悪魔のささやき
※ほぼ童話のようなショートショートです
ある国に、『命より金が大事だ』と豪語する呼ばれる商人がいた。
他を蔑ろにしているわけでもないが、周囲から『金の亡者め』と蔑まれるほど金に関してはうるさかった。
しかし、商売以外の暮らしは意外にも普通で、恋も普通にし、間に普通の娘一人をもうけていた。
ある日の夜遅く、そんな彼の夢の中に黒い人影が現れた。塵が集積したようなおぼろげな姿である。
「私は悪魔だ。悪魔は、行き過ぎた部分を持つ人間が大好きなのだ。
お前の大事なものと引き換えに、私がお前の願いを叶えてやろう」
悪魔の囁き、と言うには大きくハッキリとした声だった。
商人は驚き、頬をつねってみた。痛くなかったのを確認すると、ははあとした顔で『なかなか面白い夢だ』と頷いた。
たかが夢に真剣に考える必要もないだろう、男はしばらく考えるフリをしてから、さっと答えた。
「金に困らない生活がしたい」
と軽く答えると、悪魔はニマリと笑った(ような気がした)。
「私が目を付けた通りだ。金に不自由していないのに、更に金を求めるとは。
いいだろう、その願いを叶えてやろう。願いが叶った時、大事な物を頂きに参ろう」
悪魔はそう言うと、すっとかき消えた。
その翌朝、商人は変な夢だったと僅かに気にかかったが、二日、三日……と時を経るごとに、そんな夢を見たことはすっかり忘れてしまっていた。
◇ ◇ ◇
それから数年、商いは順風満帆であった。
彼の働きぶりに感心した富豪は、『娘を嫁に欲しい』と申し出てきた。
男は願ってもないと、二つ返事でそれを承諾した。
しかし、彼が店を構える国は順風とは呼べなかった。
ある日、つまらぬことで隣国と仲違いし、戦争をし、大敗北を喫してしまったのである。
領主は死亡し、その一族も悲惨な末路を辿ったようだが、決して良いとも言えぬ領主だったので、どうでも良かった。商いにも損害は出たが、国に漂う悲壮感ほどではない。
ただ単に国を治める者が変わるだけなのだ。むしろ逆に、『早く来てもらわねば金にならない』と憤るほどであった。
「そなたの娘を差し出したし」
新たな領主がやって来た時、その見解は間違っていたと気づいた。
領主の大臣と名乗る者が彼の店を尋ね、強引に娘を連れ去ってしまったのだ。
何でも領主の息子が、彼の娘に一目惚れしたらしい。
泣きわめく娘の手を握っていた彼の手には、ずしりと重い金貨袋が握らされた。
◇ ◇ ◇
商人は嘆きに暮れた。
暗い家には不幸が舞い込む。結婚を約束していた富豪の家は、カンカンに怒り、その怒りの矛先が店に向けられた。『金の亡者は、娘すらも金で売った』との噂もあって、店はあっと言う間に傾いた。
彼の妻も、いつからか家からいなくなっていた。
空っぽになった家には、満ち満ちた水以外何も無くなっている。
領主は悪魔だ――その時になり、彼はやっと夢を思い出し、気づいた。
――大事なものを頂く
本当に大事だったのは家族であり、金はその次だったのだ、と。
しかし、気づいた所でもう遅い。
店が潰れたと知ってか、領主から毎月決まった日に金貨袋が届けられるようになったが、彼はそれを使う気にはなれなかった。
空になった食料庫や、貯蔵用の瓶にそれを放り込み続けた。
◇ ◇ ◇
それから一年半ほどが過ぎ、店は廃墟同然のようになっていた。
過去を知る者は、初めこそ『いい気味だ』とほくそ笑んでいたものの、今では同情的な目を向けている。
見かねて訪ねる者もいたが、彼は人との関わりを絶っていたため、会うことは叶わなかった。
金にめっきり興味を失ったのか、店のたたき土間には『好きに持って行けと』言わんばかりに、あふれんばかりの金貨で満たされた水瓶が置かれている。
しかし、誰も持ってゆこうとはしなかった。新たな領主となってからと言うもの、国はみるみる潤い、それに伴って国民の暮らしは豊かになってゆく。そして、商人の連れ去られた娘は、誰もが羨むほど幸せな暮らしを送っていたのだ。
彼が孤独と絶望にあえいでいるのに反し、国はどんどん幸せになっていた。
ある日、彼の下に一通の手紙が送られてきた。
訝しんだのもつかの間、その差出人・どこかに消えた妻の名前を見て、大急ぎで封を切った。
目を皿のようにして綴られていた字を追ったかと思うと、彼は取る物を取らず、手紙だけを握りしめ、裸足のまま領主がいる屋敷に向かって駆けていた。
それを見た周囲の者は、『やっと気づいたのか』と安堵の息を吐いた。
彼の妻は領主の館にいて、幸せ絶頂の娘のお腹には初孫がいるのだ――と。
◇ ◇ ◇
その直後……空っぽになった店に、黒い影が現れていた。
「おや、入れ違いだったか――。
まあいいか、私はあいつの大事な物を頂ければいいのだから。
さて、このお金をどう運ぶとしようか」