山登りの遠足なんだが?
秋。十月二十六日。この日は山登りの遠足。自然を楽しむというのはとてもいいことだ。我々人間は電子機器に頼りがちで自然というものを時折忘れてしまうことはないだろうか。
自然があるからこそ、今の現代が築けている。大地があるから森ができる。森の中には木がある。木はカラクリを生み出し、やがてはそれが機械と呼ばれ、電子的要素も合わせて電子機器になる。常に自然に我々は助けられている。
だからこそ電子機器への感謝はもちろん、自然にも僕は敬意を払っている。
だから僕は自然が好きなんだ。そしてこの山登りという日をずっと楽しみにしていた。
こいつさえいなければ……!
「なによ」
「別に」
今回の遠足は男女二人ペアの一組になって行われる行事となっていて、僕のペアは美沙。もちろん僕がなりたいはずもない。かと言って特別なりたいやつもいない。どいつもこいつも思考が子供みたいな奴らが多くてなりたいやつはいなかった。
そうしたうちにいつの間にか一番なりたくな垢美沙となっていた。省略しすぎたな、訂正しよう。美沙が僕に声をかけたんだ。
なんて声をかけてきたと思う?
「なんで僕とペアになったんだよ」
「はあ? だからあんたが童貞臭ぷんぷん匂わせて誰ともペアがいないから、可哀そ〜だからなってあげたって言ってるでしょ!」
この一言である。何を言うかこの女。先生が「ペアを組みましょ〜」って言って五秒も経たずに話しかけにきたくせに。
僕はと言うと、断ってその場で色々言われるとだるいからペアになった。いわゆる仕方なくってやつだ。
「なんだと! 小学生なんて童貞がほとんどだろ! あれ? もしやお前、シゲ爺の言っていたツンデレってやつか! そうかそうか、本当は僕のことが好きで好きで仕方がなくて僕に声をかけたんだな! なーんだなーんだ!」
「……は? あんた気色悪すぎるでしょ……前々から気色悪いと常々思っていたけど、そこまで気持ちが悪いとは思わなかったわ。ごめんなさい、別格な可哀想な人だと認知していなくて。謝るわ」
目を大きく見開かせて他は真顔。これ絶対ツンデレじゃないわ。そして慣れてはいても少しだけメンタルがやられた。
「隆はダイレクトアタックをくらった……」
僕は膝をついて四つん這いになった。
「さっさと行くわよ。ほんとあんた遅いわよね」
「う、うるせえ!! 僕の方が速いんだよ!! うおおおおお!!」
僕は走り出して美沙から五メートルほど全力疾走した。美沙とは五メートル距離が空き、美沙の方を向く。息切れを起こし、中腰で息を荒くしている自分がそこにはいた。
「ど、どう……だ……はあ……はあ……はあ……あああ〜……」
「だっさ。さようなら」
僕に歩きながら追いついたかと思ったら、見向きもせずに僕を追い越していく。
「待ってくれえええ!!」
美沙の背中を追って走り出した。美沙とはここの山を登るだけですでに十回は喧嘩をした。止まりながら喧嘩をしていたこともあり、最後尾は僕ら。というか僕。
こういうのは大体後ろに教師がつくはずだろう? その教師は途中の階段で足を挫いてリタイアしたよ。歳のかなりのおじいちゃん先生で、まだ登り始めたこともあって、どの先生にも気が付かれずに登らずにそのまま降りて行った。
携帯は持っていないみたいだから知っているのかどうやら。何より歳だ。ボケてなんで降りたのかも伝え忘れていたりな。
でも後ろにいないということは、どれだけ遅れを取ろうが何も言われないということ。もちろん迷惑をかけなければいいだけの話。
すでにかけているかもしれんが。
そんなこんなで喧嘩しつつも僕らは山の山頂に着いた。
「おおっ……! 絶景……!」
「そうね」
目の前に広がるのは生い茂った木々たち。鳥たちが鳴き、小さな虫たちも鳴いている。この中に妖精がいると言われても信じてしまうほどにそれはもう綺麗だった。
美沙も心なしかいつもより少し笑顔。いつもこういう顔してれば少しは可愛く見えるのに。本当にもったいない。
「山と岳の名称の付け方って知っているか?」
「付け方? 定義という意味ではないんじゃない?」
独り言のように呟いた言葉に美沙は意外にも普通に返事をした。これは会話ができるチャンスなのでは? 僕とてこいつと仲良くしたくないわけではない。幼なじみであれば仲良くしたいと思うのは当然のこと。
ならいい機会じゃないか。
「定義はないんだ。でも、基準はある」
「基準? わかった、山に生えている木とか!」
「違うね。山は平地に比べ高く盛り上がっている地形のことを言って、岳は山が連なりそびえるさまを表していているんだ。ちなみに峰は尾根の突き出した部分のことなんだよ。たまに山頂のことを言うみたいだが」
というのをこの前テレビでやっていた。
「そうなんだ。詳しいのね、あんた」
「まあな」
ポケットに両手を突っ込んで森を少し目を瞑って眺める。その光景を美沙の視線で感じ取っていた。いつもなら「そんなのがかっこいいと思っているの? まるで、深海五百メートルに溺れているのに、それを平然と装っている将来ダイバー志望の高卒したてのイキリ学生みたいね」とか言うかと思ったが、笑わなかった。馬鹿にしなかった。
もしやあれか? 自然の力ってやつか? 自然に囲まれていれば人の心は安らぐってやつで、今だけこいつは優しくなっているみたいな。
それでも、例えそうだとしても、このいっときは忘れたくない。
その後、僕らは下山することにした。下山のルートは先程の道を辿るのではなく、もう一つ安全に下山できる場所があるという。
ただ、間違って森にでも入ったりすれば山犬にでも肉を引きちぎられるかもね。そんなこと、余程のことがなければないだろうが。
しかし、いくら歩いても帰りのバスが見えるどころか人一人見えやしない。道は合っているはず。ただ、何にも遭遇しないことが僕らの不安の煽りとなっていた。
「あんた、もう少し早く歩けれないの?」
「僕は疲れた。運動神経はお前の方が上なんだから体力も足の速さも僕の方が劣るに決まっている」
実際、山頂のところからずっと歩きっぱなし。それどころか、バスを降りてから山頂まで休まずにきている。僕が疲れるのは当然。運動神経のいい美沙が歩けるのもまた当然の話。僕が責められる義理はないはずだ。
「あんたねえ……! あんたがそんなんだからみんなに置いて行かれたのよ……!」
美沙はあろうことか、怒りながら僕に言いがかりをつけてきた。不安で感情がコントロールできなくなって怒るのはわからなくもない。だけど、僕に当たるのはお門違いだろ。
「なんで僕のせいなんだよ! 遅れたのはお前が僕に対して文句ばかり言うから揉めて遅れたんだろうが!」
「はあ!? 揉めたのはあんたが訳のわからないこといい出すからでしょうが! 元はと言えばあんた、いつもいつもなんなの!? 気色悪いし、男として頼りない! 見ているだけで腹が立つのよ!」
「よく言うよ! お前だってそうだろ! いつも威張ってばかりで話しかければ無視か罵倒の二択! さっき少しでも仲良くなれたと思った僕が馬鹿だったよ! もうお前との馴れ合いもうんざりだ!」
「こっちはあんたのことなんてとっくの昔からうんざりだっての! さっきのこと? 残ねえええん! ぜえええんぶ演技でしたあああ! あんなの、あんたの気分のいい顔を見た後にこうやって落とすのを見るためにやったお芝居でしたあああ! ぶあああかあああ!!」
その言葉で僕の中の何かが切れた。大切にしていた硬い白い糸くずが切断されたような絶望感。もういい、お前がその気ならわかった。
「てめえ、いい加減にしろよっ!! お前のそういうところが嫌いなんだよっ!! 人の感情を弄ぶって、貶して罵倒して捻り潰してっ!! もう僕に関わらなっ!! お前なんか大っ嫌いだっ!!」
言ってやった。言ってやったよ。今までたくさん喧嘩した。だけど僕はこの時初めて、「嫌い」という言葉を初めて言ったんだ。清々しい気分のはず。でも、どこか胸が痛んだ。
そんな僕の心の痛みを偽るかのように頭の中では「清々した」という言葉が何度も繰り返されて塗りつぶしていった。
「な、なによ……そこまで言わなくてもいいじゃない……なんでそんな……ううっ……」
美沙は泣き出した。目から涙を何粒も溢して泣いた。なんだよ、僕が悪いのかよ……僕が全部悪いのかよ……おかしいだろ、こんなの……
僕から距離を置こうと、後ろを見ずにどんどん後ろに歩いていく。
「うううっ……ううううっ……うううううっ……――え……?」
「危ない……!!」
それは本当に一瞬の出来事だった。美沙の足場には道はなく、崖だった。そして崖があるとも知らずに美沙は足場なき踏み場へと歩を進め、後ろ向きに落ちていった。
「あああああっ……!!」
「美沙あああああっ……!!」
走って手を伸ばしたが、僕が崖についた頃には美沙は何メートルもの深い闇に落ちていった。
声はどんどん遠のき、美沙の姿はとうとう見えなくなった。僕の叫びも届かず、何も返ってこない。
なんなんだよ、なんでこうなるんだよ……