イカリア海より告ぐ
友人から聞いた話を私がまとめたものです。そのためほぼ実話ですが、共感はしにくい話かもしれません。
注)「彼」達は中高一貫校に通っています。
彼はMをいい奴だと思っていた。いや、実際にそうだった。Mは彼より性格も運動神経もよく、友達も多かった。彼がMに勝っている点がどれほどあるかとすれば、いくつもないだろう。頭だけがとりえの彼は、しかし努力嫌いで、学校での成績もよくてMと同じくらいかそれよりも下であった。見た目はというと、少なくとも彼はMの見た目をとても高く評価していた。周囲は彼ほどMを見た目ありきの人間だとは思っていなかったが、痘痕も靨と言うべきか、不健康な彼にはMの白い肌、大きい目、可愛らしい口元、均整の取れた身体の全てが朝日のように輝いているように見えた。その輝きはまばゆかった。そして彼にMから目を背けさせるほどに、痛々しい眩さであった。
彼がMを好いたのはいつのことだろう。振り返ってみれば、中学2年の部活の合宿だったようにも思える。戯れに部活内で一番格好いいのは誰かという話をしていた時に、Mの名前が出てきて、彼はいささか興奮したと共にとても妬ましく感じた。何故嫉妬したのか、今思えばそのMのことを口にした奴が彼よりMと親しかったからではないだろうか。だが、何れにしろ、このようなことは今の彼にとってはさほど興味のない事柄だった。
彼とMの付き合い(付き合いという程親しくもなかった気がするが、)は部活と共に始まった。しかし、当初の彼は全くMに左程興味はなかった。1年生の1学期にMが腕の骨を折ったのを聞いても、ただ高笑いしか出来なかった位に、彼はMに興味が湧かなかった。彼の嗜虐的な趣味がMの骨折に愉悦を覚えさせていたのかもしれないが、少なくともあの頃の彼はまだMを見るたびに苦虫を嚙み潰したような顔をしなかった。
寧ろ、内心では彼はMをうっとうしい奴とすら感じていた。Mは人当たりがよかった。とても可愛らしい奴と思っていた。いいや、彼はその温もりが薄情で狡猾な自分にないものだと、そんな彼が未だかつて周りから享受もしたことないものだということを理解した上で、本来ならば渇望しても良いそれを拒絶したのだ。ただの格好つけだったのか、はたまた照れ隠しなのか、それとも本当に性分が受け付けなかったのかは分からない。だが、彼が未だにその事をこうして回顧していることが既に何かを物語っている。しかし彼はそのことに気付かない。それとも気付きたくなかったのかもしれない。
そして彼はMを拒絶した。無視は可愛いもので、陰口さえ言って回った。元々陰湿で狡猾な質の彼のやることなど、このようなものだった。Mもそれを聞いてか、はたまた感じ取ってか彼とは距離を取り始めた。しかしながら彼はあまりにも可哀そうな奴だった。彼はMに拒絶されることに悦びを見出したのだ。彼はMのお人好しに付け込んだ。じわじわと嫌がらせをした。しかも狡猾なことに、彼は決して他人から非難されないよう理論武装を欠かさず、Mをつけ狙った。
高校2年生を迎えるころにはすっかりMと彼が話すこともなくなっていた。両者の間には空虚とも微妙とも剣呑とも錯綜とも言える感情が漂っていた。
だが、彼は事実としてMを求めていた。Mと一緒のクラスになることがなかった彼はMと同じクラスの奴にちょっかいをかけに行ったり、部活のない日の帰りが早いMと同じ電車に乗ろうと、早めに帰宅しようとした。運がよくて、たまたま同じ電車に乗れた際にはそれだけで彼の心は満たされた。しかし、彼の表情はその充足をおくびにも出さず、冷たい視線をMに送るだけであった。
それでよかったと半ば本気で思っていた。そうでなくては、自分の中に渦巻く身を焦がすような渇望を薄情で狡猾な自分が抑えられなかった。そうでなくては、今までのそれに従い続けてきた自分を否定してしまうからだ。彼は自分が可愛かった。少なくとも高校2年生の夏まではそのように願っていた。
高校2年生の夏の合宿、未だに不思議なことだが、彼とMとは事情が違ったものの、仲違いしていた部活内の別の2人が関係を修復したというのだった。彼は些か理解できなかった。一度離れた人間の心を再び掌中に収めることなど、彼の中では原理的に不可能であるべき事象だった。それは、彼の「自身」を脅かした。しかし、彼の目の前でその2人の内の一人がアンニュイに天井の隅を見つめて語ったのは、関係を修復させたことによる安堵であった。彼にはその感情が理解できなかったし、しなかった。だが、彼が混乱しているさなかにその一人の口からはMについての話も飛び出した。瞬間、彼は理解を放置し、Mの話題に耳をそばだてた。その時、端には彼とその一人しかいなかったのに、異様なほど彼はその話に夢中になっていた。それは彼自身の意志ではない筈だ。その筈であった。曰く、Mは暫く前から二人の違和感に気付いていたという。二人が数年振りに会話し、関係を修復させた合宿の2日目の時点での2人の様子に違和感を覚えていたと、少なくとも彼の目の前にいたその友人はかく証言した。
その情報は彼に屈辱を課した。それはMの繊細な感性に嫉妬したからだろうか、それともMがそこまで人間的であるのに、そのことを彼は知らなかったからだろうか。いずれにしろ彼は憤った。表情や行動にその激情を示す程馬鹿ではなかったが、事実非常に苛立って仕様がなかった。だが、彼は同時にMの豊かな人間性に悦びも抱いていた。彼は自分にないものをMが当たり前のように持っていたことに、非常に感動したのだった。長い断絶を経て、最早Mの行動どころか人格すら把握が困難になりつつあった彼にとってその情報は千金に値したのだった。
彼は悶々とした。彼もMと関係を修復させるべきなのだろうか。彼は悩んだ。今まで人間関係において悩もうとしてこなかった、というより悩むような暇を惜しんだ彼は今まで体験したことのない障壁に完全に参ってしまっていた。たった一言でも謝罪を申し出ればいいことが頭で理解できても、彼の精神が強く拒絶するという事実に彼自身が疲れようとしていた。それは全くの甘えだった。だからこそ、狡猾な彼は文化祭を目途に仲直りしようと考えた。しかし、それは当然ながら彼自身とMに対する、同情の余地などない降参であった。だが、いやしく愚直に彼は思案した。共通の友人などを通して嘗ての自身の行動を顧みようとし、どのように謝ろうかと、そしてあわよくば友人にでもなれまいかと考えていた。いや、願っていただけだ。考えていたわけではあるまい。
その上でやはり、彼は何処までも卑怯だった。彼はMに身一つで切り込む勇気など持ち合わせていなかった。彼は謝罪の際に『切腹最中』でも買って渡そうかと考えていた。愚かだが、彼は実利によって人間関係における自らの誠実さを示せると信じていた。そして、そこまでしなければ彼はMとの関係を修復出来ないと考えていた。いや、今思えば狡猾な彼はMのお人好しに付け込み、金品で謝罪を申し出た彼をMが拒否する訳がないと算段し、Mの退路を断とうとしていたのだ。彼はどこまでも弱い人間だった。その弱さ故に、赤穂浪士の威を借りて周到な算段を踏もうとしていたのだ。
文化祭の前日準備の帰り、学校から最寄りの駅のホームで彼は意を決してMに切腹最中を持ち出し、今までの非礼と仲直りをしたい旨を、口ごもりつつ、だが恐ろしい程目を見開きながらMの眼を見つめつつ言い渡した。Mは突然のことに鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。彼はこれで自分の胸の内は晴れると思っていた。そしてMの反応を彼は待った。随分と周囲の学生の声が大きく聞こえたように思えた。文化祭を明日に控えた学生の熱気が自分を覆っているのだろうかと彼は考えてみたりしていた。彼はどこまでも弱かった。
だが、Mの答えは彼にとって意外なものだった。いや本来ならばMの性格からそれは一般的に予想できたはずだったが、狡猾な彼には予想だにできなかったものであった。Mはなんと『切腹最中』を受け取らなかったのだ。「気持ちだけで十分」と。そう言ってMは来た電車で一足早く帰った。彼は一本遅れた電車に乗った。
再び彼は屈辱と悦びを感じた。MがMたる事実を目にして身が震えていた。
翌日、文化祭の1日目も彼は切腹最中を持ってきていた。そして彼は、前日と同じ帰りのホームにてMに再びそれを突き出した。彼は複数種類の作戦を用意できる程、器用でなかった。故に、最後は愚直に押し売りのような真似をするしか出来ることは残されていなかった。その姿が滑稽だとは彼なりに分かっていた。彼は馬鹿じゃなかった。
Mは前日と同様、しばらく逡巡した。何度、お互いに気を使いながら断っただろうか。しかし彼に押し切られたのか、Mは結局その『切腹最中』を受け取った。紙袋に入ったそれがMの白く細い手に渡った瞬間、目が焼けそうな感覚に襲われそうになった。その日もMは彼より一本早い電車で帰った。
その日の帰途、彼は安堵していた。そして初めてMに勝利した気分になり、その勝利に酔いしれていた。彼はどこまでも弱かった。彼はMというお人好しな人間にすら勝てたことのない人間であった。しかし、彼は大将首でも取ったかのような気分で有頂天となっていた。その姿は滑稽であった。どこまでも可哀そうな人間であった。
翌日、彼とMは話すようになった。それが二言三言でも、両者にとってはあまりにも多過ぎた。彼はMと話す度に悦びを感じた。Mの美しい顔を、綺麗な声を自らの眼と耳で間近に知覚する悦びは、およそ3年の時を経て最大限まで引き上げられていた。
その日の夕方、文化祭がその日程を終え、片付けに皆が追われる中、彼はMに呼び出された。何事かと心を躍らせた。彼は少なくとも、自己の利益に対する嗅覚はいまだに冴えていた。Mのお人好しとその日の様子からして、彼に都合の悪いものではないと、彼の中の冷静な部分が告げていた。そして、確かにその推測は当たった。しかしながら、彼はある点でMを見くびっていた。
Mは彼と正対し、紙袋を差し出した。紙袋は、大きさは昨日彼が渡した『切腹最中』と同じものであった。しかし、色が違った。何事かと彼は混乱した。Mの意図が読めなかった。彼が逡巡していると、Mは受け取ってくれとその紙袋を再び彼の前に差し出した。曰く、昨日に彼に渡された紙袋を家族に見せ、所謂「家族会議」のようなものをしたという。その会議の結果、今彼の目の前にある紙袋に入った菓子折りを昨晩すぐ買ってきたという。
彼は唖然とした。信じられなかった。理解できなかったのだ。彼の家は家族単位で話し合いなどしないし、恐らく終生そのようなことは真似事にしても不可能だろう。父と母が同じ食卓を囲むだけで緊張が走る彼の家においてそんな芸当は文字通り有り得なかった。それは彼にとっての「当たり前」が目の前の、たった一人のお人好しで誰よりも美しい人間に崩されかけた瞬間であった。彼は相変わらず理解出来なかった。しかし、同時にある一つのことだけを理解した。
Mは彼の知る世界にいなかった。Mと彼は、本来ならまともに巡り合わず、そもそも環境からして思考のプロセスが根底から異なっていたのだ。彼は痛感した。いや、そう寧ろ、既に彼はそのことをそこはかとなく感じていたのだ。彼とMとの間の溝は、ただの人間関係におけるそれを超え、より根深く、そして不可逆的な要因によるものだと。
だが、彼は認めたくなかった。彼は彼の思っている以上に、彼に希望を見出そうとしていた。彼の中に露が落ちる日が来ることを、誰よりも待ち望んでいたのは彼自身だった。彼は、しかし、幻滅していた。あまりの非情でシンプルな現実に彼は打ちのめされていた。目の前のお人好しな能天気のガキに、自分は一生近づけない。イカロスが太陽の翼を焼かれたように、今まさに彼は誰よりも絶望し、誰よりもその太陽と自分の愚かさを恨んでいた。
その後、Mと彼が喋ったのは数えるほどしかない。彼は完全にMに辟易していた。自分にも、Mにも嫌気が差した。しかし、否応なくMを見るたびに目線を追ってしまう。彼の体に、彼という人間に未練があるのだという事実は、彼を引き裂かんとした。だがその苦痛も、いつしか和らぐこととなる。いつだって彼は彼の狡猾さと薄情さを俯瞰し、彼という人間を冷静に構築していた。そのことは誰よりも、そう誰よりも、彼自身の知る所であり続けていた。
ほどなくして部活が終わり、いよいよ文理で進路が分かれていたMと彼は一度も話さなくなった。そして高3を迎え、各々が受験戦線に身を投じ、かつてのことなど忘却の果てに追いやっていた。
高3の3月、彼は第一志望校に合格した。彼はこの1年を通じて一貫して冷静だった。いや、本当のことを言えば生来の不安定な気性が災いしたこともあったが、しかし彼は自分に足りない部分を着実に見極めつつ埋めていった。それが功を奏し、彼は自分の人生において再び思い通りコマを進めた。
ふと、Mのことが気になった。Mはどうなっただろうか。今なら同じ受験の労苦を味わったものとして、また違う形で語れることもあるかもしれない。そう思い、彼はLINEを開き、Mにメッセージを送った。
大学1年の3月、心地のよいその日まで返信は来ていなかった。自分が大学に合格してから丁度1年のこの日、彼はもしやと思っていた。彼は自身が焼かれた太陽に、再び焼かれようとしていたのかもしれない。彼の嗜虐性は自身にすら牙をむいていたのか、それともあの日間近にした太陽の美しさに、どうしようもなく彼自身が憑りつかれてしまったのだろうか。
メッセージが届いた。Mではなかった。彼の友人からであった。なんとなしにメッセージを覗くと、Mは1年越しに志望校に合格したという。その大学は彼と同じ、赤門のある大学であった。
またあの日から半年が経った昨日まで、未だに彼はMとの邂逅を果たしていない。
そして彼は今、目の前にいるその懐かしい姿に心の底から驚嘆し、同時に感謝していた。ただ彼はその目を見つめ、こう話しかけた。それは、あの日から変わらない、彼の意志であった。
ありがとう
そして金輪際、俺の目の前から消えてくれ
彼はその時、太陽のような笑顔を浮かべていた。
「M」さん視点の話は書けません。友人なりに「彼」への義理立てとして、あくまで「彼」の視点でしか話さないという姿勢を私も尊重しました。(私も友人も「彼」とは親しかったですが、「M」さんとはあまり喋ったこともありません。)
兎にも角にも、ここまで読んで下さりありがとうございました。