「今日の昼、鈴原と何があったの?」


 自分でも驚くほどのあまりに脈略のない質問に悠はぴたりと足を止めてこちらを向く。

 街灯の頼りない光が薄闇に彼の体を浮かび上がらせる。表情の見えないその姿は影のように希薄で、肘に浮かぶ朱色だけが強い現実感を持って私の視界の一点に滲む。


 「見てたのか」

 「二人で教室から出ていくところをだけど……」


 悠は、言ったまま黙っている私をしばらく見つめていたが、やがて意を決したように小さく息を吐いた。


 「わかった。話すよ。けど、誰にも言わないでくれ」

 「うん」


 悠がまたゆっくりと歩き始め私もその後ろを付いて歩いていく。足は重く、何度持ち上げても振り払えない引力によって地面に引き戻されてしまう。悠と二人、底の見えない沼へと踏み入れていくような重く深い一足を刻み歩く夏の夜道。この先に明かりは見えない。それでも彷徨う心は安定を求めてしまう。触れたくない事実にすら寄りかかってしまうほど。


 「鈴原からは、大事な話があるからって言われて……俺、なんのことか本当にわかんなくってさ……でも……」

 

 鼓動が早くなっていく。私は右手で自分のみぞおちのあたりを掴み、まるでロザリオを握るみたいに制服の生地を強く握って悠の次の言葉を待った。


 「断ったんだ」


 前を向いたままの彼から暗い宙に向かって放たれたその言葉に、私は思わず立ち止まった。

 「断った……?」


 私は惚けたように悠の言葉をおうむ返しした。それは、彼へと言うよりも言葉の持つ意味を上手く処理できない自分自身に言って聞かせるための声だったが、悠は「あぁ、」と相槌を打ってこちらを振り返った。


 「告白されたけど、断った。それだけだ」

 

 歩幅二歩分の距離を空けて向かい合った悠の顔は暗闇に翳り表情が見えない。

 

 遠くで虫の声が響き、頭の中には昼間の教室での光景が流れた。

 友人達に囃し立てられ悠のいる場所へと向かっていく鈴原の背中。悠の手を掴んだ右手。歩き出した時に一瞬だけ見えた彼女の表情。悠の「断った」という言葉。鈴原の行動。遠い夏の日の思い出。この身体と心。彼への気持ち。全てがごちゃ混ぜになって、自分の中に理解し難いある感情が頭もたげてくるのを感じた。


 「……ねえ悠くん。一つだけ教えて」


 だけどこの感情を認める前に、確かめないといけないことがある。


 「告白した時の鈴原は、どんな顔してた?」


 数秒、私たちの間を沈黙が這う。私は少し俯き加減で、斜め下にある悠のつま先の影が動くのを視界に捉えていた。


 「……表情は分からなかったけど。俺にはあいつが震えてるように見えたよ」


 落とした視線の先、闇に沈んだアスファルトの上に三滴の雨が落ちる。昼間の空はあんなに晴れていたのに。

 

 あぁ、どうして私は聞かなくていいことばかり、知らなくていいことばかり、触れようとしてしまうんだろう。

 もう一度だけ、悠の腕を掴んだあの時の鈴原の顔を思い出す。

 

 見間違いであって欲しかったな。


 「お、おい康太!」

 

 悠のつま先が一気にこちらに距離を詰めたと同時に私の両肩に軽い衝撃が走る。顔を上げると、私の肩を掴んだ悠の目が心配そうに私の顔を覗き込んでいる。斜め上に大好きな人の顔がある。ほんの数メートルの距離で表情の見えなかった彼が、今はその瞳の向こうまで透けて見えてしまいそうなほど近くに。


 「なんで、なんでお前が泣いてんだよ」

 「えっ……」


 悠の言葉で地面に落ちた雨が自分の瞳から溢れていたことに気が付いてその雫を拭う。

 そうか。やっぱり私は泣いてしまうのか。何度拭っても、気付いて認めてしまった感情は液体になって瞳から溢れて自分の頬を伝っていく。その温度を感じながら私は彼の瞳を見つめ返す。


 「悠くんは、どうして断ったの」

 「どうしてって……」


 彼の黒目が私の言葉と視線から逃げるように左に逸れる。私はその瞳を追うように言葉を重ねる。


 「ねえなんで?どうして?悠くんのことが大好きで、嫌われたくなくて、震えるほど怖くて、それでも勇気を出して告白してくれた女の子の気持ちを拒絶したの?どうして受け入れてあげなかったの?」


 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら私は大好きな人を問い詰める。どうして私はこんなことをしているんだろう。


 「そんなこと言われたって……無理なもんは無理なんだから……しょうがねえじゃねえか……」


 理不尽に責めた私に対し、彼は苦しそうな顔で切れ切れに言葉を落とす。

 そう、悠は何も悪くない。好きじゃない相手から告白されたから受け入れなかった。それだけのこと。そんな、どこにでもあるようなことだ。でも、だったら。


 「どうして悠くんも泣いているの」


 私の言葉に悠はハッと表情を変えて、その大きな手で顔を覆い隠し俯いた。

 

 「クソ……なんで俺…………」 


 溢れる泉に栓をするかのように必死に自分の顔を拭っている彼に私は問いかける。


 「ねえ悠くん。息ができないって、感じたことある?」


 「…………息が?」


 「うん。すごく辛いんだよ。酸素が肺に入ってくれないの。空気に拒絶されるとさ、世界から拒絶されてるみたいなんだよ。ここに生きてちゃいけないんじゃないかって思うくらい」


 「……」


 悠はそれ以上何も喋らなかった。二人分の乱れた息使いと、時折吹き抜けるぬるい夜風の音だけが私たちの間を埋めていく。


 「変なこと言ってごめん。今日はもう帰るね」


 私はそこに悠を残したまま踵を返して今来た道を歩き始める。

 途中、一度だけ振り返って見た彼の影は暗闇に輪郭を飲まれたまま佇んで動かなかった。

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