追憶・青天の霹靂
悪魔のような早さで燃え広がり、木々を焼き焦がす猛火に巻かれ、フロース姉妹は絶体絶命の状況下に置かれていた。
「ね、姉さま… どうすれば… わたしのせいで森が……」
「落ち着きなさい、エリス。 貴女だけのせいじゃないわ。 それに後悔なんて後ですれば良いの。 今はこの状況を何とかする方が先よ」
先の闘いに於いて、勇気と知恵を持って巨獣を討ち倒したフロース姉妹にも、足りていないものが一つあった。 それは強大な力を持つ者としての自覚。 強すぎる力を無自覚に行使すれば、必然的に周囲に破壊と混沌を振り撒く事になる。 それを理解するには二人はまだ幼く、また圧倒的に経験が不足していた。
「水の魔力さえ生成出来れば……」
「出来るはずよ、私達なら。 母さんが言ってたでしょう、百合力は全ての属性に変換可能だって」
確かに魔術理論上は、フロース姉妹はあらゆる属性の魔法を行使できる。 しかし、魔力変換は一朝一夕で身に付くものではない。 ましてや、始めての闘いを終えたばかりの、消耗しきった姉妹には余りにも困難であると言えた。
「私とエリスの水属性魔法を最大出力でぶつけ合って、周囲に拡散させればこの程度の炎、一瞬で消せるはずよ。 とにかく集中してイメージするの。 清んだ泉を、冬の冷たさを、降り注ぐ雨を……」
フロース姉妹を取り巻く熱波と炎は、水のイメージを妨げ、魔力変換をより困難なものとする。
「あうっ、姉さま…」
既に炎の波はフロース姉妹が身動きをとるのが困難な程に、目前まで迫っていた。 リリアは妹を炎から守るように抱き締める。
「ごめんね、エリス。 お姉ちゃんがしっかりしてないから… 絶体守るって約束したのに……」
「姉さまは悪くないですわ… それにわたし、姉さまと一緒なら恐くなんてないですわよ? わたし達はこれからもずっと一緒です、姉さま……」
フロース姉妹の物語はこんな所で終わってしまうのか? 否、その時である!
「森のど真ん中で火属性魔法をぶっ放すとは… やるじゃないか。 流石は私の娘達だ 」
絶望的な状況下に朗々と響き渡る、凛とした声。
「もう大丈夫だ、 後はお母さんに任せなさい!!」
レヴィは堂々とそう言い放ち、天に向かって手のひらを翳すと、魔法を唱えた。
「千の落涙!」
紡がれた言の葉は水の魔力を集め、雷鳴を轟かす嵐雲を形成する。 瞬く間に青天は陰り、局所的かつ集中的な驟雨を大地に叩きつけ、 猛り狂う炎を洗い流す。
もうもうと蒸気が立ち込める中、金色の髪を雨粒で輝かせながら、“帰らずの森の魔女"は二人の娘の前に姿を現した。
「良く頑張ったね。 リリア、エリス。 遅くなって本当にすまない…… 」
レヴィは既に、フロース姉妹の身に起きた出来事をあらかた把握していた。 結界の一部が破られた事を早々に感知した彼女は、姉妹の身に危険が迫っている事を知り、二人の下に奔った。 その道すがら、レヴィは森の中で火の手が上がるのを発見し、今に至る。
「母さま、母さまぁ〜!」
極度の緊張状態から解放されたフロース姉妹の心は、限界を迎えていた。 しかし、それも無理からぬ事である。 どれだけ気丈に振る舞おうと、二人はまだ十四歳の少女なのだ。 今の彼女達は絶対的な安心感を与えてくれる、母親の存在を必要としていた。
「もう大丈夫だ。 さあ、母さんと一緒に家に帰ろう」
リリアとエリスは堪らず、泣きながら母親に縋りつく。
「ひっぐ、…母さまぁ…」
「母さんのばかぁ! 遅いよぉ…」
「あははっ、二人とも本当に泣き虫だなぁ」
「泣いてないわよ! 雨が降ってるだけなんだから…」
「もう止んでると思うんだが… まあそういう事にしておくか」
かくしてフロース姉妹の初めての闘いは終わった。 無事に家に帰り着いた姉妹を待っていたのは、「死ぬほど心配したんだよ〜!!」 と、飛び付いてくるもう一人の母、オリーブであった。
「ほんっとぉに良かったよ~! リリア、エリスぅ~!」
「オリーブ、私の心配はしてくれないのか?」
「元はと言えばレヴィが馬鹿なこと言い出したのが悪いんでしょ~! それにレヴィなら何かあっても大丈夫そうだし!」
姉妹との扱いの差にやや涙目になっているレヴィを尻目にオリーブは、リリアとエリスを抱き締める。
「二人とも痛い所はない? お腹すいてるよね? おっぱい飲む!?」
「わたしと姉さまは大丈夫ですわ、怪我も少し火傷したくらいで…」
「そうそう、樹を燃やしちゃった時に少しだけね」
「樹を、燃やした?」
それは木の精のオリーブにとって、最大級の禁句である!
「良く聞き取れなかったよ~? もう一度言って? 樹を、燃やしたって言ったのぉ?」
オリーブの顔から、いつもの優しく朗らかな表情が消失した。 尋常ならざる空気にフロース姉妹は思わずあとずさる。
「あの、オリーブ母さま?」
オリーブはその、蔓のような髪をうねうねと蠢かせながら、フロース姉妹に迫った。
「まって! まって! オリーブ母さん、あれはその… やむを得ない状況で!」
「そ、そうですわ! どうしようもなかったのですわ!」
「例えそうだとしても~樹を燃やした罰は受けなきゃ、だよねぇ?」
オリーブは蔓の様な髪を器用に操り、フロース姉妹を拘束し、くすぐり倒す。
「うひゃうっ!? ちょ、まって、まって! かあさっ、うひゃはっはっはっは! だめっ、これだめなやつ!」
「はひぃぃっ!? かあさまっ、やめっ、ひぃやぁ、やめて、アハハハハ! うひゃっはっはっは!! やめぇ!」
リリアとエリスは余りのくすぐったさに、恥も外聞もなく笑い転げる。 たかが、くすぐりと侮ってはならない! 拘束した上でのくすぐりは、古来から拷問として用いられてきた歴史がある。 長時間のくすぐりを受けた者は、よくて発狂、最悪の場合は廃人となる事もあり得るのだ!
「かあしゃまぁ、もうりゃめですのぉ! やめてくだしゃいましぃ……」
「かぁしゃん、ほんともうだめらかりゃぁ! ゆるひてぇ!!」
「だ〜めっ! 森の樹を燃やしたら、くすぐりの刑をもって贖いとするって、昔から決まってるの〜!」
全身をぴくぴくさせながら、呂律の回らなくなった口で許しを請う姉妹を、尚も責めたてるオリーブ。
「あのー、オリーブ? そのへんで許してあげたらどうかな? 二人ともすごーく反省しているみたいだし……」
「なぁ〜に? レヴィも一緒にくすぐられたいのぉ?」
オリーブの眼にはいつの間にやら、妖しい光が宿り、表情もそこはかとなく妖艶さを醸している。
「えっ、遠慮します!」
フロース姉妹はその日、森の木々の大切さと、くすぐりで人が殺せるという事を学んだ。 あと母オリーブの隠された嗜虐嗜好などについても。
◇◇◇
「今日は一日中、酷い目に合いっぱなしだったわね……」
激動の一日を終え、寝床に着いたフロース姉妹は、今日という日を振り返る。
「なんかオリーブ母さんのお仕置きで色々ふっ飛んじゃったわ」
「なるほど、あれはオリーブ母さまなりの励まし方だったのでしょうか?」
「エリス… それは、ちょーっと好意的に解釈し過ぎだと思うよ?」
図らずともオリーブのくすぐり刑は、死の恐怖を幾度となく味わったフロース姉妹の心を癒していた。 人は無理矢理にでも笑えば元気になるものである。 もっとも、トラウマを別のトラウマで上書きした感も否めない訳だが。
「魔物を倒したとこまでは良かったのに… 結局、母さんに頼ってばかりね……」
「そんな… 初めてにしては上出来ですわ。 あんなに大きな魔物を倒したなんて、わたし信じられませんわ」
フロース姉妹が倒した森滅ぼしの巨獣は、中級冒険者が何人束になろうと太刀打ち出来ぬ程の強敵であり、初陣にて倒せる相手ではない。
しかし、曲がりなりにも姉妹が勝ち得たのは、百合魔法使いとしての資質だけでなく、幼き頃からレヴィの戦闘訓練を受け、高純度に濃縮された魔力と森の活力を含む、オリーブの蜜を与えられて育った事に起因する。 つまりリリアとエリスは、二人の母親の大いなる愛に守られているのだ。
「私とエリスなら絶対、全ての竜を倒せる。 そしたらこの森に帰って来て、また母さん達と一緒に暮らそう!」
「ええ、もちろんですわ、姉さま。 その為にも、もっと修業を積んで強くならないと、ですわね!」
決意を新たに意気込むフロース姉妹。 しかし、睡眠の欲求には勝てないようで、姉妹はゆっくりと深い眠りに誘われていった。
次の日、早朝に目を覚まして朝食を食べ終えたフロース姉妹は、二人がかりでレヴィとの戦闘訓練に臨んだ。 巨獣を倒す程に成長した姉妹にあっても、母レヴィは依然として超えられぬ壁として立ち塞がっている。
「さぁて、今日こそレヴィ母さんに目にもの見せてあげる!」
「レヴィ母さま相手にどこまで通用するでしょうか……」
レヴィは両手に訓練用の剣を構えてフロース姉妹を待ち受ける。
「殺す気で来なさい。 そうじゃないと遊びにすらならないからな」
「では遠慮なく行かせてもらうわ!」
「胸をお借りします、レヴィ母さま!」
フロース姉妹はレヴィに対して左右同時に斬り込んだ。 火花を散らして、金属がぶつかり合う鋭い音が響く。
レヴィは、左右から繰り出される多種多様な斬撃を軽々と受け止め、受け流す。 余りの実力差故か、まるで子どもと戯れているかのようだ。
「こんなものか? もっと本気で来い」
フロース姉妹の連撃を受けきったレヴィは、リリアに対して反撃の刃を振るう。 切っ先が揺らいで見える程の速さで横薙ぎを一閃。 受け止めた剣ごと破壊しかねない凄まじい一撃である。
「うっ、ぐぅ」
リリアはその反撃をどうにか受け止めたものの、剣の方は無事では済まない。 全く同じ武器を使っていても、込められた魔力の量が段違いであり、リリアの剣は粉々に砕かれていた。
「さてと、一人になってしまったな。 エリス?」
レヴィの鋭い眼光にエリスは一瞬怯んで後ずさるが、勇気を振り絞って大きく踏み込もうと、脚に力を込める。
「…… 遅い」
レヴィは剣の柄頭を二本の指先だけで掴み、神速で振るう。 尋常ならざる指の力により可能となる絶技だ!
本来なら届きようもない間合いからの不意打ちに、エリスは反応出来ずに剣を弾き飛ばされ、手のひらには痺れる様な感覚だけが残った。
「参りましたわ。 レヴィ母さま…」
「レヴィ母さん、強すぎ…」
肩で息をする姉妹とは対照的に、レヴィの呼吸は一切乱れない。
「リリア、エリス。 もっと強くなれ。 大切なものを守れるように。 どんな理不尽にも負けぬように」
レヴィは二人の娘に自らの持ちうる全てを伝えようとしていた。 過酷な世界を生き抜く術を。 竜さえ殺しうる業を。 強さの持つ意味を。
この世界に変化しないものなど何一つとしてない。 全てのものは流転し、うつろいゆく── 故に次代を生きる者に託そうとするのだ。 自らが存在していた証を。