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スカイ2271  作者: 高峰 玲
6/9

act.5 EVE




 やるべきことが、二つあった。

 ひとつめはジェードと話をすること。もうひとつは、(やっこ)さんの調子次第なのだが〈シュミット〉の艦長か提督かじいさんに頼み込んで空母への着艦の特訓を許可してもらうことだ。最初にクリアすべきがどちらかは、明白だ。

 装具だけを外して、フライトスーツのままで医務室に向かった。あいだにごちゃごちゃと他人を割り込ませてからでは遅すぎる。

 まずはあたしを見捨てた男に会う。

 会った後は、明朝〈シュミット〉から発進するまでの時間がある。

「エオス」

 すでにシャワーを終えたらしく、尉官の略装をわざと着崩しているイプシロンと通路ではちあわせた。反射的にもうひとりの姿も捜す。が、奴は単独だった。

「ぁあ?」

 ただ名前を呼んだだけではなく、何か言いたそうだったので足を止めてあたしは待った。腕組みして、軽く壁に寄っかかる。

「みごとなタッチアンドゴーだった」

 ぴくんと、眉のあたりの皮膚が動いたのを感じた。一応は褒め言葉と取っとくけど、やりたくてあれをやったわけではない。あげくのはてに辛うじて三本目のワイヤーをひっかけて海中突入を免れたのだ。あんまり口に出したくない話題だった。

「どうも」

 まったくもってして愛想のない礼だと、自分でも思った。だがイプシロンはそれについては気にする風もなく、笑った。いつもどおりのニヤニヤ笑いだが、飢えた野獣のようないやらしさが無くなっていた。

 いい表情だ。

 鼻につく感じは否めないが、自信に満ちた彫りの深い顔立ちは魅力的なのかもしれない。

「ジェードのところへ?」

「ああ」

 答えなどわかりきっているはずの質問に、応える。

「奴が、信じられなくなった、か」

「信じているから、だ」

「な……?」

 不思議なものを見るような目でイプシロンはあたしを見つめた。ヒト科以外の人類に初めて遭遇したみたいな……驚愕と当惑と混乱とを、好奇心という紐でなんとか収拾しようという努力が、そこには垣間見られた。

「まだ壊滅的なまでのダメージは、(こうむ)っていないとあたしは考えている。それともあたしたちはもう終わりだと、あんた思ってる?」

 ナナト・ザキ大尉はきわめて賢明なる見解を示した。

「それは、奴次第だ」

 あたしはわらった。

「あたしもそう思うね」

 まるで誰にもあたしの行く手を阻ませまいとするかのように、イプシロンは医務室までついてきた。彼もジェードに何か話でもあるのだろうか?

 そのことを問うと、イプシロンは首を横に振った。が、ふと思い出したように言い足す。

「いや、あるかもしれない。でも、それはあんたの話が終わってからだ。俺は紳士なんでな、レディファーストでどうぞ、中佐どの」

 ノックもせずにあたしを通すためにドアを開ける。

「医者はジーンがひきつけている。心置きなく、やってくれ」

 そのささやきに、あたしはイプシロンの顔を凝視した。照れたように彼は顔をそむける。うなずいて、医務室に足を踏み入れた。

「ジェード」

 ベッドの中で、頭からシーツにくるまってるかたまりにそっと声をかける。

 眠ってないとこをみると、医者は精神安定剤だとか鎮静剤を投与しなかったらしい。結構なことだ。その気になれば、ベッドから引きずり出して後席にたたっこんで、即特訓だっ!

 声に反応してかすかに身じろぎしたものの、ジェードはあたしを見ようとはしなかった。その頭と(おぼ)しきあたりに手を触れて、可能なかぎり静かにあたしは訊いた。

「あんた、いくつなの?」

 佐々木稜が何歳かなんてことは、とっくに知っている。

「にじゅう、さん、です」

 知ってるはずのことをなぜまた訊くのか、ジェードの応えにはそんな含みが感じられた。

「まだ若いわよね」

 わざと八十、九十の超シニアみたいに言ってみた。

「あと五年どころか、十年も二十年も飛んでいられるのよ。あんたには、いままで飛んできたよりも、もっと長い時間がある」

 人生という連続する一瞬一瞬の時間の流れの中で、人が思い悩むのはほんのわずかのことでしかないなどと、偉そうな説教をたれるつもりなんかない。“時は岸辺なき河の流れ”なのだ。とどまることなく、よどむことなく、時間は流れ続ける。

 

「あたしは二十四歳だ」

 

 いままで誰にも、口に出して言いもしなかったことを、初めてあたしは言葉とした。

 それは事実であり、あたしにとっては虚しいほどヘヴィな現実だ。

「そして、半年後に二十五になる」

 とたんにジェードは弾かれたように身を起こした。

 衝撃に黒い瞳を大きく見開き、あたしを見つめる。男である自分には、これまでの飛行時間をはるかに越える……その何倍もの時間が許されているというのにこの女には、あと半年しかない。

 いまはじめてそのことに気づいたらしく、ジェードの動揺はまるで彼自身がそれを宣告されたかのようだ。

 ドアに向かいながら、あたしは事務的口調で言った。

「空母への着艦訓練の申請をしておく。今夜はゆっくり休んでおくことね」

「中佐どのっ」

 ひたむきなまなざしに、あたしは反発的な微笑を返した。

「あたしをあわれむんだったら男になってからにしな」

 一度は見捨てて逃げたくせにこういうとこで同情するなんて、許さない! 裏切りも、二度は認めないわ!

「おやすみ」

 わななく手でシーツを握りしめるジェードにあたしは言った。彼からの応えはなかった。




「あんた、ほんとに女なのか?」

 ほぼ三分後に医務室から出てきたあたしを見てイプシロンがつぶやいた。ずっと待っていた、というより見張りをしていたんだと気づいた。

「TPOは心得てるんだ」

 ベラドンナが医者を連れ出した理由もそっちかよ!

 腹を立てるより先に、そういう手もあったか、と思った。でもまあ、こんなところでリオと関係しなきゃならんほど切羽詰まってないし、節操なしでもないんだ、あたしは。

 ただ、あたしたちの仲をとりもとうと奴らが思ってくれたらしいのは、これまでの経緯からするとすげぇ進化じゃないかな。

「それとも男に見えるの?」

 つい、からかってしまった。

 イプシロンの肩を押して壁の前に立たせ、その壁に両手をついて体を近づける。だいたい同じくらいの背丈なので顔の高さも変わらない。

「少し前まで、あたしを女だと認めていたのに?」

 あれ? これって壁ドン?

 ド肝だめしだ。唇が触れる直前の位置でささやくと、意外にもイプシロンは真っ赤になってしまった。

 こうなると、いつかビッグリバーが喩えたようにドン・ホセを誘惑するカルメンの気分だね、まるで。あくまで強気で、先手を取ったほうの勝ち。

 その証拠にイプシロンは身動きすらかなわず、その目はあたしにくぎづけだ。女子更衣室の油虫事件のときよりも危ない接近なのに、あたしが主導権を握るいまは逆に安全なのだ。

 しかし敵もさるもの、伊達にヘビ男だの油虫だのといわれてるわけではなかった!

「女と認めたうえで、男になってもいいのか?」

 したたかに切り返す。なんか、ひっかかったぞ。どこかで聞いたような言い回しじゃないか?

「おステキなごシュミね、立ち聞きとは」

 たしなめるつもりで胸元を小突いて体を離す。イプシロンは笑った。

「そういう意味で、男になれと言ったわけではない」

「わかってる」

 で? わかっててあたしをからかってやがんのかよ、こいつは。いのち知らずな奴!

 相応の報復をしてやろうとしたら、奴の顔色が変わった。つっ、という舌打ちが聞こえた。

「悪いが俺は消える」

 低く告げてそっぽを向く。

「ボディガードがご到着だぜ。奴は苦手だ」

 振り返ってその言葉を確認した。本当だ。見るからに不機嫌です、って表情で十メートルほど先で立ち止まってこっちを睨んでいるのはビリー・スミスだ。

「第二陣も着艦したんだ! 気づかなかった」

 そそくさと立ち去るイプシロンに背を向け、ビリーに駆け寄った。

「奴と見つめあうのに夢中で?」

 珍しく、ビリーが辛辣な言葉をはく。それが冗談では済まされないような雰囲気だったので、いきおいあたしもささくれた言葉を返す。

「誰と見つめあおうと睨みあおうと、それはあたしの勝手()()()()()()()?」

「エテルナ!」

 真っ向から見すえるあたしの目線にひるまず、ビリーはあたしの肩をひっつかんだ。かなり痛い。だが声をたてたら負けだと思ったので我慢した。

「あんたこないだっから何してんだ。奴には気をつけろと言ったはずだ」

「まるで妻の不貞をなじる夫だね」

 思ったまんまを口に出したとたんにひっぱたかれた。

 ウィリアム・スミスに! このあたしが?

「あ……」

 はっと我にかえってビリーは自分の右手を見つめる。

 あたしの頬を打った手を。

 当然、即座にあたしはお返しを大盤振舞してやった。言い訳なんて好きじゃないけど、ビリーに誤解されるのはもっと嫌だから、きっぱり言う。

「イプシロンたちにはコミュニケーションについてアドヴァイスを受けてただけだ。ありがたいことに誰かさんたちはあたしを過保護にしてくれるもんで、無慈悲な第三者を捜すのに苦労したわ」

「コミュニケーション?」

「そう」

 ぶたれた頬をなでながらわざとぞんざいに言ってやった。

「いわば転ばぬ先の杖ってやつ。残念ながら、もう転んじまったけど」

 くっきりと手形のついた頬をかまうことすら忘れてビリーは呆然とした目をあたしに向ける。

「あ、あんたは……今日の事態を、予測して、いたと……いうのか」

「まさか」

 ここで虚勢を張っても意味がない。

「でも、うまくいきすぎていたからいつかはコケると思ってた。被害妄想だとか、臆病だと、思うかい?」

「……いいや」

 ビリーは少しだけ考え込んだ。

「まったくあんたらしくないようで、実にあんたらしいと思う。誰よりもあんたはリオを大切にするパイロットだからな」

「それって最大級の褒め言葉ね」

「ああ。……悪かったな、ひっぱたいちまって」

 そぉ〜っとビリーはあたしの頬に手を触れた。返礼はしたから、あたしは根に持っていないのに。おまけに多分こっちのほうが強くぶってると思う。

「気にしてない」

 軽く彼の背中をたたいて更衣室の方へとうながした。ビリーもフライトスーツのままだ。装具までつけている。よっぽど泡食ってあたしを捜して励まそうとしたら、天敵(イプシロン)とあたしは一緒にいたってとこか。

「どうするんだ? これから」

 歩きながら静かな声でビリーは尋ねた。

「とりあえず、今夜は寝る」

 彼の訊いてるのはそんなことではないと、百も承知でまずそらとぼける。それから、きわめて真摯に付け加えて言った。

「〈シュミット〉への着艦訓練を申請する。艦長とロドリゲス提督と、どっちに言えば早いと思う?」

「さあ? でもそんなことしてるヒマなんてあるのか? シミュレーターで疑似宇宙飛行訓練もしなきゃならないんだぜ」

 疑似宇宙飛行訓練だあ? んなもん、スカイ計画を始めてからずっとやってたことだろ。いいかげん慣れても良さそうなもんじゃないか。そりゃ、シミュレーターはあくまで疑似的なものでしかないが、時間が惜しい。

「あたしには、必要ない」

「だがジェードには必要だ」

「そう、ね」

 それは認めざるをえない事実だ。正論だ。

 あたしは大気圏内で飛ぶことを覚え、それから宇宙へ出て飛んだ。戦闘機が制する()()というものを、二つながら経験している。それはあたしが地球連合宇宙軍人だからで……地球連合軍人にとって宇宙は、未知の領空なのだ。シミュレーター訓練はやはり不可欠だ。

 必要性を認識すると同時に決意した。

 ぜんぶする。

 シミュレーターも着艦訓練も運動能力テスト飛行(空中戦)も、なにもかも、ぜんぶ、する。ジェードと一緒に。

「ならばやるわ」

 みなぎる闘志を感じてか、今度はビリーがあたしの背中を軽くはたいた。言葉は、いらなかった。




「夜間訓練はしないのかい?」

 申請書を持って現れたあたしを、ロドリゲス提督はからかってくれたわ。

「夜中に海で探しものをする原因は、作りたくありませんので」

 あたしにしては穏便に言うと、提督はうなずいて書類を受け取った。

 かくて、翌日の午前中いっぱいを特別に着艦訓練に()てる許可は、ロドリゲス提督経由シャイヤンド大将閣下(アステルじいさん)認可で、最終的に〈シュミット〉の鈴木(すずき)艦長の口を通じてあたしにもたらされた。

 佐々木稜はやや緊張ぎみにデッキに上がってきた。睡眠はたっぷりとったはずなのだが、あまりすっきりした表情(かお)ではない。それについて注意をすべきか、知らんぷりすべきか……迷ったすえにあたしは別の手段に出た。

「おはよう。よく眠れたようね」

 釈然としない面持ちでジェードは応える。

「……おはようございます」

 こうなるともう、思い込むしかないね。自己暗示プラス他者暗示よ。

 あたしたちは昨夜いっぱい眠ったの。だから当然、今日は絶好調なのっ! 着艦なんて、ちょちょいのちょいなんだからねっ!

「いくわよ」

 ポンと肩をたたいて“Z-3”に乗り込む。

 一回目のアプローチをあたしはあえて〈シュミット〉の上空を通過(パスオーバー)するにとどめた。高度を下げきる前の段階で、すでにジェードの呼吸の乱れを感じたからだ。

「中佐……?」

 弱々しいささやきが聞こえた。

「次は絶対に降りるわ!」

 あたしはまくしたてる。

「海水浴したいんだったら、ひとりでやりなさい。あたしはあんまり寛大な女ではなくてね、裏切りなんてぇ行為は断固ゆるしてやらないから、覚悟しなっ」

 たとえそれが恨みでも憎しみでも、かまわない。

 最終進入(ファイナルアプローチ)時のジェードの恐怖がまぎれるんなら、いくらだって嫌われてやろうじゃない。このときとばかり、こらえていた悪態をぶちまける。

「だいたい、あんた腰抜け(チキン)だわ。どこの世界にか・よ・わ・い女性を見捨てて自分だけ逃げる男がいるの。やっぱりフェミニスト思想の発達してない地域出身の未開人だけのことはあるわねっ」

「──っ」

 喘ぎながらジェードは何かを言おうとした。やった、あと一息だっ。

「そんなんじゃあんた、女のコにモテたことないんでしょ。あったりまえよね〜」

『スカイ“Z-3”機、侵入角度を左へ一度修正してください』

「了解」

 いいタイミングでコントロールがあたしに指示を出す。リオをお飾りにするという暴挙に、このパイロットは出たのだ。

 いいねぇ。できるだけ微に入り細をうがてとランディングオペレーターには言っておいたんだ。ぐずぐずしてるとリオの役目はないんだって、あせってくんなきゃ困るぜ。

()()テクマタイト、スピードはこれでいい()()()? 機首は? 下がりすぎてない?」

 うぐぐ、自分でも吐き気がするくらいの媚態だ。

『いや、大丈夫です中佐どの。さすがに単座でならしていたかたはパイロットとしての技術だけでいい飛行されますね』

「ありがと。着艦するわよ?」

『どうぞ! そのまま……そのま……あげげっ!』

 突然ランディングオペレーターがあらぬ声を発した。

「ちっ」

 あたしは舌打ちした。ジェードの奴っっ! またしても飛び出しやがった。直前に叫ぶという予告がなかった分、前回よりもタチが悪い。

 一瞬の虚を衝かれたそのときに“Z-3”はアレスティングフックがワイヤーをひっかけた結果として甲板に叩きつけられた。

「ぢぐじょ〜」

 とてもじゃないけど即座に立ち直れるほど、受けたダメージは小さくなかった。肉体的にも、精神的にも。

 寄ってきた整備マンたちの手を借りてなんとかコクピットから這い出る。

「……とりあえず、また飛べるようにしといて」

 後席をセットしなおして、キャノピーかぶせて……再びカタパルトに乗せるには、いったいどれだけの時間がかかるだろう? そのあいだにあたしは、海から濡れネズミを拾い上げて、乾かして、また後席に座らせなければならない。

「いっそ射出装置の回線を、切断したろぉか」

 腹立ちまぎれに思いついたままを口にすると、偶然あたしの傍にいて聞きつけたらしい整備マンが言った。

「あ、それ無理ですよ。飛べません。異常ランプが点きっぱなしになりますから」

「むむむ、だったら異常ランプの回線もカットする!」

 整備マンの顔がひきつった。

「あっ危ない思考ですなぁ。ちからいっぱい規定違反になります。下手したら、関係者全員、軍事裁判ですぅ」

「だろうねぇ」

 ヘルメットを取って頭をかいた。あと、できそうな手段というとジェードの手を縛るか何かして固定し、脱出スイッチに触れられないようにするくらいなんだけど、そっちも思いっきし人権蹂躙だよな。

「……苦戦しているようだな」

 ロドリゲス提督がわざわざ飛行甲板(フライトデッキ)にやってきた。どちらかというと困難な状況を打破する展開を楽しみにしているような、陽気な笑みをはじけさせている海の男に、儀礼だけの敬礼をする。厭味な種類の笑い方じゃないけど、あたしには事態を楽しむ余裕なんかないんだっ。

「ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんわ」

 百パーセント、よそいきで応対する。それには気づかず、提督は首を横に振った。

「前途ある若者を見放すような方針はご老体ならずとも賛成できるやり方ではない。中佐が気に病むことではないだろう? むしろ、君のほうが貧乏くじなんだから」

「一個人の命運を任されたことが貧乏くじだとは思いません!」

 さすがにむっときて、思わずあたしはストレートに反論してしまった。

 カルロス・デ・ラロッス・ロドリゲス中将はわらった。おおよそ平凡な容姿の赤毛のおっさんが、ちょっとだけ陰険そうに見える。

「自分の部下でもない、友軍のリオのために?」

「あたしはやるの(Yes sir!)よ!」

 背筋をぴんとのばしてあたしは宣言する。

 提督はあたしの肩に手を置いて、言った。

「……君が私の娘でなくて良かったと思うよ。心配でたまらなくなるだろうからね。だが親御さんは、きっと君を誇りに思ってるだろう」

 ()()親父が、心配なんてするかねぇ。少なからず、首をかしげてしまう問題だねそれは。にしても、ロドリゲス提督はあたしの親父が誰だか知らないのかぁ?

「ともかく私で力になれることは何でも言ってくれたまえ。もっとも、いまの君に協力することを拒むような情け知らずは我々の軍隊にはいないだろうがね」

「たったひとりをのぞいては、ですね」

「その敵さんを懐柔することが君の最重要課題か」

「ええ」

「健闘を祈る」

 まるで最高評議会議長夫人(ファーストレディ)かどこぞの星の女王に対するかのような最敬礼を、ロドリゲス提督は宇宙軍中佐ごときにしてくれた。

「ありがとうございます」

 あたしも、敬意をこめて返礼した。

 助け、励ましてくれる手のなんと多いことか。彼らの声が支えてくれるからあたしは、くじけず、投げ出さずにいられる。むろん彼にもその声は聞こえ、手は与えられているはずだがそれをとる余裕が(あるいは勇気が?)彼は出せずにいるのだ。そしてそれを引き出すのがあたしの役目である。

 

 けっして、貧乏くじなんかじゃない!

 

 あたしはやる。あたし自身のやり方で。妥協なんて、してやらない。だって彼はまだ……飛べるのだから。

 為せば成る為さねば成らぬ成る業を、成りぬと捨つるひとのはかなき──可能性の芽を、自分の手で摘んで、捨てる大ばかたれを儚いなどとあたしがあわれがると思ったら大間違いだ!

 〈シュミット〉の一部のクルーはきっとあたしをサドだとかスパルタママだと、陰で噂してるにちがいない。

 それくらいまであたしは徹底してやった。

 ジェードの海ポチャは、あたしがそれに飽きる前に終わっていった。彼は後席で硬直するという必殺技を身につけてくれたのだ。

 あたしにしてみればリオのサポートなしでのアプローチという侘びしい状況に変化はないのだが、奴を拾い上げるレスキューや後席をセットする整備マンにはありがたい、画期的な変貌ぶりといえよう。

 次第に佐々木稜は無口になっていった。もともと、口数が多い男ではなかったみたいなのだが、こちらから話しかけないと口を開かないのだ。

 黙ったまんまで飛行中にオペレートする、とっても不気味だ。しかもまずいことにアプローチ恐怖症はモーグ基地への着陸時にも現れはじめていた。まともなのは三度に一度だ。

 新たな問題点が隆起しつつあった。

 著しくはないが精神の健康を損なった状態のリオを後ろに乗せて、飛び続けていていいのだろうか。自分が操縦桿を握っている以上、あたしには心配も不安もない。ただ、人権問題と……医者が気になった。

 ジェードのアプローチ恐怖症はあの雨の夜の事故の後遺症ではないかと軍医は言った。激しい雷雨の中で、着陸態勢に入ったスカイ“V-4”機は被雷し、コントロールを失った。超低空飛行でエプロンを通過してアセンブリホールへ突っ込んでいった……そのときの、狭い空間へと向ってゆく恐怖をアプローチのたびに思い出すのではないかというのである。

 恐怖にはその後にもたらされたカーネリアンの死も含まれている。

 死への恐怖?

 それよりも、自分だけが生きのびたのだという罪悪感が佐々木稜を苦しめているのではないかとあたしは思った。

 アセンブリホールへスカイが進入する直前に射出装置が誤作動した、と事故調査報告書にはあった。ふたりの意志とは関係なくスカイから弾き出されたのだ。前席と後席の位置関係がパイロットとリオの生死を分けた。後席のジェードはホールの外側で放り出され、前席のカーネリアンはキャノピーごとホールの入口に叩きつけられ、即死したのだ。

 あたしがすねに同じ傷を持ってることをジェードは知らない。話すつもりはなかった。

 同病相憐れむような馴れあいはまっぴら! ぬるま湯に浸かって満足していたら、いずれジェードはリオではなくなってしまうだろう。佐々木稜という名のただの男として、ただの女のあたしを求める──それがたったひとつの救いでもあるかのように!

 だからあたしは女にはならない!

 それがあたしのやり方だった。

 体力がちがうから基礎トレーニングは当然、別メニューだ。それを消化してから次は敵機(ボギー)チームとの空中戦か、シミュレーターがお決まりのコースだ。正規の宇宙軍人なみのプログラムを、あたしは、ジェードに与えた。女性であるあたしがこなすシミュレーターの宇宙(そら)を何の疑いもなく彼は受け入れる。本人は自覚してないだろうが、一年我慢した新兵よりも上手く宇宙を捉えられるくらいにあたしは彼を訓練した。




 〈SKY2271〉の交戦時飛行データ収集過程は、終了していた。あとスカイに必要なのは、本当に大気圏突入可能である戦闘機なのだという証明だけだ。

 すでにカウントダウンは始まっている。

 敵機チームは非番になった。まだ原隊には復帰しない。スカイがみごと大気圏突入を果たしたあかつきに、彼らは〈SKY2271〉のパイロットとして再登録されるであろう。あたしがここに来たときミルドレッド中将がおっしゃった第2次スカイ計画が始まるのだ。

「調子はどうかね?」

 スカイとともに衛星軌道へと上がる前夜、アステルじいさんはあたしを呼び寄せて訊いた。応接セットに座らされたあたしにハン少佐が紅茶を出す。

「いいとも悪いとも、いえません」

「厳しくしごいておると聞いたが」

「訓練は正確にこなさせています。問題は結果、でしょう?」

 カップを取り上げてあたたかい湯気ごしに──アールグレイだ。ホットが好きなのを大将は忘れずにいてくれたらしい──じいさんを睨んだ。多分じいさんは何かをたくらんでいる。あたしを驚かそうと隙をうかがう目つきには見覚えがあるんだ。

「自信が?」

「ないといえば嘘になります。自分の腕について不安はありません。スカイの性能についても。“Z-3”の強運も信じていますし」

 香りが混ざって不味くなるのもかまわず、アステルじいさんは自分の紅茶にドボドボとブランデーを注ぎ足した。わずかながら顔色を変えたハン少佐が口をはさむ(いとま)も与えず、ぐぐうっとそいつを飲みほす。

 おいおい、重要な飛行を明日に控えたパイロットの目の前でやるこっちゃねぇぜ、じいさん。

「……人のほうは?」

 ブランデーのいい匂いをまきちらしながらシャイヤンド大将は切り込んできた。

「へ?」

「“Z-3”がいい機体なのはわしにもわかっとる! 肝心のリオのほうは信じとるのかと、訊いとるんじゃ」

 あたしは目を伏せ、紅茶をすすった。

 できれば答えたくない質問だ。いまとなっては信じている、とイプシロンに言いきった迷いのない自分を、あたしはうらやんでいるのかもしれない。

「答えられないのか」

 じいさんのまなざしが厳しくなった。カップを受皿に戻してあたしは大将を見つめる。

「大将閣下……」

 紅茶で潤されたはずの喉からは、かすれた声しか出なかった。まなざしを和らげずにアステルじいさんは言った。

「シャイヤンド大将ではなく、アステルじいさんに答えるんだ嬢ちゃん」

 あたしは笑った。じいさんも、笑った。

「本心をいえば〈ペンテシレイア〉を発ってから大紅海(グレイトレッドシー)上に降下するまで、飛び出さずにいてくれたらいいと……」

 アステルじいさんは口髭をひねった。

「その程度の信頼か。ふむ、ではおまえさんのほうはあの小僧にどれだけ信頼されとると思うか?」

「さあ? 嫌な女だと、思われてる自信はありあまるほどありますが」

「……あのなぁ嬢ちゃんや。はっきりいってわしは頭が痛くなってきたよ。ハン少佐、すまんが代わりを用意してやってくれ」

 きびきびと少佐は出ていった。何の代わりだ?

 呼び止めて訊きたい衝動にかられる。じいさんの声があたしを制した。

「つまりあんたもジェードには信頼されとらんと、思っとるわけだな。ゴキブリ坊主の言ったことをやってみんかったのかね」

 ゴ、ゴキブリ坊主? 何だそりゃ? ひょっとすると、イプシロンのことかな?

 それにしてもどうしてじいさんがそのこと、イプシロンのアドヴァイスの内容とかそれがあったこととか、知ってんだ?

 そっちにばかり思考をまわしてたから、じいさんの発言内容に怒るのがちょっと遅れた。

「あたしはっ! そんな邪道に頼ろうとは思わない!」

 敬老精神は失わないが敬語表現を忘れちまっていっ。

「あれだけ接点がありながら奴と寝たいと、百歩譲って寝てやってもいいと、思わんかったのか?」

 ど、どかあ〜んときたぞ。

 あんたがあたしにそれを言うのかい、アステルじいさん? やおらあたしは立ち上がる。

 

「だれが! だれと! どうして! なんのために!」

 

 一語一語をあたしは叫んだ。

 その機能さえあったら、口から火だって吹いてやりたかった!

「あんたがパイロットで、女で、あいつがリオで、男だからじゃよ」

 ガキの頃を知ってるじいさんにあたしの癇癪は通用しない。それでもじいさんはしんみりとした口調で言った。何かを思い出したのか、遠い目をする。

「閣下」

 戻ってきたハン少佐がドアをノックした。

「ああ。エテルナ・ラバウル中佐、ひきとってよし! 小僧を呼んである。送ってもらえ」

 あたしに命令を下すのはシャイヤンド大将なのだ。

「代わりとは、そういう意味ですか」

 形だけの敬礼をしてあたしは歩きだす。いにしえの撃墜王が呼び止めた。

「エオス!」

 そのただならぬ雰囲気に振り向く。

「パイロットとリオの信頼は絶対のものだ。結びつきをおろそかにしては、いかん」

「それはご命令ですか、閣下?」

「……忠告だ」

 このときばかりは、不敵に笑える自分の性分をあたしは呪った。

「肝に銘じておきましょう」

勝利の女神(こむすめ)貴公子(プリンス)も、ひょろ長いのもクマ男も、気にすることはないんだぞ」

「ええ」

 あたしはうなずく。

 体力の消耗という問題を大将は無視しているな、と頭の中の冷静な部分が思った。いや、別にそこまで念入りに、()()になってやる必要はないだろうけど……いっいかん。いつの間にか思考が毒されかけてるぞ!

 軽く頭を振りながらあたしはシャイヤンド大将のオフィスを出た。気まずいものを感じつつ、そこに来ていたジェードの顔をチラリと見る。それからまじまじと。

 やや青ざめ、思いつめたような表情だ。ハン少佐が洗脳でもしたんだろうか?

 少なくともこれまで、あたしはジェードに口説かれた覚えがない。年齢も階級も、あたしのほうが上である。ついでにいうと身長もあたしが高い。

 だけどまあ、顔はひとめ見て悲鳴をあげられるほど不細工ではないと思うし、体形もあきらかに女性のものだ。あたしを男だと彼が思っていないのはまちがいなかろう。だが、女としての役割を要求されたことはない。

 それはあたしも同じ、か。自分のリオを性欲の対象としてなんか、見たくない。それは冒涜だ。何、に対する? あたし自身への! そらを飛び続けるエオスへの!

「エオス?」

 あたしの凝視を困ったように、はにかみながらジェードは受けている。

 タイプとして嫌いではない。顔も声も、ちょっとしたしぐさも。でも、だからといって自分の正義を捨てていいわけがないのだ!

 絶対に。

 あたしは結論づけた。




「個人的なことをお訊きしてもいいですか?」

 外の乾いた夜気の中に出てから、佐々木稜が言った。

「いいよ」

 気さくにうけあった。それが即答できる種のものであればそうするし、全然おハナシにならないものなら、黙秘権を行使するだけだからだ。

「なぜ、軍人に?」

 舗道に沿うように配置された街灯からの光が、かすかに癖のある前髪の影をジェードの顔におとしていて、陰翳のラインに思わずあたしは見とれてしまった。

「あなたはこんなにも……きれいな女性(ひと)なのに」

 何となく鼓動がはやくなって、耳の血管を通してその音さえ聞こえそうだ。これは、なに?

 

 アタシハトキメイテイルノカ?

 

 まるで物語の中の少女が初めて恋におちたかのように?

 どちらかというと目の前の男のことより、自分の状態に動揺して、あたしは呆然としてしまった。

 恋──ではないと、あたしの本能は判断している。

 いままで気づかなかっただけなのだ。佐々木稜という男が、乙女心をくすぐるに充分たる素材だということに。

 成人男子の平均身長よりもわずかに小柄だが、毎日トレーニングを積んだ体は均整がとれていてたくましい。あまり日に焼けていない顔は、東洋系の習いか童顔で、澄んだ黒曜石の色の瞳が凛々しい若武者を連想させる。

 あたしのドキドキはきれいなものやいい音楽のような、美しくすばらしいものにであったときの、率直な感動のシグナルみたいなもんだ。

 自分が自分のリオに恋したのではないとわかって、あたしは安心した。

 ここで色恋に溺れてしまっては、信頼以前に生命が危ない。熱病に浮かれた女をパイロットとして一線に就かせるような愚は、あたしが指揮官だったら絶対にやらない。

 遅ればせながら、口元に微笑が浮かんでくる。それから、ジェードの質問にまだ答えていないことに気づく。つぶらな黒い瞳が心配そうにあたしを見つめていた。

「顔かたちはこの際、関係ないでしょ。軍は美人コンテストを開きたくて女子を入隊させてるわけじゃないもの」

「それは……そうですね」

「他に職業を知らなかったのよ」

「え?」

 我ながらまぬけだったと思いながら、努めてそっけなく言うと、案の定ジェードはぽかんと口を開けた。仕方ないから補足する。

「知ってるかどうか知らないけど、あたしの父は情報局の人間なの。士官学校も出てるエリート軍人なわけ。でも、親父はあたしにも軍人になれとは言わなかった。それぞれの(しょう)に合った職業を選ぶ自由も権利も、あたしたちにはあるものね。逆に親父が、軍人になって自分のあとを継げなんて言ってたらあたしは反抗してたと思うし」

 ジェードはどう相槌を打ったもんか、とまどってるみたいだ。必要ないのでかまわず続ける。

「だから親が軍人だってことは直接的な理由とはならない。物心ついた頃には親父の部下が家に来たりしてたけど、彼らの勇姿にあこがれるにはあたしはちょっとばかり、ひねくれ小娘だった」

 休日ごとに彼らはロンドン郊外の家にやってきた。でも必ずしも全員が次の週にも現れるわけではなくて……母さまの場合はやすらかな眠りだと感じた死を、それによってあたしはシビアな現実と認識したのだ。

「妹が生まれてしばらくたってから、母が亡くなって……子供の育て方を知らない親父は、全寮制の女子校にあたしを入学させた」

「じょ、女子校?」

 信じられないという表情がジェードの顔に現れる。ふん、どうせそんな顔するだろうと思った。自分でもよくまあ、あんなお嬢さま学校へ行ってたもんだと感心しちまうもの。学校名を言ったらあんたなんて、平伏しちゃうんじゃないの?

「六歳だった」

「はい?」

「学校は大学までエスカレーター式で、つまりあたしは十六年間そこにいろと宣告されたわけよ。週末と休暇には家に帰ったけど、学校と自分の家があたしの世界のすべてだった!」

「ブラッドベリだ」

 不意にジェードがあたしの話を遮った。

「ブラッド、ベリ?」

「ご存知ありませんか、レイ・ブラッドベリ。古典期のSF作家です」

 いままで、こんなに生き生きと話すジェードをあたしは見たことなかった。コミュニケーション? 信頼の、糸を紡ぐきっかけを捉えたと思った。糸を紡いでよりあわせ、ずんずん、ずんずん、増やしていったら紐にならない? その紐をさらに集めて束ねてよれば、それは綱にならないか?

「いいえ、残念ながら知らないわ。よければ教えて?」

 ジェードは笑ってうなずいた。

「西暦の、十九世紀の作家ポーがSF、つまり空想科学小説の先駆者だといわれていますが、ブラッドベリは二十世紀のアメリカという国のSF黄金時代の作家のひとりです。あまり科学的ではないのですが、詩的な何というか、芸術的なまでに美しい文章がおれは好きです」

 はて? 内心あたしは首をかしげたぞ。お嬢さま学校と自宅の往復生活と詩的な芸術が、どうつながるのだ? 

「彼の作品で城の中だけがこの世界のすべてで、そこから出ると死んでしまうと言い聞かされて育ち、親が先生を演ずる学校と、家庭──そのどちらも城の中なんですけどね──を行き来する子供の話があるのですよ。中佐どののお話で、おれ、それを連想したんです」

「なるほど」

 もっともらしく肯首したものの、あたしに理解できたのはその子供もあたしも、ちっとも詩的じゃなかったってことだね。

「結局、子供は外の世界へ出ていって自分の死を喜ぶんですけどね。中佐どのはどうなさったんです? まさか十六年もそこにいたんじゃないでしょう」

 会話とは、かくして成立せしものなりってこと?

 不思議なものだ。懸命に糸口を探っていたあいだは空振りしていたのに、いまは自然と紡がれてゆく。

「もちろん!」

 今度はあたしが笑う番だ。

「ともかくあたしの不運は学校と家でしか働く人間にお目にかかれなかったってことだね。知識として知ってはいても、実物を認識してなきゃダメだった。教師(シスター)うちの使用人たち(ハウスキーパー)、コックと庭師、あと運転手もか。それと、軍人。これだけだった。病弱な子供だったら選択肢に医療関係が入ったかもしれないけど」

「だって……必ずしも仕事を知ってなきゃその職に就けないってことはないでしょうが」

「ガキだったのよ」

 あたしは言葉を切って、夜空を見上げた。地球とは異なる星の世界が広がっている。

「お嬢さま学校から合法的に出るには転校しかないと思ったんだけど、ケチのつけようがない学校だったし」

「まさか?」

 それだけでジェードは察したらしい。

教師(シスター)は嫌、ハウスキーパーも運転手も嫌の消去法で軍人選んで、お嬢さま学校から出るために?」

 に〜っこり微笑んであたしはあとを受けた。

「士官学校へ入学したのよ。資格年齢に達してすぐ願書を出してね」

「それでマジに主席で卒業して、軍人になっちゃったんですか!」

 ほとんど彼は感嘆してるみたいだった。

「結果からいえばね。士官学校で職業意識が変わるかもしれなかったから。でも……カリキュラムとして飛ぶことを覚えてしまってからあたしは()()から離れられなくなってしまった」

「……十年以内に、許されなくなるとわかっていても?」

 容赦なくリオは訊いた。

 あたしは目を細めた。微笑が、好戦的な笑みにとってかわる。

「人のいう恋とは、こんなものなのではないかと──あたしの飛びたいっていう気持ちと同じものなのではないかと思うときがある。障害が多いほど激しく燃える……たとえ悲劇で終わるとわかっていても、恋しいと慕い想う心はとめられないって。有終の美、かな? いつかは終わる夢だとわかっているからこそ、夢中でいられる」

「それをつらいと……哀しいとは、思わないのですか?」

「思わない」

 哀しいとうったえているのはジェードの黒い瞳だ。まるであたしに代わって涙をこぼそうとでもするかのように、かすかに潤んでいる。

 たのむから泣かないでくれと、とりすがることはたやすい。あたしの代わりにあんたが涙することはない、と。

 だけどあたしは女としてのやり方を捨てたのだ。

「大人になりたくないと子供が思うのはその子が大人になりかけている証拠だと気づいたことがある。それを認めて克服していく道と、認めまいと否定して自分の殻に可能性を閉じ込める道と、選ぶのはその子自身。人それぞれにたくさんの道とそれを選ぶ理由がある。そしてその選択を後悔するのは、自分自身への背信行為でしかない」

 これがあたしの精いっぱいだ。

「ジェード」

 そして最後に付け加えた。

「機会があるかぎり、飛び続けると約束したひとがいる。あたしは彼女との約束を守りたい」

「せめて……」

 ふっと顔をそむけてジェードは言った。

「あなたが男性だったらと、いままで何度か思いました。ですが今夜ほど女性であることを感謝したことは、ありません。あなたが女性でよかった!」

 そのまま彼は走りだした。

「部屋までお送りできなくてすみません。でも、送り狼にならずにいられる自信がなくって」

 少し先で立ち止まり、言い残して行ってしまった。

 送り狼? なれるもんなら、なってみやがれ。駆除してくれるわっ!

 あたしはそっと息をついた。今夜はぐっすりと、眠れそうだ。











── EVE ───────












“時は岸辺なき河の流れ”

マルク・シャガールの絵のタイトルです。






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